二〇一八年センター試験・国語第一問出題文の検証

はじめに
 今回の出題文(有元典史・岡部大介『デザインド・リアリティ――集合的達成の心理学』による)は十九段落から成っている。概括的な言語学的読後感を述べるとしたら、比較的読みやすかったとでもなろう。もちろん、読解に際して読み手である私の好意がフル動員されたという条件付きではある。ということで、今回の検証は、些細な間違いには拘泥せずに、意味不明文にかぎって添削と添削理由だけですませることにする。
 というのは、この検証作業を始めてかれこれ十数年が経っていることから、検証過程を論じた論文をその年数と同じ数だけ書いており、正当な論文を書く術に関して、すでに論じつくしている。たとえ、これら拙論文が永久に誰の目にもとまらないとしてもである。
 ちなみに、段落一から段落七までは問題なく読み進めることができ、段落十八も問題がなかった。よって、(段落一〜段落七)と段落十八はそのまま写し、それ以外の段落に関しては順次、添削とその理由を書いていくことにする。

段落一
 「これから話す内容をどの程度理解できたか、後でテストをする」

段落二
 授業の冒頭でこう宣言されたら、受講者のほとんどは授業内容の暗記をこころがけるだろう。後でテストされるのだ、内容をちゃんと憶えられたか否かで成績が評価されるのである、こうした事態に対応して、私たちは憶えやすく整理してノートを取る。用語を頭の中で繰り返し唱える、など、暗記に向けた聴き方へと、授業の聴き方を違える。これは学習や教育の場のデザインのひとつの素朴な例である。

段落三
 講義とは何か。大きな四角い部屋の空気のふるえである。または教室の前に立った、そしてたまにうろつく教師のモノローグである。またはごくたまには、目前の問題解決のヒントとなる知恵である。講義の語りの部分にだけ注目してみても、以上のような多様な捉え方が可能である。世界は多義的でその意味と価値はたくさんの解釈に開かれている。世界の意味と価値は一意に定まらない。講義というような、学生には日常的なものでさえ、素朴に不変な実在とは言いにくい。考えごとをしているものにとっては空気のふるえにすぎず、また誰かにとっては暗記の対象となるだろう。

段落四
 冒頭の授業者の宣言は授業の意味を変える。すなわち授業のもつ多義性をしぼり込む。空気のふるえや、教師のモノローグを、学生にとっての「記憶すべき一連の知識」として設定する作用をもつ。授業者の教授上の意図的な工夫、または意図せぬ文脈の設定で、その場のひとやモノや課題の間の関係は変化する。ひとのふるまいが変化することもある。呼応した価値を共有する受講者、つまりこの講義の単位を取りたいと思っている者は、聞き流したり興味のある箇所だけノ―トしたりするのでなく、後の評価に対応するためまんべんなく記憶することにつとめるだろう。

段落五
 本書ではこれまで、さまざまなフィールドのデザインについて言及してきた。ここで、本書で用いてきたデザインという語についてまとめてみよう。一般にデザインということばは、ある目的を持ってイショウ・考案・立案すること、つまり意図的に形づくること、と、その形づくられた構造を意味する。これまで私たちはこのことばを拡張した意味に用いてきた。ものの形ではなく、ひとのふるまいと世界のあらわれについて用いてきた。

段落六
 こうした意味でのデザインをどう定義するか。デザインを人工物とひとのふるまいの関係として表した新しい古典、ノーマンの『誰のためのデザイン』の中を探してみても、特に定義は見つからない。ここではその説明を試みることで、私たちがデザインという概念をどう捉えようとしているのかを示そうと思う。

段落七
 辞書によれば「デザイン」のラテン語の語源はde signare≠ツまりto mark=A印を刻むことだという。人間は与えられた環境をそのまま生きることをしなかった。自分たちが生きやすいように自然環境に印を刻み込み、自然を少しずつ文明に近づけていったと考えられる。それは大地に並べた石で土地を区分することや、太陽の高さで時間の流れを区分することなど、広く捉えれば今ある現実に「人間が手を加えること」だと考えられる。

