国語記述式問題について



来年(2020年)の共通テストから実施される予定だった国語と算数の記述式問題の実施見送りが検討されているという。


一回きりの大学受験チャンスではなく、日ごろ(高校3年間)の勉強とその成果を入学の許可指針とすべきと、入試制度そのものを否定している私としては、英語民間試験にしても国語記述式問題にしても反対以外の意見はない。ちなみに数学記述式に関しては、専門知識不足ゆえに意見を述べるまでには至らない。


大学教授等の国語専門家たちによる反対表明の理由は―文部科学省と受託業者との癒着を除いて―4つある。@採点における公平が担保できないA採点体制に信頼がおけないB自己採点困難ゆえの二次試験選択困難C条件にあった解答を誘導すると思考や発想の定型化を導く。


ということで、記述式とはどういうものなのか、実際にやってみなければ話にならないということで、河合塾講師二人作成の国語現代文記述問題という参考書のような、問題集のような株KADOKAWA発行本を、わざわざ書店にまで出かけて買ってきた。


その本を開き、「はじめに」を読んで、唖然とした。次に唖然とさせられた箇所を抜粋する。特に下線箇所に注目!


共通テストは…〈複数の文章の組み合わせ〉や〈文章とグラフや表の組み合わせ〉という形で、複数情報を統合して解答を作成することを要求してきます。…中略…こうした多様な情報源は、隅から隅まで読んで理解する必要はありません。書き手の意図をさぐるために深く読みこむのではなく、あくまで読み手が達成しようとする目的(課題解決)に必要な情報をこちらから取りにいく、という、読みの姿勢の転換が必要になります。


評論、小説、古文、漢文といった他の大問も解かなければならないから、現代文の記述式問題を解く時間は20〜25分程度しかないということらしいが、それにしても、熟読せず、課題解決に必要な情報のみを取りにいくという手法はもはや読解ではなくパズル(謎解き)作業である。


つまり、「課題解決に必要な情報のみを取りにいく」ということは、全文を読まなくても、自分が必要な言葉や一文、あるいは段落をピックアップして、文章をつくればいいわけであり、大仰に言えば、その出来上がった解答がその全文内容と正反対だとしてもかまわないということになる。もちろん正解とはならないだろうが。


仮にそんなピックアップ手法が日本語文章作成手法として定着したら、どうだろうか? 先人が書いた長い文章を読みこむなんて面倒な作業は苦手になるし、まして、自分の考えや言葉を文章にまとめる能力も育たなくなる。メールのように細切れの言葉と絵文字でコミュニケーションはできても、論証過程や複雑な概念を文章で表現することはできないということだ。


さて、買ってきた本から問題5「ヒトと言語」を解いてみた。私にはすべてを読まずに「必要な箇所だけ取りにいく」などという芸当はできないので、すべてを読んだのち解答に臨むことになったが、解答の条件の把握にも時間をとられ(たとえば字数のカウント)、とうてい25分程度ではできなかった。


KADOKAWA発行本が扱っていた出題文(複数の文章や関連資料の読込作業)に関して言えば、学びの教材としてはいいかもしれないが、国語専門家が言うように、公平を期さなければならない共通テストの出題文とするには向いてはいない。100人いたら100通りある表現を採点するのに条件や文字数を採点基準に入れるのは妥当ではない。


ついでに学びの方法を述べると、文章はなんでもよく、段落ごとに自分の言葉で要約する訓練がある。本文中の言葉以外の自分の言葉で半文字数以下に要点を書く訓練である。この訓練をしたら語彙力も増すし、もちろん読解力も筆記力も身に着く。



人間が他の動物とはかけ離れて発達したのは言語を持っていたからである。人間が何かを思ったり考えたりしたとき、たとえ発語していなくても、脳自身は言葉を用いている。嬉しいときは「うれしい」と。悲しいときは「かなしい」と。数学を学ぶときも、理科や社会科を学ぶときも、もちろん国語を学ぶときも。だから、言語科学は他のどんな科学よりも先行しているのである。


大学での学びは専門書を読み、理解し、そして自身の仮説をつくることである。専門書を読みこなすぐらいの読解能力と自分の仮説を筆記できる日本語力である。それくらいの日本語力をつければ、英語の論文を書くぐらいは容易いとは言わないが、そう難しいものではなくなる。私がそうだったから、言えるのである。