二〇一一年センター試験国語出題文の検証
毎年のことながら、今回も検証をはじめるにあたって次の原則を確認しておく。
出題文は書き手にとって作品全体の一部であろうと、試験場ではじめて読まされる受験者にとっては、首尾一貫(導入→論証→結論)性をもった完成論文としての体裁がととのえられていなければならない。書き手が好もうと好まざると、作品は社会に生みだされた時点で書き手から自立して存在する。これが原則である。したがって、書き手が望むどおりの好意的解釈を読み手に期待できないことはもとより、書き手の批評される立場は俎上の魚のごとくなのである。
国語第一問の出題文(鷲田清一『身ぶりの消失』による)を読んだ。その結果、個々の文には大きな文法的間違いは見られなかった。とはいえ、恣意的な言葉使用ゆえに、論文に必要不可欠な一貫性と論理性が欠け、しかも、この恣意さは引用文の選択にまで及んでいた。
論文とは書き手が主張する仮説を一方的に論証する形式の文章である。しかも、その仮説の説得対象は不特定多数の読み手である。人間やその生き方を題材にした小説や随筆等の文学作品ならば、書き手と読み手とのあいだには何らかの認識的共有が存在するが、書き手独自の仮説である論文は読み手に認識的共有を期待することはできない。もちろん、専門用語を駆使しなければ説明しようのない、たとえば医学論文のような読み手を医療関係者に限定する、つまり認識的共有を読み手に期待する論文もあるが、全国の高校生を対象としたセンター試験の出題文はそういう範疇の論文ではない。一般的に論文とは認識を共有しない読み手を説得し、書き手と同じ認識をもたせるところまでいかなくても、少なくともその認識を理解させるための文章である。だからこそ、論文を構成するすべての言葉と文は言語学でいう意味論(下記参照)に則っていなければならないのである。
意味論の概要
言語とは人類が伝達を目的に創造してきた道具である。したがって、発信者と受信者とのあいだに意味が通じてはじめて言語といえるのである。同じ空間を共有する話し言葉の場合は、話し手の身ぶり手ぶりや表情が聞き手の解釈を助ける、あるいは意味が分からなければ尋ねることもできる。しかし、同じ空間を共有しない書き言葉はそうはいかない。
書き手は自由に言葉を使用できるとはいえ、その意味が読み手に正確に伝達されなければ、その言葉は言語としての役割をはたしておらず、ただの単語の羅列にすぎない。言葉が正確に伝達されるためには、つまり言葉が言語であるためには、使用される言葉そのものが、書き手の認知と心理のみではなく読み手のそれらにも適っていなければならないのである。言語とは、使用者である人間の認知と心理の影響を非常に受けた認知・心理事象だからである。
これから、恣意的であるゆえに意味論に則らない言葉使用を指摘することにより、出題文は論文にあるまじき支離滅裂文であるということを証明していくことにする。
《意味論違反その一》...「段落一」〜「段落三」
[段落一]
わたしは思い出す。しばらく前に訪れた高齢者用のグループホームのことを。
「段落二」
住むひとのいなくなった木造の民家をほとんど改修もせずに使うデイ・サービィスの施設だった。もちろん「バリアフリー」からはほど遠い。玄関の前には石段があり、玄関の戸を引くと、玄関間がある。靴を脱いで、よいしょと家に上がると、こんどは襖。それを開けてみなが集っている居間に入る。軽い「認知症」を患っているその女性は、お菓子を前におしゃべりに興じている老人たちの輪にすぐには入れず、呆然と立ちつくす。が、なんとなくいたたまれず腰を折ってしゃがみかける。とっさに「どうぞ」と、いざりながら、じぶんが使っていた座布団を差しだす手が伸びる。「おかまいなく」と座布団を押し戻し、「何言うておすな、遠慮せんといっしょにお座りやす」とふたたび座布団が押し戻される......。
「段落三]
@和室の居間で立ったままでいることは「不自然」である。A「不自然」であるのは、いうまでもなく、人体にとってではない。B居間という空間においてである。C居間という空間がもとめるキョソの「風」に、立ったままでいることは合わない。D高みから他の人たちを見下ろすことは「風」に反する。Eだから、いたたまれなくなって、腰を下ろす。Fこれはからだで憶えているふるまいである。Gからだはひとりでにそんなふうに動いてしまう。
