「法治国家」であっても弱者は法を行使できない
某番組の某コメンテーターの「日本は法治国家なのだから…」という言葉が耳に残った。その後に続いた言葉は「…、パクられたというのであれば、提訴するとか法的手段はいくらでもあった」というような文脈であった。京アニ放火殺人事件の容疑者に向けた言葉である。
法治国家の意味は広辞苑に「国民の意思によって制定された法に基づいて国家権力を行使することを建前とする国家」とある。確かに日本は法治国家である。
しかし、法律は市井に生きる弱い国民の一人一人を平等に助けてはくれない。法律自体は被害を受けた弱い国民を助けたくても、その法律を行使できるのは特定の知識をもった人間であり、弱い国民ではないからである。もちろん、弱い個々でも提訴する権利はある。法律に詳しい個々、あるいはその法律を使いこなすことができる術を持っている個々なら、法律を盾に立ち向かうだろう。しかし、大抵の個々は、弁護士へ依頼しなければならない。依頼したとしても勝てるとはかぎらない。勝てなくても弁護士報酬支払は発生する。たとえ弁護士に依頼したとしても、証拠集め等は個々の当事者がしなければならない。つまり、日本は法治国家だから、法律は公平に機能すると思っていたら大間違いなのである。
したがって、「日本は法治国家だから…」なんて言葉が京アニ放火殺人事件の容疑者の耳に届くわけがない。
ここでは二つの事件を例にあげて考える。一つめは京アニ放火殺人事件、二つめは日本郵政かんぽ生命による詐欺商法である。
1、 京アニ放火殺人事件。罪もない貴重な人材が犠牲になった悲惨な事件である。容疑者を擁護するつもりはない。しかし、なぜ、放火殺人の実行まで犯人をおいつめてしまったその理由を明らかにしなければ、これからも同じような事件はどこにでも起きてしまう。そして普通に真面目に生きている人々が巻添え的に実害を被ることになる。正しく生きている人たちが殺されるという悲劇は二度とあってはならない。
京アニの作品を見たことはないが、過去にジブリ作品のいくつかは見ている。あくまでも私個人の意見と断っておいて、ジブリ作品について感想を述べる。「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」を見たときの感動はすごかった。物語のオリジナリティに感動したのである。しかし、その感動は「となりのトトロ」までだった。あとは、昔話のなかで、聞いたことがあるような、見たことがあるような、そんな細切れ的につなげた筋立てに辟易して、見る気もおきていない。
さて、昨今評判の「君の名は」であるが、私の年代にとっての「君の名は」は菊田一夫原作の映画タイトルである。真知子と春樹が数寄屋橋で会えそうでいて会えないという古典的恋愛物語である。そして、男の子と女の子とが入れ替わるアイデアは大林宣彦監督の「転校生」を見ている私にとっては、その入れ替わりが双方の夢のなかでおきてはいても、オリジナリティではなく、二番煎じである。そして、夢のなか、二人が時空をこえて会う光景も、やはり大林監督の「時をかける少女」を連想させる。つまり、アニメ作品の「君の名は」は、あちらから少し、こちらから少しという、私に言わせれば、パクりの集大成ということになる。
もちろん、芸術等の創作活動はなんでも真似からはじまるゆえに、一括して真似は悪いとは断言できない。私が言いたいことは、創作者がアイデアにつまったとき、ふとどこからか持ってくるということは日常的に行われているはずだということである。だから、アニメにかぎらず制作者は誰よりも謙虚でなければならないと考える。
その謙虚さでもって、容疑者からなんらかの苦情等があったとき、その苦情を単なる嫌がらせととらず、真摯に対応していたら、結果は違かったのではないだろうかと考えられないか?
