憎悪(ヘイト/hate



先に断言しておきます。

憎悪感情の被害者は憎悪感情を投げかけられた対象ではなく、その憎悪の持ち主自身です。

憎悪を持たれた人間は、その憎悪感情の存在を知らされたとしても、ああ、そうかと思うぐらいで、身体的にも精神的にも痛みは覚えません。

精神的な痛みを抱えて生きていかなければならないのは、むしろ憎悪しているほうの人間です。憎悪感情は常に、脳を飽くことなく支配し、健康さえもむしばんできます。憎悪しあっても何一ついいことはありません。


人間しか持たぬ感情、しかも、最も野蛮で原始的な感情、そして破壊力をもった感情、それが憎悪です。現在、日本社会をむしばみはじめているのが、この憎悪です。破壊力を持つ国民の憎悪は、施政者にとっては好都合な感情です。理性・知性をもって考える国民よりも感情のみで考える国民のほうが操りやすいですから。テレビ等のマスコミを利用して、どんどん煽ってきます。


友人知人のなかには、中国が嫌い、あるいは韓国が嫌いという人がいます。「過去に嫌なことをされたことがあるの」と問いますと、それぞれが「無い」と返してきます。「では何故」と問いますと、「とにかく嫌い」という返事です。おそらく、小さいころ受けた、親等周辺からの先入観のすりこみが影響していると思われます。


さて、昨今の反日・反韓問題は徴用工訴訟問題に端を発しているように見えますが、日本の明治政府が韓国を併合した1910にまでさかのぼって考えなければならないと思います。


日本政府は1965年の「日韓請求権協定」で解決済みとしていますが、それは加害者側の都合の良い考えかたです。


他国から併合され統治される。それがどんな痛みなのか、屈辱なのか、たとえば一つに強制的な日本語教育があります。アイデンティティである母国語をとりあげられるという屈辱がどんなものなのか、それだけを想像しても、過去の日本人が朝鮮半島の人々におこなったことを謝りたいと思います。


米国留学時、若い韓国人のクラスメートのお母さんに「お世話になってますと」挨拶されたことがあります。親しく話しました。そのとき、お母さんの流ちょうな日本語にびっくりしました。こんなにも流ちょうに話せるほど、小さいころ学校で母国語をとりあげられ、むりやり語学教育された。さぞかし嫌な思いをしたに違いないと、口には出しませんでしたけれど、瞼があつくなったことがあります。


個人と個人との争い、たとえ口争いであっても、言ったほうはけろりと忘れますが、言われたほうは長いこと忘れません。これが恨みの本質です。したほうは忘れるが、されたほうは決して忘れない、この基本に則って、日本人は冷静に考えなければなりません。


記憶には、前進するために忘れなければならない記憶と、二度と過ちを繰り返さないために決して忘れてはならない記憶があると、ここHPの「辺野古問題は記憶の改竄」で書きましたが、昨今の日韓問題において日本人が選択しなければならない記憶は後者つまり加害者の記憶です。


「日本はそんなことしてねえよ」と、後者の記憶を亡きものとしようとすればするほど、前者(被害者)の記憶は形を変えてよみがえり、恨みはますます大きくなっていきます。

隣国どうし、せっかく仲良くしてきたのにと残念でなりません。ふりあげた拳を先におさめるという大人の選択をするのは、日本であってほしいと、せつに願います。