二〇一七年センター試験国語第一問出題文の解析


はじめに
 残念ながら、今回の出題文中にも問題点がいくつかあった。そのなかでも特に問題なのは最終段落における意味論に則らない結論の導きかたである。
 米国で言語学を学んだ私にとって、それら問題点(難点)の指摘は容易にできる。しかし、国語文法の専門家ではない私にとって、意味論の原則から外れている理由を、国語文法をもって明確に説明することは容易な作業ではない。とはいえ、私は日本人である。日本に生まれてからこのかた日本語に馴染んでいる。日本語を母国語とする者としての自負もある。広辞苑さえあれば、すべて解明できるはずである。ということで、これから広辞苑のみを頼りに検証していくことにする。
 検証作業の度に毎回言っていることであるが、「論文形式文は首尾一貫性をもった完成論文の体を成す」ことが大前提である。この大前提を基軸として、これから検証作業をすすめていくことにする。ちなみに問題個所には分かりやすいように傍線を引いておく。

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段落一
 現代社会は科学技術に依存した社会である。近代科学の成立期とされる十六世紀、十七世紀においては、そもそも「科学」という名称で認知されるような知的活動は存在せず、伝統的な自然哲学の一環としての、一部の好事家による楽しみの側面が強かった。しかし、十九世紀になると、科学研究は「科学者」という職業的専門家によって各種高等教育機関で営まれる知識生産へと変容し始める。既存の知識の改訂と拡大のみを生業とする集団を社会に組み込むことになったのである。さらに二十世紀になり、国民国家の競争の時代になると、科学は技術的な威力と結びつくことによって、この競争の重要な戦力としての力を発揮し始める。二度にわたる世界大戦が科学―技術の社会における位置づけを決定的にしていったのである。

段落一の検証・・・問題点無し。

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段落二
 第二次世界大戦以後、科学技術という営みの存在は膨張を続ける。プライスによれば、科学技術という営みは十七世紀以来、十五年でバイゾウするという速度で膨張してきており、二十世紀後半の科学技術の存在はGNPの二パーセント強の投資を要求するまでになってきているのである。現代の科学技術は、かつてのような思弁的、宇宙論的伝統に基づく自然哲学的性格を失い、先進国の社会体制を維持する重要な装置となってきている。

段落二の検証・・・問題点無し。

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段落三
 @十九世紀から二十世紀前半にかけては科学という営みの規模は小さく、にもかかわらず技術と結びつき始めた科学―技術は社会の諸問題を解決する能力を持っていた。「もっと科学を」というスローガンが説得力を持ち得た所以である。しかし二十世紀後半の科学―技術は両面価値的存在になり始める。現代の科学―技術では、自然の仕組みを解明し、宇宙を説明するという営みの比重が下がり、実験室の中に天然では生じない条件を作り出し、そのもとでさまざまな人工物を作り出すなど、自然に介入し、操作する能力の開発に重点が移動している。その結果、永らく人類を脅かし苦しめてきた病や災害といった自然の脅威を制御できるようになってきたが、同時に、科学―技術の作り出した人工物が人類にさまざまな災いをもたらし始めてもいるのである。科学―技術が恐るべき速度で生み出す新知識が、われわれの日々の生活に商品や製品として放出されてくる。いわゆる「環境ホルモン」や地球環境問題、先端医療、情報技術などがその例である。こうして「もっと科学を」というスローガンの説得力は低下し始め、「科学が問題ではないか」という新たな意識が社会に生まれ始めているのである。