段落八
 @私たちはこうした自分たちの活動のための環境の改変を、人間の何よりの特徴だと考える。Aそしてこうした環境の加工を、デザインということばで表そうと思う。Bデザインすることはまわりの世界を「人工物化」することだと言いかえてみたい。C自然を人工物化したり、そうした人工物を再人工物化したりということを、私たちは繰り返してきたのだ。英語の辞書にはこのことを表すのに適切だと思われるartificialize≠ニいう単語を見つけることができる。アーティフィシャルな、つまりひとの手の加わったものにするという意味である。
 
 C文の添削・・・傍線の「私たち」を「人間」に訂正。
  理由・・・同一段落内に二つの「私たち」がある。@文における「私たち」が示す対象はこの論文の書き手たちであり、C文における「私たち」は人間一般である。同一段落内で使用される代名詞は同じ対象を示していなければならない。

段落九
 @デザインすることは今ある秩序(または無秩序)を変化させる。A現行の秩序を別の秩序に変え、異なる意味や価値を与える。B例えば本にページ番号をふることで、本には新しい秩序が生まれる。Cそれは任意の位置にアクセス可能である、という、ページ番号をふる以前にはなかった秩序である。Dこの小さな工夫が本という人工物の性質を大きく変える。E他にも、一日の時の流れを二四分割すること、地名をつけて地図を作り番地をふること、などがこの例である。Fこうした工夫によって現実は人工物化/再人工物化され、これまでとは異なった秩序として私たちに知覚されるようになる。G冒頭の例では、講義というものの意味が再編成され、「記憶すべき知識群」という新しい秩序をもつことになったのである。
 
 @A文の添削・・・デザインすることとは今ある秩序(または無秩序)を変化させ、異なる意味や価値を与えることである。
  理由・・・@文とA文はそれぞれ句点で終わる独立文になっているが、@文には主語があるがA文にはない。しかも、A文の前節「現行の秩序を別の秩序に変え」は@文の「今ある秩序(または無秩序)を変化させる」と表現は違っても内容はまったく同じである。したがって、@文とA文をつなげて一つの文にした。ちなみに、この出題文は仮にも論文形式文である。ゆえに、独立文には、必ずとは言わないが、主語が明記されるべきである。何故なら、独立文には独自の意味をもつという示唆がふくまれており、主語が無い独立文は意味不明文になるおそれが大きいからである。
 
 C文の添削・・・それはページ番号をふる以前にはなかった、任意の位置へのアクセス可能という秩序である。
  理由・・・読点の多用「・・・である、という、ページ・・・」は稚拙な文をつくる。
 
 G文の添削・・・冒頭の例では、講義というものの意味が再編成され、「記憶すべき知識群」という別の秩序がもたされることになったのである。
  理由・・・前節が「講義・・・意味が再編成され」と受身のかたちで表現されているの
で、後節も「新しい秩序がもたされることに」と受身のかたちが妥当。くわえて、「記憶すべき知識群」は講義というものがもつ元来の意味であり、新しくはない。したがって、「別」という言葉に訂正する。

段落十
 @今とは異なるデザインを共有するものは、今ある現実の別のバージョンを知覚することになる。あるモノ・コトに手を加え、新たに人工物化し直すこと、つまりデザインすることで、世界の意味は違って見える。例えば、図1のように、湯飲み茶碗に持ち手をつけると珈琲カップになり、指に引っかけて持つことができるようになる。このことでモノから見て取れるモノの扱い方の可能性、つまりアフォーダンスの情報が変化する。
 
 @文の添削・・・今とは異なるデザインを共有する者は、今ある現実の別のバージョンを知覚することになる。
  理由・・・@文を不明瞭にしているのが前節の「もの」である。「もの」は物なのか者なのか明確でない。ここにおける「もの」がどちらを示しているのか推察すると、後節に「・・・を知覚することになる」とあるので、「知覚することができる」能力をもつ「者」だと判明する。

