国民イジメ東京五輪にふさわしいイジメ曲
むかし、小学5年か6年生のとき、担任から呼び出されて「〇〇を見ていてくれ」と頼まれたことがありました。「見ているって? 」と訊きなおした私に、担任は言いました。「何もしないでいい、ただ、休み時間にそばにいてやってくれ」と。学級委員でもなく、級友とつるむこともない、目立たない私に担任は何故に白羽の矢を立てたのか、いまだに分かりませんが、私はその役を律義に果たしました。果たしたつもりです。
詳しくは憶えていませんが、授業と授業の間、きっと私は彼女についてまわり一緒にいたのだろうと思います。ただ、一つだけ鮮明に憶えている光景があります。それは運動場の隅、鉄棒が並ぶところで、一番低い鉄棒に寄りかかったまま、始業のベルが鳴っても、彼女が動かなかったことです。生徒たちはみんな教室に入って、運動場には誰もいません。教室に戻ろうと促しても、彼女はのらりくらりするだけ。教室の様子が気になったのですが、私は黙って、彼女とともにいました。どれくらい、そうしていたのかは憶えていませんが、彼女は突然、走り出して、教室にもどったのです。その背中を追いかけて、教室にもどったという、ただそれだけの光景です。
それから、どれくらいかして、彼女は忽然と教室から消えました。少なくとも、私にとっては忽然と。転校かなにか親御さんの都合なのか、担任は何も言いませんでした。私も何も訊きませんでした。私の記憶では、彼女に親身になって話しかけたことがなかったように思います。それとも、返事がなかったから話しかけなくなったのかもしれませんが、私は彼女のことを何一つ知らなかったことになります。いつも汚れで黒光りしたセーラー服を着ていたことと、いつ洗ったかわからないような汚れた茶毛のおかっぱ頭以外は。おそらく、級友の誰も、彼女のことを憶えていないかもしれません。
ふと、こんなことを思い出したのは、小山田圭吾(東京五輪開会式楽曲制作者)が小中高時代に犯したイジメ行為を知ったからでしょう。彼の陰湿な、刑法に抵触するようなイジメ行為の仔細を、さらにここで述べる気はありませんが、その行為は嗜虐的です。嗜虐とは他者の痛みを見て喜ぶことです。
東京五輪開会式に流れる曲を聴いた人々の脳裏に浮かぶのは、小山田圭吾が過去に犯した残虐行為の光景の数々です。よって、国民イジメの東京五輪にふさわしい人選ということになります。
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