検証
「段落一」と「段落二」は問題ない。問題があるのは「段落三」である。分かりやすいように、「段落三」の各文に番号を付して検証してゆく。
@文は問題ない。A文の「いうまでもなく」は無用な饒舌句である。@文とA文を通した意味は「和室の居間で立ったままでいることが不自然であるのは人体にとってではない」となるが、このことは書き手の説であり、読み手にとっては、「いうまでもない」ほど、自明なことではないからである。この饒舌句は削除が妥当である。
次にB文である。B文の主語(主部)は省略されているが、A文と同じ主語「不自然であるのは」だということは判る。したがって、A文とB文は、それぞれ独立した文として書かれているが、同一主語をもつ並列文だということに気づく。ゆえに、B文もA文と同様に、「(不自然であるのは)居間という空間にとってである」と表現されなければならない。ところが、書き手が使用している言葉は「〜において」である。「〜において」という言葉は「〜のなかで」という意味であるから、B文は「(不自然であるのは)居間という空間のなかでである」という意味になる。ここで読み手に、「では居間という空間のなかで《どういうこと》が不自然なのか」という疑問が生じる。
《どういうこと》とは何か? @文が言う「立ったままでいること」を指していることに気づく。「立ったままでいる」ことができるものを文@ABのなかに探すと、「人体」の他には見当たらない。したがって、文Bの内容は「不自然であるのは居間という空間において人体が立ったままでいること」という意味になる。はてさて、この内容はどこかで読んだようなと、読み返せば、この内容はまさしく@文の内容に他ならないことに気づかされる。
さて、書き手が言いたいことを好意的に解釈すると、彼が主張したいことは「不自然であるかどうかを決定するものは和室の居間という空間であり人体ではない」という概念であろうと推量できる。つまり、「和室の居間という空間」が意思をもつ主体であり、「人体」は主体の作用が及ぶ存在つまり客体という考え方である。この概念をさらに補佐している言葉が次のC文のなかにある。「居間という空間がもとめるキョソの風に、立ったままでいることは合わない」における「もとめる」という言葉である。もとめるという言葉の動作主は一般的な認知・心理事象では意思を持つものだからである。一般的にはそうだとはいえ、『自然が私にもとめる』のように、実際的な動作主でなくてもよいわけで、「居間という空間」であっても言語上では動作主になることができる。だから、「不自然であるかどうかを決定するものは和室の居間という空間であり人体ではない」という概念はなりたつ。
とはいえ、一般的に広く認識された認知・心理事象から外れた文あるいは言葉使用は、その受け手に強いインパクトを与えるということを、書き手は知っておかなければならない。。受けとる言葉が認知・心理事象と違ったり、逆だったりすれば、受け手は異質な認知・心理事象を無理やり呑みこまなければならないからである。では、無理やり呑みこまされた認知・心理事象を途中で反故にされたら、読み手に何が起きるか? 読み手の言語脳回線がショートしてしまい、そこで読解作業は中断せざるをえないという現象がおきる。
書き手が主張する概念に対してとやかく言うつもりはない。独自の概念をもつことは貴重かつ重要である。だからこそ、独自な概念を主張するからには、書き手は首尾一貫性をもって最後までこの主張を貫かなければならない。貫いてくれないと読み手が困惑させられる。言語脳の回線がスムーズに機能しなくなる。