段落三の検証・・・@文中に二つの問題点あり。
その1 「科学」という言葉と「営み」という言葉とのあいだに意味的接点は一切存在しない。換言すれば、両者間の関係は数理的概念である同値関係にも包含関係にもあたらないということである。したがって、同値関係あるいは包含関係を示す「という」言葉を使うことはできない。(参照、摂著・日本語を教えない国日本・第四章意味論の原則)
その2 「小さく」は形容詞の連用形である。連用形は用言に連なるときの形である。たとえば、「小さくさえずる」というように使用されるのであって、@文のように連用形をもって文を中断することはできない。連用形で前文を止めるとしたら、@文は「・・・は小さく、〜は大きく」のような形態でなければならないが、そうはなっていない。つまり、つながりようのない前文と後文をむりやりつなげているから@文は意味不明になる。
 そこで、添削は次のようにする。@文は過去の出来事を述べているので、形容詞の連用形「小さかっ」に過去の意味を示す助動詞「た」を付け、くわえて、「た」の後ろに、「・・・だけれども」の意味の接続助詞「が」を付け、「小さかったが」とする。「が」は付ける必要はないが、後文の文頭で使用されている接続詞「にもかかわらず」へと意味上つながりやすいので、あえて付ける。

@文の添削

 十九世紀から二十世紀前半にかけては科学に対する営みの規模は小さかったが、にもかかわらず技術と結びつきはじめた科学―技術は社会の諸問題を解決する能力を持っていた。

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段落四
 @しかし、科学者は依然として「もっと科学を」という発想になじんでおり、このような「科学が問題ではないか」という問いかけを、科学に対する無知や誤解から生まれた情緒的反発とみなしがちである。Aここからは、素人の一般市民への科学教育の充実や、科学啓蒙プログラムの展開という発想しか生まれないのである。

段落四の検証
 @文.の..前文が「...おり」で止められているので、主語の存在と前後の繋がりがぼやけ、文全体が意味不明になっている。好意的に解釈すれば、前文は原因、後文はその原因が導く結果を述べていることが判明する。そこで、「なじんでおり」を「なじんでいるので」とする。
 A文内の...「素人の一般市民への科学教育」における格助詞「の」であるが、句のなかに複数の「の」が使用されると明確さを欠くので、「素人である一般市民への科学教育」と訂正する。

@A文(段落四)の添削
 しかし、科学者は依然として「もっと科学を」という発想になじんでいるので、このような「科学が問題ではないか」という問いかけを、科学に対する無知や誤解から生まれた情緒的反発とみなしがちである。ここからは、素人である一般市民への科学教育の充実や、科学啓蒙プログラムの展開という発想しか生まれないのである。

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段落五
 このような状況に一石を投じたのが科学社会学者のコリンズとピンチの『ゴレム』である。ゴレムとはユダヤの神話に登場する怪物である。人間が水と土から創り出した怪物で、魔術的力を備え、日々その力を増加させつつ成長する。人間の命令に従い、人間の代わりに仕事をし、外敵から守ってくれる。しかしこの怪物は不器用で危険な存在でもあり、適切に制御しなければ主人を破壊する威力を持っている。コリンズとピンチは、現代では、科学が、全面的に善なる存在か全面的に悪なる存在かのどちらかのイメージに引き裂かれているという。そして、このような分裂したイメージを生んだ理由は、科学が実在と直結した無謬の知識という神のイメージで捉えられてきており、科学が自らを実態以上に美化することによって過大な約束をし、それが必ずしも実現しないことが幻滅を生み出したからだという。Gつまり、全面的に善なる存在というイメージが科学者から振りまかれ、他方、チェルノブイリ事故や狂牛病に象徴されるような事件によって科学への幻滅が生じ、一転して全面的に悪なる存在というイメージに変わったというのである。

段落五の検証
 G文は誤謬文。文頭の接続詞「つまり」の意味は「言いかえれば」であり、前に述べたことがらを解りやすく詳細にあるいは要点等の具体例などを示して再度説明するときに使用する言葉である。したがって、G文はその前文であるF文と前前文であるE文と同じ内容でなければならない。「現代における科学は全面的に善なる存在か全面的に悪なる存在かのどちらかのイメージに引き裂かれている」がE文の内容で、「科学のイメージが二つに引き裂かれたその理由」がF文の内容である。そのうえでG文は「つまり、・・・、一転して全面的に悪なる存在というイメージに変わった」と述べている。これらE文からG文までの内容的流れを記号使用をもって簡単に書くと、「科学のイメージはAとBに分かれている。分かれた理由は・・・である。つまり科学者からAが、事件からBが生じ、一転してBイメージに変わった」となる。意味論に則っていないことは明白である。

