中学校卒業後15歳で宮田自転車に就職後、まもなく喫煙を始めました。同期入社のほとんどがたばこを吸っており吸わなければ一人前でないような気がして始めました。
1967年中央大学卒業後、横浜市役所就職、25歳頃には20〜30本、1977年、横浜市従業員労働組合中央執行委員(のちに委員長)になった頃(35歳)には40〜50本を吸っていました。
1987年、45歳の時、喘息発作があり禁煙を試みるが止められず、1993年51歳で体調悪く、完全に喫煙を止める。しかし、1996年入院し、2002年には、労働組合の役員も辞め静養に専念したが、その後入退院を繰り返し、酸素吸入は欠かすことができません。
陳 述 書 (2005年9月21日)pdf
1931生まれ(提訴時73歳)
高校2年の頃友人に勧められ週に数本の喫煙を始めた。1950年、(財)検定新日本社就職後20歳の頃は、同期の男性全員喫煙者で、たばこくらい吸えないと一人前とは見てもらえない雰囲気があり、20本を吸うようになりました。
25歳頃は30本、1966年、横浜港湾労組書記長(のちに委員長)就任のころ(35歳)は40〜50本、時には90本くらい吸うこともありました。ニコチン・タールが健康に悪いがフィルター付なら安心だという宣伝もあり、フィルター付やメンソールたばこに変えて吸い続けました。
1980年頃から身体がだるくなり50歳には、肺炎になってしまいましたが、吸い続け、55歳で再び肺炎でたばこを止めたが、入退院を繰り返し1987年労組役員を辞め静養したが、1990年頃、肺気腫と診断され階段の上り下りや軽い仕事も息切れがする状態です。吸入器と吸入拡張剤を処方してもらい通院。
2006年12月25日肺炎のため、志半ばで75歳の生涯を閉じました。
(森下賢一さんの遺志をうけ継ぎ「たばこ病をなくす横浜裁判」の勝利をめざす声明)
1942年生まれ(提訴時62歳)、(有)共栄建設 代表取締役
中学卒業後、秋山工務所の従業員として働きだし、20歳(1962年)頃酒とたばこが飲めないとまわりの人からなめられような気がして、喫煙するようになりました。とくに建築現場では酒やたばこを勧められました。最初は10〜15本程度、1972年(30歳)ころ大山工務店に勤めてる頃は40〜50本時には80本も吸っていました。
妻がたばこを嫌っていたことや自分でも将来の健康に不安感もあり、数回禁煙を試みましたが失敗しました。1977年、34歳に独立して仕事をするようになっても40〜50本吸い続けました。
1982年40歳肺がんと診断され右片肺の中葉下葉摘出手術、5年生存率は3〜7割と言われました。仕事は従業員にもやめてもらい、2年後家族経営の形で営業を再開していますが、しかし現在も現場仕事はできません。