事実、この回線をショートさせる言葉がE文のなかにある。その言葉とは「だから、いたたまれなくなって、腰を下ろす」のなかの「いたたまれない」である。主語が省略されているE文だが、主語を推量すれば、いたたまれないという感情をいだく動作主つまり心や意識をもった「人間」だろうということは推量できる。しかし、[段落三]における書き手の主張は「和室の居間という空間=主体」そして「人体=客体」となっている。「人間」という言葉に対する認知・心理事象と、「人体」という言葉に対する認知・心理事象は大きく違う。では、どう違うのか? 心や意識等の精神作用を行うか行わないかである。行うのが「人間」であり、行わないのが「人体」である。したがって、「人体」は腰を下ろすことはできても、いたたまれないという感情をいだくことはできない。これが「人体」という言葉に対する、日本語を使用する人間の認知・心理事象である。したがって、「いたたまれない」という言葉は使用されるべきではなく、削除が適切なのである。ついでにD文内の「他の人たちを」も削除したほうがよい。
以上の検証をもって、「段落三」を次のように添削する。
[段落三]の添削文
和室の居間で立ったままでいることは不自然である。不自然であるのは人体にとってではない。居間という空間にとってである。居間という空間がもとめるキョソの「風」に、立ったままでいることは合わない。高みから見下ろすことは「風」に反する。だから人体は腰を下ろす。これはからだで憶えているふるまいである。からだはひとりでにそんなふうに動いてしまう。
《意味論違反その二》...「段落四」
[段落四]
@からだが家のなかにあるというのはそういうことだ。Aからだの動きが、空間との関係で、ということは同じくそこにいる他のひとびととの関係で、ある形に整えられているということだ。
検証
意味不明な文が@文である。その原因となるのが「家」と「そういうこと」という二つの言葉である。先に「そういうこと」を、次に「家」を検証する。
「そういうこと」とは「そのようなこと」という意味であり、空間的・時間的または心理的に読み手と認識を共有できることがらを指し示す。よって、これから述べようとすることがらではなく、すでに述べ終わったことがらを指し示していなければならない。したがって、「そういうこと」とは、「段落三」において述べられている内容であるから、「《和室の居間という空間》においてひとりでに動いてしまう所作のこと」になる。
次に、「家」という言葉に関して検証する。「家」には家族としての共同体を示す意味と、居住用の建物という意味がある。論証の対象は、少なくともここにいたる「段落三」までは、家族としての共同体に関してではない。したがって、@文における「家」の意味は後者である。人が住みさえすれば、どんな建物も「家」である。鉄筋とコンクリートでできていても、洋風の外観であっても、アメリカンハウスであっても、マンションやアパートの一室であっても、人が居住していれば「家」である。
ところで、「家」に関する言葉として、書き手が使用してきているのは、[段落一]で「グループホーム」、[段落二]で「木造の民家の居間」、そして[段落三]では「和室の居間」であるからして、それら三者とも「家」という言葉で表現されても何ら問題はないようにはみえる。しかし、読み手の認知・心理事象が読まされている論証の対象は、「グループホーム」から「木造の民家の居間」へと、そして「木造の民家の居間」から「和室の居間という空間」へと、次第に狭い意味へと限定(specific)されてきているのである。限定したのは書き手である。限定しておいて、ここ「段落四」で唐突に一般的あるいは全般的意味の「家」という言葉を使う。
以上の認知・心理事象をインプットされた読み手の立場で「段落四」の@文を解釈すると、たとえば、次のような非論理的な内容になる。
*からだが(どんな家でも例えば鉄筋コンクリートの)家のなかにあるということはそういうこと(和室の居間という空間においてひとりでに動いてしまう所作)だ。
ということで、この段落の添削は次のように@文とA文をおきかえる。@文を後ろにもってくれば、「そういうこと」は@文を指し示すことになるので、@文とA文との相関性が生じる。「家」という言葉も文脈的意味をもってくる。
[段落四]の添削文
からだの動きが空間との関係で、ということは同じくそこにいる他のひとびととの関係で、ある形に整えられる。からだが家のなかにあるというのはそういうことだ。
