[英語民間試験]の導入は誰のため?


今回の入試改革の大きな名目は、「グローバル化の時代に通用する力を」ということらしいが、毎度のことだが、試験方法を変えれば知力や人材は育つと思っているところが、文科省成員の思考力の無さを象徴している。


偏差値という数値で子どもたちの知力を評価しはじめたのが、「大学共通一次学力試験」制度が導入されてからで、その後の「大学入試センター試験」、それから今回の「大学入学共通テスト」と、新名称(ややっこしいほどに同じような名称)へと変えられてはいるものの、名前が示すように、内容はそんなに大きく変わらないはずだ。なにせ試験さえしとけば、子どもの知力はあがると、学校教育の質そのものを上げる施策も考えだせず、試験方法を変えるだけしかできない教育界の人間の質と思考力である。だから、英語民間試験に頼らざるをえない。


文部科学省の腹は見えている。

「読む、聞く、話す、書く」英語力をというスローガンをあげ、英語民間試験の成績結果を採用すれば、あとは勝手に英語塾等に行ってくれるだろうと思っているのであろう。


なにせ、「読める、聞ける、話せる、書ける」英語力をテストする試験方法も厄介だが、まともに採点できる人材もいない。だから業者と手を組むことになる。そうすれば、大きな見返りはあるだろうし、何しろ、テストする側の英語力の無さを露呈せずにすむ。


まず、文部科学省がしなければならないことは、試験設定の前に、その試験を受けることができるようにするための公教育における英語教育の実施である。これが正当な順序というものである。まあ、今の英語教育の実態では人材がいないから不可能であろうことは理解できるが、一つの方法はある。教員採用試験合格者にかかわらず、広い視野をもって「読める、聞ける、話せる、書ける」英語教員を採用することである。


さて、英語民間試験の導入で、誰が得するか、誰が損するか?

答えは誰にでも分かっている。
得するのは、文部科学省と官邸、つまり国民のコントローラーと英検等の業者である。
損するのは、一時的に損するのは子どもたちと親世代のように見えるが、
教育は国(文化・経済)形成の要であるゆえに、損するのは国民全員である。
その証拠が日本の現状である。

日本人は自分に関係ないことには口を閉ざす。
関心さえもたず、誰もなにも言わない。


しかし、勇気ある一人の慶大生が声をあげた。

「入試改革を白紙撤回しろ」

「柴山(文科相)辞めろ」

8月24日、埼玉県知事選の応援に来た柴山相の演説中のときである。

そして、またもや、警察官3人に取り囲まれて、排除された。

たとえ、殴る蹴るの直接的暴力ではなくても、憲法を無視した公権力による不当な力ずくであることには変わりはない。

有無を言わせず、自分に都合の悪いことを言う人間を、警察力で排除する。

これって、反社会的勢力がやっている脅しと、たいして変わらないのでは?