子どもたちのあいだに教育格差はあるが、学力格差はない。


32日、科学的根拠も示されないままに安倍の思いつきでなされた全国一斉休校。まず全国一斉にPCR検査がされて、その結果の休校措置なら分かるが、そうではない。


昔、私が小学生だったころ、学校で一斉にツベルクリン反応注射をして、赤い部位の大きさによって、BCGあるいはレントゲン検査がなされていたが、この方法で唾液によるPCR検査をすれば生徒たちの一斉検査は可能である。感染している子どもたちと、そうでない子どもたちとを分ければ、学校を閉鎖しなくてもすむ。


しかし、日本政府はかたくなにPCR検査を抑制する。その理由はワクチン利権のいっさいを独占したい組織がいるからであろう。



学校は全国一斉に閉鎖され、その結果、学力格差だと騒ぎ立てる。これは子どもたちと親たちを人質にして利権を食いあさる文科省による何らかの作為であろう。なにしろ、彼等はときに自国民の災難さえ、自分たちの懐を温める材料にしようと画策する。


さて、学力とは何か? 文字通り「学ぶ力」である。この力を推進させるのは試験でもテストでもない。「楽しいから学ぶ」である。学ぶものはなんでもいいはずだが、入試制度がある日本では、数学、理科、国語、英語等の入試科目が重要視される。だから、2〜3か月学校に行かなかっただけで、入試に敗れたらどうしようという不安が生じる。入試が定める基準に到達しているかどうか気になる子どもたちと親たちを学力格差という言葉で煽る。これが彼らの作為である。



多様な個性と個々に違う「学ぶ力」を規格化するから学力格差などという言葉が生まれる。たった2〜3か月である。長い休暇をとったと思えばいい。その間、子どもたちは言葉にならない貴重な体験をしているはずである。これも重要な学びである。漢字をいくつ憶え、分数計算ができるようになるだけが学びではない。人間の子どもは本来ゆっくり育つ生き物である。ゆっくり育つ子どもは学びを獲得する受容体をも大きく多様に育てる。やがて何かを学びたいと自覚し行動に移したとき、その大きく育った受容体が役に立つ。もちろん学びの利益は、教育産業や文科省にではなく、学ぶものに帰属する。

私的体験を言えば、小学五年生の一学期のすべてを病気で休んだことがある。病院のベッドで寝ているだけだったが退屈に思ったことはない。逆に学校に行かないでいいのだから楽しかった。学力の遅れなどという焦りもなかった。事実、2学期に学校に行ったとき、一学期の遅れなんて微塵も感じなかった。今になって思えば、あの間、静かに流れる時間を感じながら、ベッドから飽きもせず窓を通して刻々と変わる空模様を見ていたことが、今の私を形づけているような気がしないでもない。家や学校以外の場所と人たち、自然や他者を意識し、自己を認識する。つまり、未熟ながらも、アイデンティティの形成である。



私たちが認識しなければならないことは教育には即効薬など無いということである。学校はこの即効薬を処方する場所と思いがちだが、学びのための即効薬なんて無い。くわえて、学校が教えるのは規律と訓練もある。こんなもので動かされていると、自分で自分をコントロールできる人間に育つことができなくなる。



子どもたちが潜在させる「学ぶ力」に大きな違いはないとはいえ、格差社会になって久しい日本である。教育格差(学力格差ではない)はある。この教育格差を克服するためには、教育に自由をあたえ、中央集権的な大人の支配力から子どもたちを守ること。具体的には、4月とか9月とか決めるのではなく、学校の門戸をいつでも開けておくことである。そのためには保障教育を充実させること。誰にでも、いつでも学校の門戸をあけておくこと、そうしたら学力格差などという言葉は死語になる。

新型コロナで大学をやめざるをえなかった学生たちがいると聞く。大学の門戸を開けとけば、またいつでも大学に戻ることができる。そういう日本でありたいと、つくづく思う。

{参照:拙HP内シラバス(syllabus)方式}