《意味論違反その三》...[段落五]〜[段落七]
[段落五]
@「バリアフリー」に作られた空間ではそうはいかない。A人体の運動に合わせたこの抽象的な空間では、からだは空間の内部にありながらその空間の〈外〉にある。Bからだはその空間にまだ住み込んでいない。Cそしてそこになじみ、そこに住みつくというのは、これまでからだが憶えてきたキョソを忘れ去るということだ。Dだだっぴろい空間にあって立ちつくしていても「不自然」でないような感覚がからだを浸蝕してゆくということだ。E単独の人体がただ物理的に空間の内部にあるということがまるで自明であるかのように。Fこうして、さまざまなふるまいをまとめあげた「暮らし」というものが、人体から脱落してゆく。
[段落六]
心ある介護スタッフは、入所者がこれまでの「暮らし」のなかで使いなれた茶碗や箸を施設にもってくるよう「指導」する。洗う側からすれば、割れやすい陶器製の茶碗より施設が供するプラスチックのコップのほうがいいに決まっているが、それでも使いなれた茶碗を奨める。割れやすいからていねいに持つ、つまり、身体のふるまいに気をやる機会を増すことで「痴呆」の進行を抑えるということももちろんあろう。が、それ以上に、身体を孤立させないという配慮がそこにはある。
[段落七]
@停電のときでも身の回りのほとんどの物に手を届けることができるように、からだは物に身をもたせかけている。Aからだは物の場所にまでいつも出かけていっている。B物との関係が切断されれば、身は宙に浮いてしまう。C新しい空間で高齢者が転びやすいのは、比喩ではなく、まさに身が宙に浮いてしまうからである。Dまわりの空間への手がかりが奪われているからである。E「バリアフリー」で楽だとおもうのは、あくまで介護する側の視点である。Fまわりの空間への手がかりがあって、他の身体――それは、たえず動く不安定なものだ――との丁々発止のやりとりもはじめて可能になる。Gとすれば、人体の運動に対応づけられた空間では、他のひととの関係もぎくしゃくしてくることになる。Hあるいは、物とのより滑らかな関係に意を配るがために、他者に関心を寄せる余裕もなくなってくる。Iそう、たがいに「見られ、聴かれる」という関係がこれまで以上に成り立ちにくくなる。J空間が、いってみれば、「中身」を失う......。
検証
意味論に反している文は「段落五」におけるA文の後節と、「段落七」におけるA文である。先に、A文の後節を見てみよう。「からだは空間の内部にありながらその空間の〈外〉にある」と言っている。内部にある身体が外にある...とは? ありえないことである。SF小説における表現ならありえるが、たとえ概念の論証であっても、言語は意味論に則って論理的に使用されなければならない。では、後節をもって、書き手はいったい何を言いたかったのか?
読解の本道ではないが、推量すると、[段落一]から「段落四」までに読み手がインプットされてきた認知・心理事象をふりかえれば、「和室の居間という空間におけるからだは家のなかにある」という概念があったことに気づく。この概念にしたがえば、「和室の居間という空間」とは対照的な空間つまり「バリアフリーの空間」にいる身体は「家の外にある」という概念的表現がなりたつ。この表現なら読み手の認知・心理事象にも抵触することはない。そこで、A文の添削は次のようにする。
「段落五」A文の添削文
人体の運動に合わせたこの抽象的な空間では、からだは空間の内部にありながら「家」の外にある。
次に、「段落七」のA文は、@文との相関性がないことに問題がある。@文では「からだは物に身をもたせかけている」と言い、A文では「からだは物の場所にまで出かける」と言う。つまり二つの文の内容は対立関係にあるのである。対立関係にある二つの文をスムーズにつなぐためには、「だけれど」という意味の接続詞が必要である。ついでに、@とAの二文において書き手が言いたかったことを好意的に推量すると、「からだ自体は物に身をもたせかけているのに、バリアフリーの空間(施設)では、からだのほうから物の場所にまで出かけていかなければならない」ではなかろうか。そこで、A文の添削は次のようにする。
