台風被害を受けた人々の苦境を見るにつけ…悪の権力者を持つ国民の不幸を思う


国民の命と生活を守る。これが首相の義務である。台風15号が房総半島を襲ったのが8日から9日にかけてである。どんなに内閣改造をやりたくても、そんなものは後回しにすればいい。しかし、安倍の興味は国民の命や生活よりも、自分がもつ権力と遊ぶことだった。改憲をなすためには強権を如何に使うべきかというゲームである。そして新内閣を立ち上げたのが、計画的なのか、偶然なのか、あの悪夢の9月11日である。


話を1963年までさかのぼる。
1963年、日米衛星中継から初めて日本のテレビに届いたのが、ケネディ大統領暗殺の生々しい映像だった。私が高校1年生のときである。そして35年後、オズワルドが大統領の背後から三発の銃弾を撃ったとされるダラスの教科書倉庫ビル6階の窓際から、その通りを私は見下ろした。見下ろしながら、私は思った。ケネディ大統領が暗殺されていなかったら、今の世界は日本もふくめて、少しはましな姿になっていたかもしれないと。


たとえば、FRB(連邦準備制度)に操られ続けるような世界にはなっていなかったかもしれない。世界のどこかで常に戦争をして他国の人々を殺している米国だが、そんな武器商人に操られつづけるような世界にはなっていなかったかもしれないという郷愁である。


人間一人の力で世界は変えられないが、そうだと断言することもできない。世界は世界を動かすことができる権力を持つ人間次第であるということは、歴史が示しているからだ。


その人間が悪の場合の歴史的事実はやまほどある。


誰でも知っているのはヒットラーのホロコーストである。大日本帝国を名乗っていたころの日本も、国内外ともに人の命を虫けらのように扱ったことに関しては同じである。ちなみに、911アメリカ同時多発事件も仕組まれたものだと私は思っている。当時私は米国にいて、2001年の911日の朝、ニュースの生中継を見ていた。その光景は、物理的にも起こりえない光景だったからである。ビルと比較してそんなに大きくない飛行機が一機、ビルの上部に激突しただけでは、あんなに大きなビルが何秒後かにたちまちにして粉々になって崩れ落ちるわけがない。まるで、ビルの解体作業の様相を呈していたからである。それ以後、世界の動きがどうなったか、関心のある人だったら誰でも知っていることなので、ここでは省略する。


さて、権力をもつ人間が善の場合の、うらやましい例として、私はデンマークのクリスチャン10世をあげる。私が彼を知ったのは、Lois Lowry作の「Number The Stars」からである。ちなみに、日本語訳本があるかどうかは知らない。


この本は子供向けの本で、主人公の設定等は作者の創作によるが、歴史的背景と歴史的出来事は事実に基づいた物語である。時は第二次世界大戦時である。ヨーロッパの多くの国がヒットラー率いるドイツに降伏せず戦争という道をとったが、クリスチャン10世は最初から降伏という道を選んだ。何よりも国民の命を守ることを選んだのである。


国は小さく、軍隊というものをもっていなかったデンマークが、大国ドイツに立ち向かったら、国は破壊され、あちらこちらで国民の血が大量に流される。密かにレジスタンス運動をしていた若い血の犠牲はあったが、ナチス占領下の五年のあいだ、一般国民の命は守られたのである。しかも、デンマークに住んでいたユダヤ人の98%がナチスに捕らえられずに逃亡できたという事実がある。


クリスチャン10世はナチスの占領下においても、毎朝、一人で愛馬にまたがり、コペンハーゲンの街角から街角へと、人々と挨拶をかわしたというエピソードがある。


そもそも国とは国民の命の大集合体である。国民あっての国である。国民の税金で生きていける施政者である。他者の命を大切にあつかわない人格は施政者には向かない。


日本は国民の命を大切にしてきたか? 

長い歴史を振り返ったとき、「してこなかった」というのが概括的答えであろう。そんなに遠い過去を振り返らなくても、二つの原爆投下しかり、福島の原発事故しかりである。もとをただせば、両方とも日本人施政者の仕業である。


岸――A級戦犯でありながら米国との裏取引で解放され首相になったーーの孫である安倍が政権をとって以来の日本はどう変わったか? 


人事権を好きなように使用し、三権分立を化石化し、法の秩序を亡き者にした。マスメディアも傘下においた。テレビは安倍に不利なことは何も報道しないから、もうすぐ願いがかなうと、改憲をして日本をおじいちゃんの時代へともどすことに執着する。


つまり、国民の命さえも己のものと思っているから、台風被害者よりも内閣改造が先になる。しかも、ブッシュの成功にあやかるために、あえて、改造日を911(9月11日)にしたかったのではないか。