組織委員会、中村英正の言葉は傍観者の物言い
五輪開催の意義として、組織委員会の中村英正が以下のように発言したらしい。誰かが言ったという「日本のコロナはさざ波」と同程度に、当事者の苦しみを遠くで傍観している第三者の物言いである。分かりやすいように傍観者であるゆえの言葉を赤文字にする。
「この社会がこの一年半、何をやってきたかというと、困難な状況でも何とかそぎ落として、必要なところを守ってやってきた。そうするとオリパラも社会の一部である以上、何とか安全・安心をつくして、どうコロナに向きあったかを日本として東京として世界に示せればと、私は思っています」
この社会と言っているが、社会の形成者は人々であり、社会そのものが何かをやるわけではない。社会の形成者である人々がこの一年間何をやってきたかを振りかえって観るとき、人々を二種類に分けなければならない。施政者と被施政者である。実際に施策を考え実行する権力をもつ数少ない者つまり傍観者と、彼らの施政が悪くコロナ禍の災害を直に被る多くの市井の人々つまり当事者の2種類である。
上記の観方をもって「この社会がこの一年半、何をやってきたかというと、困難な状況でも何とかそぎ落として必要なところを守ってきた」をもう一度読みかえすと、、「そぎ落として」きたものは何なのか、 そして守ってきた「必要なところ」とは何なのか、という二つの疑問がわくのである。どう考えても、そぎ落としてきたものは国民の命と、仕事を失ったりと休業を余儀なくされた市民の経済生活である。では、守ってきた必要なところとは何なのか? このコロナ禍、何が守られてきたのか、と真実を観れば、緊急事態宣言下、外出自粛や飲食店の営業時間短縮やアルコール提供の自粛等と、被施政者たちの規則遵守である。同じ「まもる」でも「守る」と「護る」がある。したがって、施政者による施政がウイルスから市民を護ってきたわけではなく、実際に護ってきたのは、身をそぎ落としてまでして規則を「守って」きた被施政者たちなのである。
したがって、「この社会が・・・必要なところを守ってやってきた」なんて言葉は。日本語になってないほど意味不明なのである。寝言は寝て言え!・・・ってところか。
オリパラは社会の一部だと言っているが、オリパラは人間が集まって共同生活を営む際に必要不可欠な、たとえば家庭・学校・会社・村落・国家等の集団的形態ではない、つまり社会の一部ではない。無くてもいっこうにかまわない。特にウイルスをばら撒くオリパラはいらない。
まあ、オリパラは、一部アスリートとそのOBそしてIOC金権主義者等が集う一種の社会といえば、言えなくもないが、命と金を天秤にかけたとき、金のほうを取る錬金術師が集う社会は王道な社会ではない。
日本社会がどうコロナに向き合ったかを世界に示すためにオリパラが必要だと言っているが、なにもオリパラをしなくても、日本社会のコロナ対応は、PCR検査抑制、新型コロナの薬としてアビガンやイベルメクチンの否承認、ワクチン接種の遅れ等、コロナ後進国であることはすでに世界に知れ渡っている。