最初は風邪か栄養失調かと思った。
 ほんの少し夜更かしをしていた自覚はあったし、
 ときたまに食事を抜いてた様な記憶もある。

 でも、ちょっと体調が悪いかな? と思ってた程度だったのが、
 いきなり意識がブラックアウトするなんて、やっぱり考えないだろう。

 まぁそんなこんなでワタクシは、受験を控えた身で絶賛入院中だったりする。


*進路希望第三項目*






ちゃんオハヨー。具合はどう?」
「菊丸センセーおはようございます。とりあえず今日の採血も痛かったです」
「あっはっは、そっかー」


 笑い事じゃないです、とふくれる。
 けど、髪をぐしゃぐしゃと撫でられてそれはそのまま抗議の声になった。
 あーもう、一応ちゃんとセットしてるのに!!

 私の主治医、菊丸英二先生。
 とっても若いお医者様で、最初挨拶されるまでは研修生の先生かと思ってた。
 気さくに話してくれる人で、お医者様とは思えないくらいとても話しやすい (誉めてるよ?)。
 普段はニコニコ笑顔で、時々ドジもやっちゃってるみたいだけど
 私が救急で運ばれてきたときはものすごく一生懸命で真剣な表情だった、らしい (覚えてないけど)。


「毎日大変そうだね〜。受験勉強」
「大変ですよー。この頃ドタバタして遅れた分、ちゃんと取り返さなきゃいけないし」
「よく頑張ってるよねぇ。頑張り屋のちゃん好きだよ〜」
「頑張らなきゃ志望校受からないですから。第1・第2志望しか出さなかったから。高校浪人なんてヤダし」
「就職は? 考えてないの?」
「この時代に中卒で就職はキツいですよ、菊丸センセー」
「あ、そんならオレんところに永久就職とか!」
「……前向きに善処させていただきますー」
「うわっ、棒読み!!」


 軽く会話を交わしつつ、問診と少しの検査を終える。
 ふっと一息ついたところで、私の身の回りを見て先生が軽く笑った。
 その視線の先には教科書・参考書・ノートの山。
 ひょいっと先生がベット横のテーブルにおかれたノートを覗き込む。
 あ、そうだ。


「菊丸先生、良かったら勉強教えてもらえませんか?」
「ん、俺? ん〜、悪いけどこれからまだ診察あるから……」
「ちょっとでいいですよっ! お医者様ってやっぱり頭いいんでしょう!?」


 ノートを先生の目の前に付きだして上目遣いの笑顔でお願いしてみる。
 先生は目をぱちぱちっとさせたあとでにかっと笑い、ノートをひょいっと取り上げた。
 そしてぱらぱらとページをめくって……眉を寄せてノートに顔を近づける。


「……センセー?」
「えっ、あぁ、うん。えーとねぇ、確かこれはこっちの公式を……あれ、違ったかな?」
「…………ひょっとしてわからない、とか?」
「失礼なっ!! そんなことないぞ! ただちょーっとど忘れしただけで……


 口をとがらせてそっぽを向いてる先生を、じーっと半眼で見つめてみる。
 視線を彷徨わせていた先生は、
 外から聞こえてきた先生を呼ぶ声にぱっと反応して、私にノートを押しつけた。


「はいはーい、俺ここでーっす! んじゃちゃん、また今度ね!!」
「あー! 先生逃げるのー!?」
「んなことないぞ! 今度時間あるときにちゃーんと懇切丁寧に教えてあげちゃうかんな!!」
「言ったね! 約束だよ、菊丸先生!!」
「おぅ!!」


 にかっと笑って手を振りながら先生は部屋を出ていく。
 直後に 「うわっ!」 とかいう先生と誰かの声が聞こえた。
 ……多分また誰かにぶつかりそうになって、今日は何とか衝突は免れたんだろう。
 なにかにぶつかるような音は聞こえなかったから、大事には至らなかったんだと思う。
 そんな風に考えていたら、看護士さんが苦笑しながら入ってきた。
 多分今回の事故未遂のお相手。


「今日は衝突事故は免れたみたいですね」
「あー、やっぱり聞こえちゃった?」
「はい、バッチリ」
さん、菊丸先生のお気に入りだから、どうしてもここの診察に時間かかっちゃうんだよね」