段落十一
 @モノはその物理的なたたずまいの中に、モノ自身の扱い方の情報を含んでいる、というのがアフォーダンスの考え方である。鉛筆なら「つまむ」という情報が、バットなら「にぎる」という情報が、モノ自身から使用者に供される(アフォードされる)。バットをつまむのは、バットの形と大きさを一見するだけで無理だろう。鉛筆をにぎったら、突き刺すのには向くが書く用途には向かなくなってしまう。

 @文の添削・・・モノはその物理的なたたずまいの中に、モノ自身の扱われ方の情報を含んでいる、というのがアフォーダンスの考え方である。
  理由・・・段落九で指摘した態の間違いがここにもある。「モノ自身」は動作の主体にはなりえないので、「扱い方」ではなく「扱われ方」が正しい。

段落十二
 @こうしたモノの物理的な形状の変化はひとのふるまいの変化につながる。A持ち手がついたことで、両手の指に一個ずつ引っ掛けるといっぺんに十個のカップを運べる。

 A文の添削・・・たとえば、持ち手をつけることで、両手の指に一個ずつ引っかけるといっぺんに十個のカップを運べるようになるという変化である。
  理由・・・A文は@文を説明する具体例であるゆえに、接続詞の「たとえば」が文頭に必要である。くわえて、「持ち手をつける」動作の主体と「両手の指に一個ずつ引っかける」動作の主体を考えて作文すれば、おのずと明解な文になる。

段落十三
 @ふるまいの変化はこころの変化につながる。Aたくさんあるカップを片手にひとつずつ、ひと時に二個ずつ片付けているウエイターを見たら、雇い主はいらいらするに違いない。B持ち手をつけることで、カップの可搬性が変化する。Cウエイターにとってのカップの可搬性は、持ち手をつける前と後では異なる。Dもっとたくさんひと時に運べるそのことは、ウエイターだけでなく雇い主にも同時に知覚可能な現実である。Eただ単に可搬性にだけ変化があっただけではない。Fこれらの「容器に関してひとびとが知覚可能な現実」そのものが変化しているのである。

 F文の添削・・・これらの「容器に関するひとびとの知覚可能な現実」そのものが変化しているのである。
  理由・・・添削方法は二つある。名詞句の「知覚可能な現実」を採用すれば添削文となるが、「容器に関してひとびとが」を採用すれば、「これらの『容器に関してひとびとが知覚できる現実』そのものが変化しているのである」となる。

段落十四
 @ここで本書の内容にかなったデザインの定義を試みると、デザインとは「対象に異なる秩序を与えること」と言える。Aデザインには、物理的な変化が、アフォーダンスの変化が、ふるまいの変化が、こころの変化が、現実の変化が伴う。B例えば私たちははき物をデザインしてきた。C裸足では、ガレ場、熱い砂、ガラスの破片がちらばった床、は怪我をアフォードする危険地帯でフみ込めない。Dはき物はその知覚可能な現実を変える。E私たち現代人の足の裏は、炎天下の浜辺のカワいた砂の温度に耐えられない。Fこれは人間というハードウエアの性能の限界であり、いわばどうしようもない運命である。Gその運命を百円のピ―チサンダルがまったく変える。H自然のセツリが創り上げた運命をこんな簡単な工夫が乗り越えてしまう。Iはき物が、自転車が、電話が、電子メールが、私たちの知覚可能な現実を変化させ続けていることは、その当たり前の便利さを失ってみれば身にしみて理解されることである。Jそしてまたその現実が、相互反映的にまた異なる人工物を日々生み出していることも。

 C文の添削・・・「・・・の破片がちらばった床、は」内の読点を削除する。
  理由・・・文を読みやすくし、その流れを明解にするために付されるのが読点である。必要のないところに読点が付されていると、かえって文の流れが遮られたり、あるいは分流されたりと読みにくくなる。
 D文の添削・・・はき物は私たちの知覚可能な現実を変える。
  理由・・・連体詞「その」がD文を不明瞭にしているので、「その」を「私たちの」に差しかえる。