「段落七」A文の添削
ところが、バリアフリーの空間では、からだのほうから物の場所にまでいつも出かけていっている。
《意味論違反その四》...「段落八」〜「段落十一」
「段落八」
「中身?」
「段落九」
この言葉をいきいきと用いた建築論がある。青木淳の『原っぱと遊園地』(王国社、二〇〇四年)だ。青木によれば、「遊園地」が「あらかじめそこで行われることがわかっている建築」だとすれば、「原っぱ」とは、そこでおこなわれることが空間の「中身」を創ってゆく場所のことだ。原っぱでは、子どもたちはとにもかくにもそこへ行って、それから何をして遊ぶか決める。そこでは、たまたま居合わせた子どもたちの行為の糸がたがいに絡まりあい、縒りあわされるなかで、空間の「中身」が形をもちはじめる。その絡まりや縒りあわせをデザインするのが、巧い遊び手のわざだということであろう。
「段落十」
青木はこの「原っぱ」と「遊園地」を、二つの対立する建築理念の比喩として用いている。そして前者の建築理念、つまりは、特定の行為のための空間を作るのではなく、行為と行為をつなぐものそれ自体をデザインするような建築を志す。「空間がそこで行われるだろうことに対して先回りしてしまってはいけない」というわけだ。
「段落十一」
では、造作はすくないほうがいいのか。ホワイトキューブのようなまったく無規定のただのハコが理想的だということになるのだろうか。ちがう、と青木はいう。
「まったくの無個性の抽象空間のなかで、理論的にはそこでなんでもできるということではない。たとえば、工場をアトリエやギャラリーに改装した空間が好まれるのは、それが特性のない空間だからではない。工場の空間はむしろ逆に、きわめて明確な特性を持っている。工場には、様々な機械の自由な設置を可能にするために、できる限り無柱の大きな容積を持った空間が求められる。そこでの作業を考え、部屋の隅々まで光が均等に行き渡るように、天井にはそのためにもっとも適切な採光窓がとられる。その目標から逸脱する部位での建設コストは切り詰められる。工場はこうした論理を徹底することでつくられてきた。この結果として、工場は工場ならではの空間の質を持つに至る。工場は、無限定の空間と均一な光で満たされるということと引き替えに、一般的な意味での居心地の良さを捨てるという、明確な特性を持った空間なのである。工場は、単に、空間と光の均質を実現した抽象的な空間なのではない。工場は、そこでの作業を妨害しない範囲で、柱や梁のトラスが露出されている、極めて物質的で具体的な空間なのである。
検証
ここにおける最大の意味論違反は「原っぱと遊園地・青木淳」からの抜粋文を引用したことである。己の説のよりどころとして他者の文章を引用するからには、その内容が己の説をバックアップしていなければ引用する意味がない。いや、意味がないというよりも、間違った引用は己の論証をまで自爆させる危険がある。
では、どのように違反しているか見ていこう。まず、「段落八」において、強調的に問いかけている「中身」という言葉に注目して、書き手が言う中身とは何かをさぐる。初めて「中身」という言葉が出てきたのは、すでに検証済みの「段落七」においてである。その段落のF文からH文までを要約すると、「人体の動きに対応づけられた空間では、身体と他の身体とのやりとりが円滑に成り立ちにくい、これを空間が中身を失うと言う」である。したがって、「身体と他の身体との円滑な関係が中身である」という読み手の認知・心理事象が、すでに「段落七」の時点で出来上がっている。
次に、「段落八」において「中身?」と問いかけられた「段落九」は、その問いかけにどう答えているかを探る。書き手(鷲田)は「中身」を説明するために、青木淳の「原っぱと遊園地」を引き合いに出す。青木は、「原っぱ」とはそこに集まる子どもたちの行為の絡まりあいや縒りあいが空間の「中身」を創ってゆく場所のことだと言っているから、鷲田が言う「中身」と同一である。したがって、「段落九」における引用は間違いない。
