オンライン授業の功罪罪罪



新型コロナ禍の学校閉鎖にともない、オンライン授業が注目されている。大学生ぐらいになれば、授業科目にもよるが、それもありとは思う。しかし中学生以下、とくに小学生におけるそれは功なくして罪のみだと考える。



最近、まだ言葉もまともに話せない子どもにタブレットを与えている光景をよく見る。しかも親は自慢げに、うちの子すごいでしょうとでも、これ見よがしに、英語単語をリピートさせていたりする。しかし、子どもはとみれば、親の監視がなくなれば、好きな画面にきりかえている。



通っていたクリニック待合室でのよく目にした光景も同じようなものだった。スマホ画面に夢中の母親と彼女のよこで退屈そうにしている子ども。スマホの電磁波は強い。まだ育ちきっていない小さな脳が電磁波に侵されなければいいがと思っていた。これって老婆心だろうか。



小学生にオンライン授業をする弊害は電磁放射線以外にもある。オンライン教育は拙本「続・入試制度廃止論」内で論じているインターネット生育環境(ボールを投げれば投げ返されるという直接的触れ合いがない)そのものだからである。とにかく、人間にかぎらず、生き物が正常に育つ環境は「触れる・触れ合い」が絶対不可欠な条件なのである。タブレットと触れ合うことはできない。



くわえて、タブレット画面は子どもの関心を強く引くが、画面が移れば、子どもの関心も移り、以前の関心は消える。つまり子どもの学習態度はつねに受け身的であり、自ら思考するという能動的な学習習慣は得られない。



たとえば、頭が古いせいか、私はコンピューター画面上では難解な文章を読むことはできない。理解するためには、プリントアウトして紙の上の文章を再度読む必要がある。「読む」とはたんに文字の羅列を目で追うだけではなく、明確にその文章が何を言っているのか理解することである。



私の例が子どもたちに当てはまるかどうか分からないが、傾向的には本を読んでいない最近の子どもたちである、タブレット上の文章を読めているかどうか怪しいという懸念がある。



この懸念は、マンツーマンで子どもたちに教えていた経験からきている。「目で文字を追ってはいるものの読めてはいない」という現象である。聞く力も同様に、「聞いているのに、聞けていない」という現象である。つまり、教室で、教師の話を聞いてはいるものの、子どもたちの言語脳にまでとどいていないという現象である。



読むとは目からの情報が言語脳へ、聞くとは耳からの情報が言語脳へ、それから脳へと情報を伝えることである。したがって、同時に言語脳を刺激する音読がいちばん効率のよい学習法にきまっている。つまり初期/基礎的学びの方法はアナログが一番だということである。



アナログが一番効果的であると考える一つの重要な要件は、人類の文明がいかに発展しようとも、生まれてきたばかりの子どもの学習基盤は原始人の子どもとたいして変わらないということである。そんな未熟な脳にタブレットを与えることは罪罪罪以外のなにものでもない。