「専門家会議」という欺瞞的組織
自宅待機を命じられて死ななくてもいい人が死んだーーいや実質的には殺されたといってもいいだろうーーことが表面化して、「4日発熱自宅待機」と言った、言わないで、専門家会議の欺瞞性がうきぼりになっている。
たしかテレビで言っていたのは「37.5度以上の発熱が4日以上で連絡を」だったような。つまり、視聴者の理解は「発熱が4日続いて初めて診てもらえる」である。3日ではだめで、4日の発熱が必要という理解である。私事を言えば、平熱が36度以下である私にとって37.5度は高熱の範疇に入る。この高熱を抱えて4日間待機しろは、私にとっては死亡しても待機しろということと同じである。
さて、何かことがあると、専門家と呼ばれる人間が徴集され、専門家会議が開かれ、「専門家が言ってたから、OOである」と国民は納得させられる。福島原発事故なんかがいい例である。放射性物質が日本列島の半分ぐらいに飛び散っても、専門家が「放射能はゼロ」と言えば、善良な国民は安心する。
専門家会議という言葉そのものにひれ伏す国民性は日本人だけだろうか? だけか、どうかは知らないが、権威主義社会の日本では、「専門家(会議)」とかいう種類の言葉に弱いことはゆがめない。
そんなに遠くない昔、OO諮問会議というものに一般応募して参加したことがある。無肩書の私の意見が通るとは思わなかったが、会議というものがどういうふうに行われるのか興味があったからである。
小さな地域におけるそれとはいえ、メンバーは、議員/元議員、教育委員会委員、校長/元校長、等々と、その地域の名だたる権力・権威者で成り立っていて、狭い地域における彼らは互いに顔見知りのようだった。一人も顔見知りがいないのは私だけだったかもしれない。女性は私の他に二人ほどいたかどうか、まあはっきりとは憶えていない。
議題や議事進行の原案/素案はあらかじめ行政人の手によって出来あがっていて、メンバーからたまに意見がでることはあったが、ほとんどの原案は、言葉使用等の修正以外、内容的にはほとんど全員一致で承認されていった。
ときは、小泉内閣によって、教育基本法が改悪され、教育の目的が「社会に貢献する人材の育成」とされたころである。その小さな地域でも、この文言が原案に記されていた。そこで、「子どもは社会に貢献するために生まれてきたのではなく、自分自身の幸福のために生まれて育つのであるから、この文言は省いたほうがいい。社会から愛されて育てば、強制しなくても社会を愛し、社会の役にたちたいと思う」と、たしかそのようなことを言った憶えがある。
さて、私の意見は、もちろん、通らなかった。「悪法も法である」という地域権威者の言葉に、絶句した私は「どうせ多数決で決まるのですから、さっさと挙手裁決しましょう」と言った憶えがある。
これが「OO会議」という本当の姿である。政権/行政が自分達に都合のよい似非専門家を徴集し、「やった」という体裁だけ整え、「外部から多様な意見を取り入れた」という振りをし、自分たちの都合のよい政策を行う。もちろん、メンバーに対しては大きな見返りが存在するはずである。