G文の添削
 つまり、全面的に善なる存在というイメージが科学者から振りまかれた一方、チェルノブイリ事故や狂牛病に象徴されるような事件による科学への幻滅から悪なる存在というイメージも生じてきたというのである。

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段落六
 コリンズとピンチの処方箋は、科学者が振りまいた当初の「実在と直結した無謬の知識という神のイメージ」を科学の実態に即した「不確実で失敗しがちな向こう見ずでへまをする巨人のイメージ」、つまりゴレムのイメージに取りかえることを主張したのである。Aそして、科学史から七つの具体的な実験をめぐる論争を取り上げ、近年の科学社会学研究に基づくケーススタディーを提示し、科学上の論争の終結がおよそ科学哲学者が想定するような論理的、方法論的決着ではなく、さまざまなヨウインが絡んで生じていることを明らかにしたのである。

段落六の検証
 A文の後文に二つの問題点あり。
その1 格助詞「(終結)が」が読解にブレーキをかけている。ここは係助詞の「は」が妥当である。
その2 「生じている」は「生じていた」と過去形が適切。

A文の添削
 科学上の論争の終結はおよそ科学哲学者が想定するような論理的、方法論的決着ではなく、さまざまなヨウインが絡んで生じていたことを明らかにしたのである。

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段落七
 彼らが扱ったケーススタディーの一例を挙げよう。一九六九年にウェーバーが、十二年の歳月をかけて開発した実験装置を用いて、重力波の測定に成功したと発表した。これをきっかけに、追試をする研究者があらわれ、重力波の存在をめぐって論争となったのである。この論争において、実験はどのような役割を果たしていたかという点が興味深い。追試実験から、ウェーバーの結果を否定するようなデータを手に入れた科学者は、それを発表するかいなかという選択の際にヤッカイな問題を抱え込むのである。否定的な結果を発表することは、ウェーバーの実験が誤りであり、このような大きな値の重力波は存在しないという主張をすることになる。しかし、実は批判者の追試実験の方に不備があり、本当はウェーバーの検出した重力波が存在するということが明らかになれば、この追試実験の結果によって彼は自らの実験能力の低さを公表することになる。

段落七の検証・・・問題点無し。

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段落八
 @学生実験の場合には、実験をする前におおよそどのような結果になるかがわかっており、それと食い違えば実験の失敗がセンコクされる。Aしかし現実の科学では必ずしもそうはことが進まない。B重力波の場合、どのような結果になれば実験は成功といえるかがわからないのである。C重力波が検出されれば、実験は成功なのか、それとも重力波が検出されなければ、実験は成功なのか。Dしかしまさに争点は、重力波が存在するかどうかであり、そのための実験なのである。何が実験の成功といえる結果なのかを、前もって知ることはできない。重力波が存在するかどうかを知るために、「優れた検出装置を作らなければならない。しかし、その装置を使って適切な結果を手に入れなければ、装置が優れたものであったかどうかはわからない。しかし、優れた装置がなければ、何が適切な結果かということはわからない・・・・・・」。コリンズとピンチはこのような循環を「実験家の悪循環」と呼んでいる。

段落八の検証
D文は前文の内容と相反していないので、接続詞「しかし」は読解の妨げ以外のなにものでもない。よって削除が妥当。

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段落九
 @重力波の論争に関しては、このような悪循環が生じ、その存在を完全に否定する実験的研究は不可能であるにもかかわらず(存在、非存在の可能性がある)、結局、有力科学者の否定的発言をきっかけにして、科学者の意見が雪崩を打って否定論に傾き、それ以後、重力波の存在は明確に否定されたのであった。Aつまり、論理的には重力波の存在もしくは非存在を実験によって決着をつけられていなかったが、科学者共同体の判断は、非存在の方向で収束したということである。

段落九の検証
 二つの格助詞「を」がA文を不明瞭にしている。最初の格助詞「を」は係助詞「は」使用が適切であり、二番目の格助詞「を」は「が」使用が適切である。
 
A文の添削
 つまり、論理的には重力波の存在もしくは非存在は実験によって決着がつけられていなかったが、科学者共同体の判断は非存在の方向で収束したということである。

