「桜を見る会」を考察する・・・腐敗は伝染する
「腐敗は伝染する」は日経サイエンス2019年12月号67ページに載る論文のタイトルである。
ミカン箱のミカンが一つでも腐っているのを放置しておくと、その箱のなかのミカンはすべて腐るとは、よく聞かれることである。つまりミカンの腐敗は伝染するということになる。しかし、このタイトルが意味する対象はミカンではなく人間である。今更ながらに日本社会の現状はこの論文が示す様相を呈していることに気づく。
分かりやす説明するために、私ごとの出来事を例にとる。
むかし、町職員と知り合いだったことがある。高校を卒業した息子の就職にあたり公務員職を探った。何かの話のついでに、そんなことをその友人に話したのだろう、その友人は「職種が…だったら、試験さえ受けてくれれば何とかもぐりこめる」というようなことを言ってくれた。その話にのるべきかどうか、私は考えた。数日もしないで答えは出た。私が出した答えはその話にはのらないことだった。理由は、たとえ息子が高得点をとり自力で受かったとしても、不正に公務員になったと一生言われる、あるいは肩身の狭い思いをして一生働かなければならないと思ったからである。遠いむかしのはなしである。
我が子可愛さゆえに、その話にのるという考え方もあるが、私は我が子可愛さゆえに、その話にはのらないという選択をしたのである。そしてのらなかった理由はもう一つあった。仮にそのはなしにのったら、私自身がその知人に大きな借りをつくってしまうという懸念である。
その借りは、たとえ金銭が絡まなくても、非倫理的行為から発生した借り、つまり公にできない借りである。他言できない非倫理的行為は行為者である私自身を有形&無形的に一生苦しませることになる。無形なものは劣等的心の痛み、有形なものはたとえばその友人からの借金依頼や連帯保証人印の押印依頼等である。最悪なのは、脅迫を受けての私自身が非倫理的行為実行の発端者にさせられてしまうという可能性もなくはない。知人の申し出は好意を発端としていただろうが、たとえ、そうであっても、窮地にたてば、人間は変わる。「昔の借りを返して」ということになる。
さて、本論にはいる。権威権力の種類はいろいろあるが、その力は申請書に許可を与える権限をもつような公の職にある公務員あるいは公務員に準ずるものに与えられている。特別に便宜をはかる、はかってもらう状況においては、大抵の場合、少額に関わらず金銭・物品の授受つまり賄賂が発生していると思っていいだろう。賄賂を経由する取引がここでいう非倫理行動である。
人間にもよるが、一旦、倫理の範囲をこえて行動し、そこから何らかの旨みを得てしまうと不正直に行動することに罪悪感を覚えなくなる傾向がある。そればかりか、「ばれなければよし」と品性を失い、倫理的決定において、旨みのある非倫理的行動を選択するようになる。
これに脅迫等の力の原理が加われば、非倫理菌の蔓延にそう時間はかからないことは、現在問題になっている「桜を見る会」の有様が示している。安倍政権になってからの非倫理的行動はモリカケ問題、公平さを失った警察力と司法判断、文部科学省と業者との癒着、退廃した霞が関といろいろあるが、最も日本が不幸なのは社会の抗体であるべきメディア(特にマスメディア)が非倫理菌に感染していることである。
非倫理菌に感染した人間は嘘が常套手段になる。証拠を消すために文書を黒塗りにし、シュレッターで破棄する。嘘がばれれば、嘘の上に嘘を重ねる。結果的に言葉から論理は消えるが、論理がないことぐらいは恥でもなんでもない。なにせ周囲の全員が感染しパンデミック状態で、人間の姿はしているが、人間ではない。何もなかったような顔をして、ひたすら時がたち、国民が忘れてくれるのを待つ。彼らは四枚ぐらいある舌を出しながら言う。今までだってそうだったと。
メディアは嘘は言わないが、自分たちと仲間に都合の悪いことは報道しないという嘘的報道姿勢になる。この報道姿勢はもっとも悪魔的かもしれない。真実が表出しなければ、結果的に虚偽が真実になってしまうからである。
こうやって、日本の民主主義は壊されてきた。そして壊されていく。
「贈収賄は、大も小も、国の社会経済的発展を妨げる。経済活動に影響し、制度を弱体化し、民主主義を害し、…(日経サイエンス9月号P67)」