「日本」は「ニッポン」ではなく、「二ホン」でありたい
むかし幼いころ、母に尋ねたことがある。「日本はニッポンなの、それとも二ホンなの?」と。
母の答えは「むかしはニッポンと言っていたけれど、戦争に負けたから、今は二ホンと言っている」というようなものだった。それ以来、私は二ホンと言っている。
個人的には、二ホンという音のほうが、謙虚さと平穏の響きがあり、好きである。心が安泰である。
反対に、ニッポンという音には、戦前戦中、日の丸や旭日旗を掲げて「ニッポン・ファースト」と他国侵略していたころの独断的かつ空虚的な誇示の響きがあって好きではない。
最近、ラグビー熱がすごい。聞こえてくるのは、「ニッポン、ニッポン、ニッポンはすごい」という熱にうなされたような声ばかりである。私も自国のチームを応援しているが、それはニッポンのためではない。選手個人のためである。選手は「日本のために戦う」とかよく言うが、その言葉を聞くたびに思う。「日本のためではなく、自分のために戦え」と。
ノーベル文学賞に関して、某アナウンサーが開口一番に言った。「ノーベル賞は日本人ではありませんでした」と。この言葉には「ノーベル文学賞を受賞するのは日本人にきまっていたのに…違かった」という含みがある。発語者とその背後にいる発語させた人間には稚拙さを感じる。何よりも世界観の狭さが気持ち悪い。この気持ち悪さは「ニッポンと言ったり聴いたりして気分をよくしている日本人」に対してもである。
世界観が狭いから、日本人が受賞していないから関係ないと、受賞者の作品も、どんな内容とかもいっさい放映されない。これが日本人だったらどうだろうか? うるさいほどに、ニッポン、ニッポン、ニッポンと放映しまくるだろう。まさにニッポン人は「井戸のなかの蛙」である。
たとえば、他国の贈収賄は微に入り細にわたり放映されるが、ニッポンの疑獄事件であるモリカケも関電問題はほとんど放映されない。井戸のなかのニッポン蛙たちはニッポンでおきているニッポン悪人たちによるニッポン悪事はいっさい知らされない。
ニッポンはすばらしい、ニッポンは特別の国だと聞かされ、気分良くぬるま湯につかっているニッポン蛙だが、徐々に、徐々に「ゆで蛙」になっていく。熱いと感じた時はもう遅い!