次に確認しとくべきは、「中身を創る空間」に対する読み手の認知・心理事象である。これもまた「段落七」を読み終わった時点ですでにでき上がっている。その認知・心理事象は、「《中身を創る空間》は原っぱのような人体の動きに対応していない空間であり、創らない空間は人体の動きに対応づけられた空間(例えばバリアフリーの施設)」である。ということで、これら読み手の認知・心理事象をふまえて、次の段落の検証にすすむ。
「段落十」の内容は、「原っぱ」の建築理念――行為と行為をつなぐものそれ自体をデザインする建築――を青木は志すと述べているにすぎない。論証とはなんら関係がないので、削除すべきが妥当と考える。削除すれば論証の自爆という事故は防げる。何故なら、末文「《空間が...いけない》というわけだ」が起爆剤になっているからである。これに関する仔細は後に述べる。
次の「段落十一」において、鷲田は、(原っぱが理想的ならば)造作は少ないほうがいいのか、と問い、「青木は違うと言っている」と言う。そして「原っぱと遊園地」から長い引用文を載せる。よって、引用文の内容は、「造作は少ないほうがいいというわけではない」を肯定するために用意されたものでなければならない。では、引用文が何を言っているのか見るために、次に要点をピックアップする。
まったくの無個性の抽象空間のなかで、理論的にはそこでなんでもできるということではない。たとえば工場をアトリエやギャラリーに改装した空間が好まれるのは、それが特性のない空間だからではない。…...中略…...。工場は明確な特性を持った空間であり、きわめて物質的な空間である。
さらに要約すると、「まったくの無個性の抽象空間のように見えても、その空間で何かをするからには、その空間はその何かにあわせた明確な特性をもつ。よって、そこで何でもできるというわけではない」となる。そして、この意味をさらに根本までつきつめれば、「造作量の多少は空間の用途に対応する」になる。したがって、「段落十一」の範囲に限れば、たしかに抜粋文は適切に引用されていることになる。
しかし、出題文は「段落十一」のみで形成されているわけではない。論証の道程は作品を通して一貫性が保たれていなければならない。したがって、青木が言う「まったくの無個性の抽象空間」とは、ここ「段落十一」に至るまで書き手が論じてきた「原っぱ」なのか、それとも「バリアフリーの空間(施設)」なのか、抜粋するからには、どちらかに関連していなければならない。まあ、好意的に読めば、「原っぱ」は「無個性の抽象空間」の範疇にふくまれるが、青木が例にあげた「きわめて物質的で具体的な空間」である工場と同質の空間とは言いがたい。ゆえに、引用文はすんなりと読み手の認知・心理事象に入ってこないのである。
あえて言えば、「造作は少ないほうがいいのか? 否! 何故なら工場はうんぬんだ」という内容の「段落十一+引用文」自体が必要なのかという疑問にぶちあたるのである。しいて恣意的な必要性を推量すれば、次の「段落十二」につなげるためかとも思うが、恣意を通させるためには恣意の上塗りしかなく、これ以後の恣意加減は増えこそすれ減ることはない。つまり、「段落十一」と「段落十二」との論理的関連性を装わせるための恣意的作為であっても、いったん崩壊した論理性を繕うことはできないということだ。
この恣意的作為とは、「段落十二」に入ってすぐに使用されている指示詞の「このような空間」である。どの/どんな空間か限定できない曖昧表現で読み手を煙にまく手法である。
さらに、論を決定的に崩壊させるもう一つの――読み手の認知・心理事象が絶対受け入れがたい――決定的な問題がある。先ほど、自爆剤だと判定された「段落十」の末文「《空間がそこで行われるだろうことに対して先回りしてしまってはいけない》というわけだ」である。この一文が書き手自身の言葉として同段落の「原っぱ」を説明するだけに限定されているのであれば問題はないが、「《...》というわけだ」と括弧で囲み、青木の言葉として書いているから、当然ながら、その言葉の影響力は次段落の青木の言葉でつづられた引用文にまで波及するのである。何故なら、同一の書き手が同一論文内で書いた言葉の影響力は発信後自動的に消えるわけではなく、明確な言葉で否定されないかぎり、その言葉は生き続け、その言葉の影響力はどこまでも波及するからである。したがって、その言葉に反する新たな言葉が予告もなしにあらわれた時点で論は崩壊するという悲劇がおきるのである。