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段落十
 @コリンズとピンチは、このようなケーススタディーをもとに、「もっと科学を」路線を批判するのである。A民主主義国家の一般市民は確かに、原子力発電所の建設をめぐって、あるいは遺伝子組み換え食品の是非についてなどさまざまな問題に対して意思表明をし、決定を下さねばならない。Bそしてそのためには、一般市民に科学に「ついての」知識ではなく、科学知識そのものを身につけさせるようにすべきだ、と主張される。Cしかしこのような論争を伴う問題の場合には、どちらの側にも科学者や技術者といった専門家がついているではないか。Dそしてこの種の論争が、専門家の間でさえ、ケーススタディーが明らかにしたように、よりよい実験やさらなる知識、理論の発展あるいはより明晰な思考などによっては必ずしも短期間に解決できないのであり、それを一般市民に期待するなどというのはばかげていると主張するのである。E彼らはいう。F一般市民に科学をもっと伝えるべきであるという点では、異論はないが、伝えるべきことは、科学の内容ではなく、専門家と政治家やメディア、そしてわれわれとの関係についてなのだ、と。

段落十の検証
 ここ段落十の主要論点は、科学者が推奨する「もっと科学を」路線を批判するコリンズとピンチの主張であろうと推測するが、なにせBCD文には主語がないから、写真でいうところのピンボケ状態になっている。書き手独自の主張である論文形式文は、小説等と違い、言外的含みを読み手と共有することができないゆえに、明記されるべき主語が無いと論点そのものが見えなくなる。
 B文末の「される」は「する」の尊敬語と受身形との二通り考えれれるが、ここの「される」は、どちらとも推定しがたい。「主張する」の主体つまり主語が無いからである。遡ってA文の中にB文の主語を探すが、A文の主部/主語は「民主主義国家の一般市民」であり、これはB文の主語を兼任していない。更に@文にまで遡ると、@文の主語つまり「コリンズとピンチ」にゆきあたるが、これもまたB文の主語を兼任しえない。何故なら、コリンズとピンチは「もっと科学を」路線を批判する立場におり、B文が言う「一般市民に科学知識そのものを身につけさせるようにすべきと主張する側には立っていないからである。では立っているものはと推察すれば「科学者たち」以外には無い。そこで添削文は次のようになる

B文の添削
 そしてそのためには、一般市民に科学に「ついての」知識ではなく、科学知識そのものを身につけさせるようにすべきだと、科学者たちは主張する。
 
 C文は主語不在に加え、文末を「・・・ないか+読点」で終わらせているから、意味不明な不完全文になっている。主語は、文頭の「しかし」から推察するに、B文の主語と対立するもの、つまりコリンズとピンチであろうと推察できる。次に、内容から読み解くと、C文はD文へと続く並列文であることが判る。したがって、「・・・ではないか、〜ではないか、」の形、つまりC文とD文をつなげて一文とするほうが、不完全なC文の意味不明さはもちろん、D文も明解になる。さらに不明の主語であるが、文面からコリンズとピンチであろうと推察する。

C文とD文を一文にして添削

 しかしこのような論争を伴う問題の場合には、どちらの側にも科学者や技術者といった専門家がついているではないか、そしてこの種の論争が、専門家の間でさえ、ケーススタディーが明らかにしたように、よりよい実験やさらなる知識、理論の発展あるいはより明晰な思考などによっては必ずしも短期間に解決できていないではないか、それなのに一般市民に期待するなどというのはばかげていると、コリンズとピンチは主張するのである。

 F文の主格代名詞「われわれ」の使い方が間違っている。F文に先行するE文は「彼らはいう」であるから、F文は彼らつまりコリンズとピンチの言葉(主張)である。コリンズとピンチが「伝えるべきことは、専門家と政治家やメディア、そしてわれわれ(コリンズとピンチ)との関係について」と言うわけがない。したがって、「われわれ」とは「一般市民」のことである。

F文の添削
 一般市民に科学をもっと伝えるべきであるという点では、異論はないが、伝えるべきことは、科学の内容ではなく、専門家と政治家やメディア、そして一般市民との関係についてなのだ、と。