 くすくす笑う看護士さんの言葉に顔が赤くなるのがわかる。
 確かに先生がここに寄ってくれることは多くて。
 その度に先生を捜す声に慌ててでていくことはよくあるけど。


「先生は、患者の私が心配で見に来てくれるだけですよ」
「ん〜、それだけじゃないと思うけどなぁ」
「それだけです!!」


 思いっきり言う私がおかしいらしくて、看護士さんの笑いが大きくなる。

 どんなに頭を撫でてくれる先生の大きな手が優しくったって、
 何度会話の拍子に好きだよ、とか言われたって、
 向けてもらえる笑顔がいくらあったかくったって、
 ……診察の時の真っ直ぐな瞳がカッコ良くたって、
 菊丸先生は私の主治医で、私は先生にみてもらっている患者の一人で。
 お気に入りとかそういうのじゃない。
 ……そんなんじゃ、ない。


「それじゃさん、今日はそろそろ休んで、ね」
「んー、今日のノルマは後3ページなんで……」
さん?」
「……はーい」


 さっきとは違う笑顔でにっこり笑う看護士さんに逆らえず、
 私はテーブルの上を軽くかたづけて横になる。




 その日の夜、夢にでてきたのは、必死になって詰め込んだ数式じゃなくて、
 太陽のように明るい、菊丸先生の笑顔だった。





■■■■■





 最初は風邪か栄養失調だと思ってた。
 少し眩暈と寒気がして、時折咳がでて。
 放っておいたら関節が痛くなって、ある時急に目の前が暗くなって。

 目が覚めて見知らぬ場所で目が覚めてそこが病院だと知っても、
 少し無理がたたったくらいにしか思ってなかったんだ。


 菊丸先生に、ちゃんと病気のことを説明されたあとも。




 なんだか血液がどうの免疫がどうのと言われて、ナントカ症候群とか言われた。
 先生は私を子供だからってバカにしないで、お父さんお母さんにするのと同じ説明をしてくれた。
 でも、私には理解することが出来なかった。

 ううん、しなかった。


 だって、病気のことを理解したからって病気が治るワケじゃないでしょう?
 それよりも私には受験用の数式や年号や単語を覚える方が大切だったから。

 そうやって、一生懸命逃げてたんだ。





ちゃん、コンニチハ」
「……あれー、菊丸先生、今日は非番だって言ってませんでした?」
「そうだよ〜。だから今日はお見舞い」


 部屋をノックして入ってきたのは、見慣れた白衣じゃない、私服の菊丸先生。
 手に持った半透明のラッピングから透けて見えるのは、クマのぬいぐるみだ。

 ちょっと驚いたけど、少し笑って受け取ろうと手を伸ばした。、
 でも、先生はぬいぐるみを抱きかかえたまま、少し離れたところに立ったままだった。


「先生?」
「今日は最初に謝りたくて来たんだ。ゴメンね、ちゃん。約束守れなくて」



 来てくれたときから先生はいつもの笑顔じゃなくて。
 笑っているのに……なんだか泣いてるみたいだった。



「……約束?」
「勉強、教えるって言ってたのに、さ」
「………あぁ」


 覚えていてくれたんだ、と嬉しくなる。
 だって先生はあの後ずっと忙しそうで、勉強を教えてもらう暇なんて結局無かった。
 そのまま忘れられてたかと思ったのに。


「ずっと先延ばしにしちゃってゴメンね」
「気にして、くれてたの?」
「当たり前。しかも結局間に合わなくなっちゃったから」
「そんなこと無いよ。今日教えて。教科書、ちゃんとあるから」
「……まだ、勉強してたんだ」
「うん、もちろん」


 私は笑う。…………ようやく、笑えるようになったから。



「折角の受験料とか無駄になっちゃったし、入院とかで一杯お金かかっちゃったし。
 来年まで予備校通おうかとも考えたんだけどそれもお金かかっちゃう。
 お母さん達に一杯迷惑かけちゃったから、今年はそう考えるとバイト三昧かなって思うけど……」




 ふわっと空気が動いて、先生の白いシャツが目の前に広がる。
 大丈夫だよ、先生。私泣いてない。

 もう、泣くのはイヤになるほど泣いたから。



「ゴメンね、ちゃん」
「ううん、止めてくれてありがとう、先生」


 受験の日、私はまた体調を大幅に崩して。
 この日のために勉強してきたんだからって泣き叫んだ私を、
 先生は絶対安静だといってベットから起きることさえ許さなかった。