 G文の添削・・・その運命を百円のピーチサンダルが変える。
  理由・・・副詞の「まったく(全く)」は気難しい言葉である。主に否定表現で用いられるが、そうでない場合もある。さて、ここG文における「まったく変える」は、日本語使用者の視点から何か違和感を覚える。ちなみに、段落十六のD文とE文で使用されている「まったく異なる」には違和感はない。おそらく、「変える」は「ものごとの状態や質を前と違うものにする」という意味であるゆえに、「まったく」という意味を本質的に示唆していることになる。したがって、動詞「変える」を修飾する副詞としては適さないと考えられる。

 J文の添削・・・そしてまた、その現実が相互反映的に異なる人工物を日々生み出していることも
  理由・・・明瞭な文にするために、読点を付ける位置を変更し、後節にある不必要な「また」を削除する。

段落十五
 @私たちの住まう現実は、価値中立的な環境ではない。A文化から生み出され歴史的にセンレンされてきた人工物に媒介された、文化的意味と価値に満ちた世界を生きている。Bそれは意味や価値が一意に定まったレディメイドな世界ではない。C文化や人工物の利用可能性や、文化的実践によって変化する、自分たちの身の丈に合わせてあつらえられた私たちのオーダーメイドな現実である。D人間の文化と歴史を眺めてみれば、人間はいわば人間が「デザインした現実」を知覚し、生きてきたといえる。このことは人間を記述し理解していく上で、大変重要なことだと思われる。

 A文の添削・・・文化から生み出され歴史的にセンレンされてきた人工物に媒介された文化的意味と価値に満ちた世界である。
  理由・・・A文には主語がない。推定すれば、述語が「生きている」であるから、
主語は「私たちは」である。この主語なしに「世界を生きている」という術語で文を止めることはできない。さて、A文の内容は@文の内容補足である。したがって、@文の主語は、A文末尾の「生きている」を削除すれば、A文のそれを兼任することができる。

段落十六
 @さてここで、あるモノ・コトのデザインによって変化した行為を「´行為(こういダッシュ)」と呼ぶこととする。Aこれまでとは異なる現実が知覚されているのである。Bもはやそこは、このデザイン以前と同じくふるまえるような同じ現実ではないのである。Cそうした現実に対応した行為にはダッシュをふってみよう。D例えば、前後の内容を読んで、本の中から読みかけの箇所を探す時の「記憶」・「想起」と、ページ番号を憶えていて探し出す時の「記憶」とでは、その行いの結果は同じだがプロセスはまったく異なる。E読み手から見た作業の内容、掛かる時間や手間はページ番号の有無でまったく異なる。F読みさしの場所の素朴な探し出しが昔ながらの「記憶」活動ならば、ページ番号という人工物に助けられた活動は「´記憶(きおくダッシュ)」活動ということだ。G台所でコップを割ってしまったが、台所ブーツをはいているので破片を恐れずに歩くのは、もうそれまでの歩行とは違う「´歩行」。H「今日話す内容をテストする」、と言われた時の受講者の記憶は「´記憶」。I人工物化された(アーティフィシァライズされた)新たな環境にふるまう時、私たちのふるまいはもはや単なるふるまいではなく、「デザインされた現実」へのふるまいである。

 @ABC文の添削・・・したがって、新しくデザインされた現実はそれ以前と同じようにふるまえる現実ではないのである。さてここで、あるモノ・コトのデザインによって変化したふるまい/行為を「行為(こういダッシュ)と呼ぶことにして、新たな現実に対応した行為にダッシュをふってみよう。
 理由・・・文の流れがスムーズではなく、しかもA文の内容は前段落のE文に書かれている内容の反復である。よって、A文を削除して、文の順番をB@Cとする。くわえて、段落十五からの意味をスムーズにつなげるために、「順当な結果」としての接続詞「したがって」を段落の頭に置く。

 D文の添削・・・例えば、前後の内容を読んで本の中から読みかけの箇所を探す時の「記憶」・「想起」と、ページ番号を憶えていて探し出す時の「記憶」とでは、その行いの結果は同じだがプロセスはまったく異なる。
  理由・・・ここでは読点を一つ削除しただけである。読点の削除に関しては段落十四で説明済み。

