誰が「反日」?五輪反対者か安倍か
マスメディア業界は国民全員がスポーツに熱中する生き物だと思っているらしく、誰がホームラン数新記録とか、誰が新記録を達成したとか騒々しく、五輪開催が近づくにつれて、スポーツニュースがテレビ時間を多く占めるようになった。彼らの栄光は彼ら自身が受けるものであり、誰にも分け与えられるものではない。国民のためになんて言っている、社会性欠如の選手たちこそ痛々しい。
互いに技術を競争し優劣を決める五輪というお祭り。身体を鍛える運動そのものに罪はないが、それに世界一というレッテル付けする行為、世界一とつけられた勇者とそれをとりかこむ興奮の渦、その渦の外にいる絶対多数の人々はもはや世界に存在しないかのような価値観が重くのしかかる。特にこのコロナ禍と気候変動で家族を失い、家を失い、職を失い、命の灯はいつ消えるかもわからない人々にとってはどうだろうか?
五輪開催のその時、聖火の灯が点火されたと同時に、まさに灯が消える命があるかもしれない、と想像してみてほしい。想像できなければ、その消える命が自分の、あるいは愛する人の命だったらと考えてみてほしり。瀕死の人のまわりでお祭りさわぎをしているあさましい光景である。不条理で無情で、なんともやりきれない、だから私は五輪開催に反対する。
話は少し横道にずれるが、スポーツには一切関心がないから、私の脳はアスリートの名前を憶えない。名前は知らないが、フランス代表のサッカー選手が日本人を侮蔑した動画がSNSにあがって、彼の言葉は単なる悪口だ、いや人種差別だと、ネット上で賑わっていた。フランス語は分からないが、ではと見てみたら、日本語に長けているフランス人が翻訳して、彼の言葉は完全に人種差別だと言っていた。
私見を言うと、サッカー選手の言葉は単なる悪口ではない。本人に責任のない容姿と日本語をけなしているわけだから、からかい、つまり侮辱材料を探しての侮辱である。かといって、「人種差別」という言葉で括られると違和感がある。括られると、日本人全員、つまり私まで侮辱されたと思わなければならないからだ。
反対に、そのSNSを見て内心で侮辱したのは私のほうである。私の侮蔑の対象はその自己顕示欲の強いサッカー選手一人であり、フランス人全体ではない。フランス人にもいろいろあり、日本人にもいろいろある。私が言いたいのは、一人の言動を全体の言動にしてはならないということである。かといって、そのサッカー選手の言葉を単なる悪口として片づけてもならない。侮辱は言葉による暴力だという認識は必要である。
さて、本題である。安倍というご仁が「五輪開催に反対する人は反日」と言ったそうだ。
いまどき「反日」って言葉を発語する安倍の時代錯誤にも驚いたが、A級戦犯の孫で、その膝の上で、おじいちゃんから始終「反日」という言葉を聴かされて育った彼の生育環境からしてみれば、不思議ではない。おじいちゃんが愚痴っぽく発語したであろう「反日」は「俺に逆らうは反日」という意味であろうから、自分が招致して「五輪は一年延期のみで中止もない」とIOCと約束した安倍にしてみたら、この五輪を反対する者はまさに「俺に逆らう反日ども」ということになるからだ。
他にも、自分とは意見を異にする人、あるいは排斥したい人へのレッテル言葉は、「やい赤!」「やい日教組!」とかがあったが、まあむかしむかし近所の悪ガキどもが言い合っていた「おまえのかあちゃん、でべそ!」と同じで、根拠もなにもない発語だから、発語者の知能レベルを表出してしまうだけのことで、本当の反日は誰だか、明白である。日本人の命を危険にさらす安倍である。
言葉というのは時代とともに変わる。歴史のなかで人々に頻繁に使われ、そして時代の流れとともに消えていく言葉もあれば、普遍的に残る言葉もある。ちなみに、私は長い人生のなかで、「反日」という言葉を直に耳にしたことはない。戦前・戦中に「反日」とレッテルをつけられ牢屋に入れられ拷問を受けた学者たちや人権運動家たちの言葉が本当だったと、人々は身をもって知ったからであろう。
もちろん、「おまえは反日!」は邦人同士だから人種差別にはあたらないが、かといって悪口でも侮辱でもない。すでに「反日」という言葉は死語になっているが、一部の人間のあいだでは、排斥したい人間へのレッテル張りとしての機能は果たしていることになる。この観点からして、「反日」という言葉を使う人間の中身がすけて見える。
言葉は怖い。言葉は全てを語る。発語者の生育環境やら知能やら性格やらという認知システムを。・・・