 悪いのは私。
 入院しているのに、体調管理を無視して無理した私。
 受験勉強に逃げていた、私。

 先生が止めてくれたからこそ、今ここに私がいるんだってちゃんとわかってる。

 全てが終わって、泣き言も全部吐き出した後、
 体調がようやく快方に向かった私は、明日退院する。


「私ね、先生。学校選んだ理由って偏差値とか家から近いからとかだったの。
 受験するのは当たり前だと思ってたから、それがダメになったとき、ものすごく怖かった。
 でも、今は自分が本当は何をしたいのかちゃんと考えようって思ってる。
 だから、今はほんの少しだけ……病気になったのも良かったって思ってるよ」


 最初っから割り切れてたなんてそんな馬鹿なことは言わない。
 励ましてくれてた家族とか、一生懸命治療に力を注いでくれた先生や看護スタッフの人とか。
 そういう周りの人がいるって気付いて、ようやく私は自分の周りを見渡すことが出来た。


ちゃんは……、強いね」
「強くないと生きてけないんです」


 にっこりと、私は笑う。この笑顔は菊丸先生のマネ。
 見ているだけで元気になれるような、心の底からの笑顔。
 言葉に出さずに菊丸先生を見上げたら、ようやく先生は太陽の笑顔を向けてくれた。

 そのまま、唇に柔らかい感触が触れる。





「せん、せい?」
「あーもぅ、そういう顔、反則だろ? ちゃん、それズル過ぎ」
「え、あ、え?」


 耳まで熱くなるのを自覚しながら、ぐるぐると考える。
 反則? ズル? そんなこと言われても!


「ていうかいきなり何なんですか!」
「……あー、やっぱわかってなかったか〜」
「だから何が!?」
「今日の本題でもあるんだけどね、コレ。俺、いっつも言ってたっしょ? 好きだよって」


 言ってた。確かに言ってた。
 頻繁に。冗談のように。普通の会話の中で!


「ま、まさ、か、あぁあ、あれ」
「そ、あれ。本気も本気、大ホンキだったんだけど」
「………………」


 思考停止している私にもう一度笑いかけて、
 菊丸先生は私の横に置いてあったさっきのクマを改めて差し出した。


「今日こそきちんと言っておこうと思って。もしかしたら伝わってないかもって思ったから」


 実際その通りだったモンね〜、と菊丸先生はちょっと苦笑している。
 わからなくて首を傾げてた私に、先生はクマを手渡した。
 私の腕にすっぽりと入ったそのクマをよく見たら、何かを持っている……箱?


「返事はすぐじゃなくていいよ。よく考えて」
「こ、れ」
「ホントは色々セリフとか考えてたんだけどね。全部吹っ飛んじゃった」


 恥ずかしげに笑う菊丸先生の顔をじっと見あげていたら、
 視線をちょっと彷徨わせた後で、私の耳元でこっそりとその言葉を言ってくれた。


これからもずっと、俺の側で笑っていてくれませんか


 信じられなくて。もしこれが夢だったら消えてほしくなくて。
 私は目の前の菊丸先生のシャツを思いっきり引っ張って、何度も何度も頷いた。
 嬉しさのあまり、言葉なんか出てきそうになかったから。


 ヒトメボレした子が一生懸命頑張っている姿を見て、ますます好きになっていったんだ。
 そんな言葉を聞いて、私の中から言葉は一生出てこなくなるんじゃないかと思った。






 このすぐ後に入ってきた看護士さんに、菊丸先生がここにいるわけを話すのに
 別の意味で言葉が出てこなくてものすごく困ることになったけど。






「ところで先生。患者に手を出すってひょっとしてヤバいんじゃないんですか?」
「ん〜? だってちゃんもう退院だし、今日は俺見舞客だし〜?」
「(確信犯か!!)」




 とりあえず本日、私の進路に永久就職の項目が追加されました。





*あとがき*


突発菊ちゃんパラレル物。
願望を夢で見ることが出来たんで、文章化。えらいぞのーみそ。
……何も言わないでください(逃)


2005.07.29 伊織




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