おぞましい言葉「天皇陛下万歳」
個人的には、日本国憲法に則った天皇制には、その存在を否定するほどには反対ではなかったが、しかし、今回の「即位礼正殿の儀」における安倍による「天皇陛下万歳」とそれに続く祝砲を聞いて、象徴天皇制の存在にさえ疑問を持たざるをえなくなった。
「天皇陛下万歳」と唱え、自衛隊に祝砲を撃たせたのは安倍(政権)だが、それを承認したのは、結果的には、儀式の主人公のお雛様である。
これらお雛様たちを特別な人たちとは思っていない。ホームレスの方たちや台風で流された方たちと同じ日本人だと思っている。天照大神のDNAを延々と引き継いてきたかどうかなんて不明なうえに、そもそも、そんな人が存在していたかどうかさえ定かではない。もっとも、神様だからDNAなんてもっていないのかもしれないが。
大昔、武力で日本のどこかを統治した権力者が、自らを神格化して民を支配した。そして、中国の書き文字を導入して、自分に都合のよいような物語あるいは歴史書のようなものを書かせた。まあ、ざっと言って、こんなところだろう。これは、どの文化圏でも、似たり寄ったりで、行われてきているが、世界には自らを神格化しなかった権力者もいる。
彼らが通るということで、人々を集め、用意された日の丸をもたされて沿道に並ばされ、お車がやってくるまで待たされる。たいていの日本人は嬉々として並ぶが、私は並びたくない。人混みから離れて少し高みにいようものなら、県警がやってきて、お方は尊い方だから上から眺めたらいけないと、まるでテロかなにかのようにつきまとわれたことがあった。彼らは上から民を見おろすが、けして見おろされてはならない。これが高御座の役目である。
明治憲法下における日本人は臣民であった。つまり国民の命は君主のものだったのである。朕のために戦争に行けと言われたら、拒否なんてとんでもない、拒否したって牢獄につながれ死刑になる。臣民には人権などなかった。赤紙が届いたら、「天皇陛下万歳」と叫び、叫ばれ、日の丸に送られて、戦地へと運ばれた。こうやって、臣民であった日本人は命を捧げてきたのである。
天皇陛下万歳という言葉は、天皇(家)は万年も栄える、そして万年も栄えてきた天皇家を称える意味であるが、歴史をかえりみれば、国民の血をすすってきたうえでの栄なのである。
だから、「即位礼正殿の儀」の光景そのものもおぞましくなるのである。しかも、これら儀式のために160億円もの血税を浪費し、台風被害にはたったの7億円しかださない。
この日本の光景を「おぞましい」と言わないで、なんと言う。