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段落十一
 @科学を「実在と直結した無謬の知識という神のイメージ」から「ゴレムのイメージ」(=「ほんとうの」姿)でとらえなおそうという主張は、科学を一枚岩とみなす発想を掘り崩す効果をもっている。Aそもそも、高エネルギー物理学、ヒトゲノム計画、古生物学、工業化学などといった一見して明らかに異なる領域をひとしなみに「科学」となぜ呼べるのであろうか、という問いかけをわれわれは真剣に考慮する時期にきている。

段落十一の検証
 前段落と同様、再び不明な主格代名詞「われわれ(A文内)」に読み手は困惑する。まず、@文の内容はこの出題文を書いた書き手の意見(ゴレムを良しとする)だということは判る。ではA文のそれはどうだろうか。「・・・異なる領域をひとしなみに科学と呼べるのかという疑問」を問いかけているが、この問いかけをしているのは書き手なのか、それともコリンズとピンチなのか、そこのところが明確ではない。そこで邪道的読解方法ではあるが、後続する段落から読み解いていくことにする。すると、段落十二も段落十三も書き手自身の意見だということが判明する。ゆえに、ここ段落十一からはじまった書き手の意見言及は結論部分の最終段落十三まで一貫して続いているだろう考えるのが妥当である。したがって、ここの「われわれ」とは書き手をふくめたこの出題文の読み手であろうと推察する。よって、添削する必要なし。添削する必要がないことがらをながながと説明したのには理由がある。注意をもって代名詞を使用して欲しいからである。

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段落十二
 @にもかかわらず、この議論の仕方には問題がある。Aコリンズとピンチは、一般市民の科学観が「実在と直結した無謬の知識という神のイメージ」であり、それを「ゴレム」に取り替えよ、それが科学の「ほんとうの」姿であり、これを認識すれば、科学至上主義の裏返しの反科学主義という病理はイやされるという。しかし、「ゴレム」という科学イメージはなにも科学社会学者が初めて発見したものではない。歴史的にはポピュラーなイメージといってもよいであろう。メアリー・シェリーが『フランケンシュタインあるいは現代のプロメテウス』を出版したのは一八一八年のことなのである。その後も、スティーブンソンの『ジキル博士とハイド氏』、H・G・ウェルズの『モロー博士の島』さらにはオルダス・ハクスリーの『すばらしき新世界』など、科学を怪物にたとえ、その暴走を危惧するような小説は多数書かれており、ある程度人口に膾炙していたといえるからである。

段落十二の検証
 問題は三つある。
その1 @文の「にもかかわらず」が不適切使用。「にもかかわらず」は前文の内容(情報や説明)を受け、それに反対の内容(情報や説明)を下に続けるための言葉である。前文である前段落末文は情報や説明ではなく書き手自身の意見(このことは前段落の検証において立証済み)である。自分が述べたことと反することを書くのであるから、「とは言え」というような言葉が適切である。
その2 A文の前文は、「コリンズとピンチは、一般市民の科学観は実在と直結した無謬の知識という神イメージだと言う」と断定しているが、段落五のG文と段落六の@文に書かれているように、「実在と直結した...神イメージ」は「科学者が振りまいたイメージ」であり、一般市民独自の科学観という記述はない。したがって、「一般市民の科学観」は「科学者が振りまいてきた科学観」と訂正されるが適正である。
その3 A文の後半「(コリンズとピンチは)...これを認識すれば、...病理はいやされるという」が意味不明である。この不明さを解明するために、ここまでの議論の推移を整理する必要がある。次がその議論の推移である。 

議論の推移・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「段落一」&「段落二」・・序論(論文の導入部分)

 「段落三」・・・書き手の言葉による科学の環境説明。十九世紀から二十世紀前半までは「もっと科学を」スローガンが説得力をもっていたが、二十世紀後半の科学―技術は善悪の両面価値的存在になり始める。
 
 「段落四」・・・書き手の言葉による科学の状況説明。「もっと科学を」路線を続ける科学者は、一般市民が抱く科学への不信を科学に対する無知や誤解から生まれた情緒的反発とみなしがち。
 