では、その実際を見てみよう。先に述べたように、「段落十一」で引用されている引用文の究極的意味は「造作量の多少は建築物の用途に対応する」であった。これは、青木が言う「空間がそこで行われるだろうことに対して先回りしてしまってはいけない」と真っ向から反する。空間を創作するのに、先回りしなければ、造作量の多少はきまらない。たとえば、引用文内の「そこでの作業を考え、…..中略.…..工場は工場ならではの空間の質を持つに至る」という言葉はいみじくも「空間がそこで行われるだろうことに対して先回りして、工場ならではの空間の質を持たせる」という意味である。
簡単に言えば、書き手は「青木はAであると言っている」と主張したのちに、「Aでないと言っている青木の言葉」を引用したということである。これは、もうどうにもならない論の破壊である。読み手の認知・心理事象うんぬんという以前の、書き手の認知・心理事象自体に言語的問題があるとしか言いようがない。
ということで、この時点で出題文の論証は根本的に崩壊していることが判明したのである。相互に排斥しあうような言葉の引用ゆえに、当然ながら論は根本的に崩壊する。したがって、添削しようにも添削する術もなく、検証作業もここで終えるしかない。
恣意を通していったん論を壊せば、その後は恣意の上塗りしかなく、結果的に原稿用紙のます目は恣意的文字でうまることになる。ついでだから、最後に、「段落十二」を記載し、その恣意状態を示唆するかわりに、苦情のようなものを少々述べさせていただくことにする。
「段落十二」
このような空間に「自由」を感じるのは、そこではその空間の「使用規制」やそこでの「行動基準」がキャンセルされた物質のカタマリが別の行為への手がかりとして再生するからだ。原っぱもおなじだ。そこは雑草の生えたでこぼこのあるサラチであり、来るべき自由な行為のために整地されキューブとしてデザインされた空間なのではない。そこにはいろんな手がかりがある。
いったい、「このような空間」ってどのような空間なんだい? 書き手は、いろいろな空間を述べてきて、突然に「このような空間」と近称指示詞を使う。無責任きわまりない。書き手の頭のなかで妄想している空間を読み手に理解しろと言われても無理がある。まあ、仕方ないから、読解のルールにしたがって、直前に書かれている「きわめて物質的で具体的な空間」と解釈するとして、では、「自由を感じる」とはどういう意味だい? 「きわめて物質的で具体的な空間」とは工場のことだから、工場に自由を感じるということなのだろうなと、次へと読みすすめたら、「そこではその空間の《使用規制》やそこでの《行動基準》がキャンセルされた物質のカタマリが別の行為への手がかりとして再生するからだ」とある。使用規制や行動基準がキャンセルされた空間ということであれば、引用文内の「工場をアトリエやギャラリーに改装した空間」ということになる。ずいぶん遠くにあるものを近称指示詞で代理させる図々しさにはいまさら驚かないが、「原っぱもおなじだ」と言ってのける恣意さには驚く。「キャンセル」とはもともと存在していた何かを取り消すという意味である。「原っぱ」とはもともと取り消すものが何もない空間である。書き手自ら、「原っぱとは雑草の生えたでこぼこのあるサラチ」だと言っているではないか。つまり、キャンセルしなければならない「使用規制や行動基準」は最初から存在しない空間が「原っぱ」である。これが、「原っぱ」に対する読み手の認識である。にもかかわらず、書き手は「このような空間」と「原っぱ」は同じだと言ってのける。そもそも、「このような空間」とは書き手の脳内にある実体性のない模糊である。実体性のない空間は、同じだとか、違うとか、他の空間と比較できる対象にさえなりえないのに、比較したりするから、論が狂ってくる。
私は問う。狂っている認知・心理事象を持っているのは書き手なのか、それとも読み手なのかと。
了