それにしても、30人以上もの死は悔やまれてならない。
2、日本郵政かんぽ生命保険の詐欺商法
再度言う。日本は法治国家であるが、その法は国民全員に公平に作用しているわけではない。何故なら、詐称にしろ隠蔽にしろ、法を恣意的ーーたとえば法を無視するーーに扱えることができるのは、どんな組織・集団においても上部に陣取っている人間だからである。
仮に、下部の人間が自発的に違法契約をしたとしても、法令順守が徹底された上部組織ならば、ことはこんなに大きくはならない。よって、今回のかんぽ生命保険の詐欺的勧誘は、全国津々浦々の郵便局とまではいわないが、組織ぐるみなのではないだろうか。
上司から、法をおかしてもいいから契約をとってこい、と言葉で言われなくても、示されたノルマ数値が言外の圧力になる。
上部からの違法命令の行使を潔しとしない現場職員は、組織から出なければ、正しく生きられないし、精神の自由は得られない。上部組織の命令を拒否して正しく生きたい下部の人間は目に見えないパワハラを覚悟するか、それが嫌なら辞めなければならない。つまり、彼らには法の加護はない。これが現実である。
根には日本のタテ構造社会がある。詐欺的勧誘に騙された被害者も、郵便局職員同様、タテ構造社会の住人である。郵便局の人なら悪いことはしないという認識がこびりついている。郵便局職員がすすめる保険なら信用できるという昔ながらの認識である。
さて、むかし若かりし頃、「社会ってこういうかたちをしているんだ」と学ばされた体験がある。某生命保険勧誘社員をしていた友人に、詳しくは忘れたが、「教育だけでいいから支社に受けに行ってほしい」と頼まれて、その会社が主催する研修に参加したことがある。たしか交通費と日給、そして昼弁当は出た。日給が出るのなら、暇な身だし、いいだろうと、気楽に引き受けた記憶がある。
もともと営業職は大嫌いだったので、就職したつもりはなかった。こちらとしては、「研修だけでいいから」と頼むから、友人のよしみで引き受けただけなのに、実のところは違ったのである。気がつかされたのは、その研修が終わったときである。「では、さようなら」と言う私に、その友人は「明日からは営業所に来てね」と言ったのである。勝手に社員にさせられていたというわけである。しかも、他の社員が言うには、研修を受ける時点で私は社員になっており、しかも新しく社員を勧誘した社員には報奨金やら給料度合があがると聞いたのである。
そんな話聞いてねえよ、やられたと思ったが、まあ、お金をもらって保険システムを勉強させてもらったわけだから、2〜3か月はおかえししてもいいかな、どうせ契約をとらなければ首になるだろうと、毎朝、営業所に通うことにした。ご家族に不幸があったとき困らないようになんていう営業トークはすべて嘘とは言わないが、私にとっては欺瞞に近いはなしである。いつやってくるか分からない家族の死を前提として、高額な定期保険契約へと導く営業トークなど、口がさけてもできるわけがない。ただし満期時に積み立てた金額のほとんどがもどってくる養老保険の話は別だった。期間の長い積み立て貯金と同じだからである。しかも満期金と同額の死亡保証がついている。ただし、契約をとった社員の給与や成績はあがらない。まあ、養老保険が売り出されていたのは、郵貯の定期預金に10年も預けておけば複利でおよそ2倍になった時代まで、つまりバブルがはじけるまでだったと記憶している。
さて、生命保険商品の話はここにおける本筋ではない。本筋は営業所内の様子である。朝、出勤したら、出勤簿に、出勤したという証拠として各自が印鑑を押すのだが、出勤していないのに、印鑑が押されている社員がいることに気づいたのである。それも1回や2回ではない。どうやら、その社員に関しては、営業所のなかでは公だったらしく、誰も何も言わなかった。契約件数のノルマが果たされていたことは、壁に張り出されたグラフが示していた。生命保険の勧誘員をやったことがある人間なら、営業所内で何がおきているのか予想できると思うが、ここでは証拠がないことは言わない。
長くなるので、ここらへんで話のけりをつけることにする。保険契約者保護のために生命保険会社の監督官庁は金融庁である。契約者からの保険料で成り立っている経営は健全でなければならない。営業所の経営もしかりである。正義感を抑えられない私がとった行動は支社への抗議である。主な抗議は「出勤していないものが出勤していることになっている。これって、どうよ」的なことを言ったのではなかろうか。対応に出てきた少しだけ上の人間に適当にあしらわれた、というのが実情である。
この行動をとったのは、辞表をだしてからか、その後か憶えていないが、憶えていることは、たとえ辞職していたとしても、勤務日数や契約数等から次の月給は発生してたはずなのに、チャラにされてしまったことである。
こんなもんよ、社会とは!