 「段落五」・・・コリンズとピンチが主張する「科学はゴレム」説の言及。科学に対するイメージは科学者からふりまかれた「善イメージ」とチェルノブイリ事故等による「悪イメージ」とに分裂したと彼らは言う。
 
 「段落六」・・・科学のイメージを神からゴレムへと、コリンズとピンチは主張する。コリンズとピンチは彼らの主張を立証するために実験をめぐる論争をとりあげる。
 
 「段落七&段落八」・・書き手は、それら論争のなかの一つである重力波をとりあげ、コリンズとピンチがそう呼ぶところの「実験家の悪循環」を説明する。

 「段落九」...重力波論争の収束の仕方が述べられている。

 「段落十」・・・コリンズとピンチは「もっと科学を」路線を批判する。そして、彼らは「一般市民に伝えるべきことは、科学の内容ではなく、専門家と政治家とメディア、そして一般市民との関係である」と、言う。

 「段落十一」...書き手は、科学の一枚岩性を崩す効果をもつと、「科学のゴレムイメージ」を支持する。
 
 「段落十二」...A文が意味不明なので要約不能。  

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 さて、議論の推移から、すべての論点は科学至上主義か反科学主義かどちらかに分けられることが判明する。その仕訳は次のようになる。
   
  *科学至上主義=科学者=もっと科学路線=科学は善イメージ=科学は神イメージ
  *反科学主義=科学への不信を抱く一般市民=科学は悪イメージ=科学はゴレムイメージ
   
 では、「病理」は科学至上主義なのか反科学主義なのか?
 中立の立場で科学の歴史・環境的状況のみを書いてきた書き手は、段落十一において初めて自分の意見として、「科学をゴレムのイメージでとらえなおそうという主張は、科学を一枚岩とみなす発想を掘り崩す効果をもっている」と述べている。つまり書き手は「科学のゴレムイメージ」を肯定的に捉えていることになる。そして、このゴレムイメージは反科学主義の範疇にある。換言すれば「ゴレムは反科学主義の象徴」ということになる。これが、この出題文の「段落一」から「段落十一」まで読まされてきた読み手の認知・心理事象である。この認知・心理事象をすりこまれた読み手にすんなり入ってくる言葉は「ゴレムを承認する科学観を信じる人々は『科学至上主義を病理』と呼ぶことはあっても、『反科学主義を病理』と呼ぶ可能性は少ない」である。しかし実際、読み手はここA文において反科学主義は病理だと読まされる。
 すなわち、A文が意味不明な理由は、意味論(読み手の認知・心理事象と合致)から外れている内容だからである。
 では、どう添削したらいいのだろうか。書き手の意図に反するかもしれないが、方法はある。一つの疑問を解明すれば意味論に則った文にすることができる。その疑問とは、A文が言うように「反科学主義という病理」が存在するのであれば、その逆の「科学至上主義という病理」も存在しえるのではないかという疑問である。どちらのほうがより病理なのかというと、この出題文の段落十一までを読まされてきている読み手の脳に強く入力されている認知・心理事象は科学至上主義の病理性のほうである。したがって、「科学至上主義そして反科学主義ともに、偏執的になればその科学観は病理である」とでもなろうか。しかし、厳密に言えば、A文はコリンズとピンチの言葉として書かれているので、この添削文が正しいかどうかは、彼らの執筆物を読んでいない私には断言できない。できないと断っておいて、次のような添削を試みた。
 
@文とA文の添削
 とは言え、コリンズとピンチの議論の仕方には問題がある。彼らは、科学者が振りまいてきた科学観「実在と直結した無謬の知識という神のイメージ」を科学の「ほんとうの」姿である「ゴレム」観に取り替えよ、これを認識すれば科学至上主義という病理もその裏返しの反科学主義という病理もイやされるという。

