文学賞の実態・宇佐見りん・作「かか」
個人的なはなしをすれば、おそらく、高樹のぶ子が受賞した、あのころから芥川賞作品は読まなくなった。
もともと純文学を目指していたが、当然に意図的に遠ざかった。独りよがりの情操を美的に書きつらねる文体に飽き飽きしだしたからである。主人公は痛い痛いと、これでもかと泣きさわぐが、読者には、最近の若者言葉で言う「うざい感」しかない。うざいと思ったとき、私は本を閉じる。
そんな私に友人から一冊の本が送られてきた。「かか」である。芥川賞受賞前に三島由紀夫賞をとった作品だという。私は最近、ほとんど小説というものは読まない。学ぶものがないからである。知識と情報を得るための科学雑誌や、何かしら自分の肉や血になるものは読んでいるが。
さて、「かか」であるが、2〜3ページを読んだところで本を閉じた。読む気をなくしたことはもちろんだが、「女の股から溢れ出る血液」や「体毛を剃る」表現のおどろおどろしさと、方言なのか口語なのか、何を言っているのかさっぱり分からない、すんなりと読み進められない文に読む価値なしと思ったからである。
何で、こんなものを送ってきたんだと、友人に電話をした。
…「かか」は何を言いたいの? だいたいが読めるしろものではない、こんなものに賞を与えるなんて、日本文学どころか日本語の崩壊だよ。あなた、読んだんでしょう、読んだのであれば、何を言っているのか分かるでしょう? と私。多少怒りが入っている。
…本屋で本を見て買ったわけではなく、新聞の広告欄につられて買ったのよ。でも、さっぱり分からなくて、すぐ読むの止めたの、まあ、あなたなら分かるかなと思って。
…分かるわけがない、だいたい、時間をさいてまでして読む代物じゃあない、と私。
これで一件落着かと思ったが、次第に腹がたってきた。この腹立たしさ1週間すぎたころにピークに達した。書き手本人への怒りではなく、日本の文学界(雑誌名ではない)への怒りである。「各界震撼、話題騒然」と美辞麗句で宣伝すりゃあ、どんな本でも売れるってわけか。広告文句に載せられて買ったのはいいが、買い手は「分からない、分からない」と震撼させられたあげく、金を溝に捨てたも同然となる。
まさに広告文句のように、本の買い手は理解不能な凸凹だらけの文体とわけのわからない「かか言葉」に震撼(ハンドルをとられて読みを中断)させられるわけである。この怒りが私に再び本を開かせた。おかしな箇所を見つけなければ怒りはおさまらないと。
その前に、少なくとも、作品として成立するためには、たとえ造語・方言・口語が多用されているとしても、日本語としての機能がそなわった、つまり、読み手の言語脳にすんなりと入る文章でなければならないということが大前提だということを言及しておく。
さて、ここで芥川賞受賞を狙う作品の構成傾向を述べると、ページを開いてすぐに、内容にこじつけたような、しかしストーリーとはほとんど関係ない「言葉の遊び」ともいえる文字で二~三数ページが埋め尽くされている。「かか」にも、「金魚のように泳ぐ生理の血」と「体毛を剃る」話がえんえんと出てくる。まあ、女に生まれてきた呪縛のようなものを表現したかったのであろうが、これらは作品の質をおとしめる以外になにもない。男性読み手はニヤニヤするかもしれないが、私という読み手は、「うっせえ、うっせえ、うっせわあ! 」だわ。
凸凹だらけの安全運転できねえ「うっぜえ」本を最後まで読む義理はないから、意味不明な二〜三箇所を、質問応答形式で指摘して、終わりにする。
1、言葉間の齟齬
P16…もう明子がかにに刺されてもムヒを塗ってくれる夕子ちゃんはいないんだと思い、痒みはそっくしそのまま痛みになりました。…中略…うーちゃんは相手をからだに取り込んだときだけ、そいを自分として痛がることができるんです。身内になってしまえば、自分のことだかん痛いのはとうぜんです。夕子ちゃんの痛みは感じられないんに、明子にとっての夕子ちゃんはうーちゃんにとってのかかだかん、たまらなく痛いんでした。明子はそいでも基本的にはうーちゃんの身内ではありませんでした。
質問・「夕子ちゃんの痛みは感じられないん」のは、うーちゃんですか、それとも明子ですか?
答え・明確には述べられていないから分かりません。
質門・では、「たまらなく痛いんでした」と言っていますが、痛がっているのは誰ですか? 」
答え・明確にはのべられていないから分かりません。うーちゃんは相手をからだに取り込んだときだけ相手の痛みを自分の痛みとして感じるとは書いてありますが、明子に関しては書かれていませんので。
質門・では、前文の「痒みはそっくしそのまま痛みになりました」は誰の皮膚感覚ですか?
答え・夕子ちゃんを失った明子の痛みを、自分の身体に取り込んだうーちゃんの痛みではあろうとは推測できますが、この推測と、「(明子は)うーちゃんの身内ではありませんでした」とのあいだに齟齬を生じる。
2、食い違う方向表現
P17…みっくんは緑、うーちゃんは黄いろ、と買ってくれたもんで、たしかに今はぜんぜん履かんし…、
…中略…
さすがに、「やまけんくん」のようにいきなし畳の部屋に入っていく人はもういなかったんけんど…
質問・ここは、どこがおかしいのですか?
答え・誰々が買ってくれたと、買ってくれた人が明記されていないので、この文の主語は「みっくん」と「うーちゃん」であり、文の形は受動態である。したがって、「買ってくれたもんで」は「買ってもらったもんで」とならなければならない。
質問・次の文では、どこがおかしいのですか?
答え・「やまけんくん」が畳の部屋へ入っていく姿を見ていたのがうーちゃんだとして、うーちゃんは、どこからその姿を見ていたのか、「やまけんくん」を前から見ることができる家の中からか、それとも「やまけんくん」とともに並んで立っていたか、彼の後ろから見ていたのかのどちらかである。もちろん、入っていくと読まされた読み手が見る光景は、後者である。家のものが来客と同じ位置に立っているかなあ? うーちゃんちはそうかもしれないけど。
以上、指摘してきたような読み手が違和感を覚えるような箇所は「かか」中に他にもあります。そんな違和感は文中にいくつもあっていいのだろうか。私は見過ごしてはならないと思います。見過ごしていたら、日本語そのものを崩壊させていきます。小説はエンターテインメントだから間違った日本語で構成されていいのだとは思いません。
言語があってこそ知識を得ることができます。情報も同じです。科学も同じです。人が人でありえるのは言語のお陰です。
口語は人が日常的に使用するゆえに、少しずつ姿を変えていきます。それは仕方のないことですが、人と人とが話すときは互いに確認しあえます。間違った情報はお互いに補えあえます。それが口語の特徴です。
しかし、口語を書き言葉としてそのまま文章にしたとき、使用に気楽さが生じますから、なんらかの正確さを欠き、齟齬を生じます。文章における表現方法として口語体を使用するときは、文語体よりも注意深く使用する必要があります。
人々が気楽に手にとる小説の世界にも「読めなくて当然、それは読み手であるおまい(おまえのことらしい)が馬鹿だから」という風潮になってきたのだろうか?そうだったら、人々はますます本から離れていくだろう。