G文とH文の添削と理由
   ここにおける添削は文そのものではなく、省略してはならない説明言葉の指摘である。G文中の「´歩行」は「´歩行(ほこうダッシュ)」と書き、H文中の「´記憶」は「´記憶(きおくダッシュ)」と書くべき。書き手が使用している「ダッシュ」は某概念を表現するあるいは説明するための記号/言語である。同じ概念には一貫して付すべきである。

段落十七
 @買い物の際の暗算、小学生の百マス計算での足し算、そろばんを使った足し算、表計算ソフトでの集計、これらは同じ計算でありながらも行為者から見た課題のありさまが違う。Aそれは「´足し算」だったり「足し算」だったり「””足し算」・・・・・する。Bただし、これはどこかに無印(むじるし)の行為、つまりもともとの原行為とでも呼べる行為があることを意味しない。C原行為も、文化歴史的に設えられてきたデフォルトの環境デザインに対応した、やはり「´行為」であったのだと考える。Dページ番号がふられていない本にしても、それ以前のテキストの形態である巻き物から比べれば、読みさしの箇所の特定はたやすいだろう。E人間になまの現実はなく、すべて自分たちでつくったと考えれば、すべての人間の行為は人工物とセットになった「´行為」だといえるだろう。
 
 A文の添削・・・それは「´足し算」だったり「”足し算」だったり「””足し算」・・・だったりする。
  理由・・・例文「それは『飴』だったり『キャラメル』だったり『せんべい』・・・する」がA文の未完成さを示す。
 
 C文の添削・・・原行為も文化歴史的に設えられてきたデフォルトの環境デザインに対応した、やはり「´行為」であったのだと考えられる。
  理由・・・考える主体は論じている書き手であるので、「原行為」を主語としているC文は「考えられる」と受身のかたちが妥当である。ついでに読点を一つ削除しておいた。 

 E文の添削・・・人間を囲む環境に無印の原現実はなく、すべて自分たちでつくったと考えれば、すべての人間の行為は人工物とセットになった「´行為」だといえるだろう。
  理由・・・「人間になまの現実はなく」の「なま」とは「生」のことであろうが、「現実」を修飾する言葉としてはどうだろうか? せっかくB文で適切な言葉の「無印」や「原」が使用されているのであるから、これらを使用したらよい。

段落十八
 人間は環境を徹底的にデザインし続け、これからもし続けるだろう。動物にとっての環境とは決定的に異なる「´環境(かんきょうダッシュ)を生きている。それが人間の基本的条件だと考える。ちなみに、心理学が批判されてきた/されているポイントは主にこのことの無自覚だと思われる。心理学実験室での「´記憶(きおくダッシュ)」を人間の本来の「記憶(むじるしきおく)」と定めた無自覚さが批判されているのである。

段落十九
 @「´心理 学(しんりダッシュがく)」の必要性を指摘しておきたい。A人間の、現実をデザインするという特質が、人間にとって本質的で基本的な条件だと思われるからである。B人間性は、社会文化と不可分のセットで成り立っており、ヴィゴツキ―が主張する通り私たちの精神は道具に媒介されているのである。したがって、「原心理」なるものは想定できず、これまで心理学が対象としてきた私たちのこころの現象は、文化歴史的条件と不可分の一体である「´心理 学」として再記述されていくであろう。この「´心理 学」は、つまり「文化心理学」のことである。文化心理学では、人間を文化と深く入り交じった集合体の一部であると捉える。この人間の基本的条件が理解された後、やがて「´」は記載の必要がなくなるものだと思われる。

 A文の添削・・・人間の現実をデザインするという特質が、人間にとって本質的で基本的な条件だと思われるからである。

 B文の添削・・・人間性は社会文化と不可分のセットで成り立っており、ヴィゴツキ―が主張する通り私たちの精神は道具に媒介されているのである。
  理由・・・A文もB文もともに不必要な一つの読点を削除しただけである。理由は段落十四で説明済みである。                                        
                                                      了     

追記・・・出題文の内容に関する私見は初めてですが、あえて述べます。「なるほどねえ」と、学ばさせていただきました。「デザイン」って奥が深い。己自身もデザインしていかなければ・・・。