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段落十三
 @結局のところ、コリンズとピンチは科学者の一枚岩という「神話」を掘り崩すのに成功はしたが、その作業のために、「一枚岩の」一般市民という描像を前提にしてしまっている。A一般市民は一枚岩的に「科学は一枚岩」だと信じている、と彼等は認定しているのである。B言いかえれば、科学者はもちろんのこと、一般市民も科学の「ほんとうの」姿を知らないという前提である。Cでは誰が知っているのか。科学社会学者という答えにならざるを得ない。D科学を正当に語る資格があるのは誰か、という問いに対して、コリンズとピンチは「科学社会学者である」と答える構造の議論をしてしまっているのである。

段落十三の検証
 考察すべき問題は三つある。特に問題なのは根拠の提示なしに結論が恣意的に導かれていることである。
その1 @文の「科学者の一枚岩という『神和』」が意味不明。段落十一@文のなかにある「科学を一枚岩とみなす発想」から、「一枚岩とみなされているのは科学そのもの」であるから、「科学者の一枚岩という神話」は「科学は一枚岩という神話」と訂正する。
その2 同じく@文内の「『一枚岩の』一般市民という描像」も意味不明である。これの意味は、好意的に解釈すれば、次にくるA文「一般市民は一枚岩的に『科学は一枚岩』だと信じている」と同じであろうとは推測される。換言すれば、「すべての一般市民は「科学は頑強な大きな岩のように絶対的なもの」だと、不動的に信じている」とでもなるが、しかし、このことをコリンズとピンチが認定している、と断定するには無理がある。何故なら、「一般市民は一枚岩的に『科学は一枚岩』だと信じている」という内容のコリンズとピンチによる言葉の記載つまり根拠が、ここ段落十三にいたるまで示されていないからである。
その3 前提という言葉が@文とB文に一つずつ使用されているが、根拠が前もって示されてはじめて「前提」という言葉が生きるのであり、根拠がしめされていなければ、「前提」という言葉は本来の意味を失い、読解を妨げるだけの障害文字となる。前提となる根拠がコリンズとピンチによって書かれた文献のなかに書かれているのかもしれないが、そうであればなおのこと、引用等によって示されなければならない。何故なら、この出題文の読み手はコリンズとピンチによる文献を読んでいないからである。

段落十三の添削
 コリンズとピンチによって書かれた本を読んだことがない私には、段落十三の添削をすることは不可能である。仮に添削したら、それは訂正ではなく改竄になるおそれがあるからである。

総括
 添削は不可能だが、出題文を論文形式文により近くするための手段をいくつか言及しておく。
 まず、結論の導き方は唐突であってはならない。これが論文形式文を書くときの原則である。この出題文の論点がここ段落十三末文に書かれているように「構造の議論の是非」であるならば、この論点のスタート点は段落十二の@文「にもかかわらず、この議論の仕方には問題がある」である。このスタート点から結論文「科学を正当に語る資格があるのは誰か、という問いに対して、コリンズとピンチは『科学社会学者である』と答える「構造の議論をしてしまっているのである」にいたるまでに根拠が示されていなければならないが、残念ながら示されていない。前提という言葉が二つ用いられているが、根拠が示されていなければ、文そのものだけではなく、段落全体も意味論から外れ意味不明となり、ひいては、その意味不明さは全文に波及し、この論文(?)何言っているかさっぱり分からないということになる。
 結論にいたるまで根拠がなにひとつ示されていないということは、この出題文には本論部分がないということになる(段落一から段落十一までを要約した「議論の推移」を参照)。出題文は「科学コミュニケーション/著・小林傅司」からの一部抜粋だから、「導入部―本論―結論」という論文形式文の形式はとれないという出題者からの言い訳も予想されるが、そんな言い訳は通らない。段落十三が「結局のところ」という表現ではじまっている以上、「いろいろなことを書いてきたが最後にいきつくところは〜である」というように、結論を示している段落であることは明白だからである。
 この出題文を正当な論文形式文にするための提案は、段落十二から段落十三へのつなぎとして、「つまり、『ゴレム』という科学イメージは歴史的に存在していたのであり、コリンズとピンチのような科学社会学者が初めて発見したイメージではないということである」というような文を段落十二の末に加えること、そして、段落十二と段落十三とのあいだに、二〜三の段落を加え、それらの段落のなかで、「構造の議論」という結論へと導くための根拠を示すことである。
 
                                               了