二〇一四年入試センター試験・国語文の検証


 今年の問題文(斎藤希史の漢文脈と近代日本から)を一読したところ、いくつかの箇所を除いてほとんど問題なく読み進めることができた。文章は勢いで書く特徴があるから、ミス的間違いは、どんな文章にも起こりえることで、あえて検証する必要はないと思った。そうは思ったが、時期を同じくして、看過しがたい言葉がテレビから流れてきたので、そうはいかなくなった。その言葉とは安倍首相による「集団的自衛権行使が憲法解釈で行えるように閣議決定する」とかいうようなものであった。ときの権力者が彼らの権力をもって恣意に憲法解釈をするということは、日本語の権威そのものを根底から覆すということであり、それはとりもなおさず日本社会の秩序の破壊である。何故なら、すべての約束事は言語を媒介としているからである。
 そもそも、憲法でなくても、文章を構成する言葉は絶対であり、その解釈はときどきの恣意によって変わる性質のものではない。変わりえるのは、その文章そのものに瑕疵があるときだけである。あるいは解釈を複数できるように悪意的意図をもって書かれたときだけである。
 憲法は国家存立の基本的条件を定めた最高法規である。時の権力者によって解釈変更ができる性質のものではない。権力者の上に立つのが憲法であり、その上に立つのが言語(日本語)の権威である。
加えて、言語は単にコミュニケーションの媒体だけにおさまらず、アイデンティティで
あり、文化であり、思考の道具である。つまり人間は言語をもって認知・認識し、脳を発達させ、行動パターンを得て他の動物をはるかにしのいできた。
 さらには、言語とは人間の誰でもが平等に所有している人工物である。この人工物が公平に機能してはじめて人間社会は秩序を得て経済的にも知的にも成熟することができる。したがって言語は絶対的公平をもって機能させねばならないのである。

 今回は論点の流れを確認するために、各段落ごとに私による要約を記し、添削箇所があるときは言及する。

段落一
 漢文学習の入り口は素読です。初学者はまず『論語』や『孝経』などを訓点に従ってただボウヨみする素読を叩きこまれました。漢籍を訓読するというのは、一種の翻訳、つまり解釈することですから、解釈の標準が定まっていないと、訓読もまちまちになってしまいます。そうすると、読み方、つまり素読を統一することはできなくなります。「素読吟味」という試験は素読の正確さを問うものでしたから、素読、すなわち訓読はおおまかにせよ統一されていることが前提となりましたし、さらにその前提として、解釈の統一が必要でした。つまり、解釈の統一は、カリキュラムとしての素読の普及と一体のものであったと言えるのです。やや極端な言い方ですが、異学の禁があればこそ、素読の声は全国津々浦々に響くことになったのです。

段落二、 
 このように歴史の流れを理解すれば、十九世紀以降の日本において、漢文が公的に認知された素養であったということも、納得しやすいのではないでしょうか。

[段落一と段落二]の要約
 一九世紀以降の日本において漢文が公的に認知された素養であったことと、そうなった理由。

段落三
、 
 さて、こうした歴史的な環境の中で、漢文は広く学ばれるようになったのですが、多くの人々は儒者になるために経書を学んだのではありませんし、漢詩人になるために漢籍をひもといたのではありませんでした。そうした専門家になるためでなく、いわば基礎学問としての漢学を修めたのです。もちろん、体制を支える教学として、身分秩序を重んじる朱子学が用いられたという側面を無視することはできません。しかし、現実に即して見れば、漢学は知的世界への入り口として機能しました。訓読を叩きこまれ、大量の漢籍に親しむことで、彼らは自身の知的世界を形成していったのです。

[段落三]の要約
 日本において漢籍は知的世界を形成するものであった。

段落四、 
 となると、その過程で、ある特定の思考や感覚の型が形成されていったことにも、注意を向ける必要があります。といっても、忠や孝に代表される儒教道徳が漢文学習によって身に着いたと言いたいのではありません。そうした側面がないとは言えないのですが、通俗的な道徳を説く書物なら、漢籍を待たずとも、巷に溢れていました。何も漢文を学ばなければ身につかないものでもなかったのです。

[段落四]の要約
 日本における漢学学習の過程において、ある特定の思考や感覚の型が形成されていったという側面がある。

段落五、 
 もう少し広く考えてみましょう。

段落六
、 
 そもそも中国古典文は、特定の地域の特定の階層の人々によって担われた書きことばとして始まりました。逆に言えば、その書きことばによって構成される世界に参入することが、すなわちその階層に属することになるわけです。どんなことばについてもそうですが、人がことばを得、ことばが人を得て、その世界は拡大します。前漢から魏晋にかけて、その書きことばの世界は古典世界としてのシステムを整えていき、高度なリテラシー(読み書き能力)によって社会に地位をシめる階層が、その世界を支えました。それが、士人もしくは士大夫と呼ばれる人々です。
 
[段落五&段落六]の要約
 漢文の起源である中国を見てみよう。前漢から魏晋にかけて、書き言葉の世界がシステム化されていき、高度な読み書き能力を得た階層が社会を支えていくようになる。その階層が士人もしくは士大夫である。

段落七、 
 『論語』一つを取ってみても、そこで語られるのは人としての生き方であるように見えて、士としての生き方です。「学んで時に習う...」と始められるように、それは「学ぶ」階層のために書かれています。儒家ばかりではありません。無為自然を説く道家にしても、知の世界の住人であればこそ、無為自然を説くのです。乱暴な言い方ですが、農民や商人に向かって隠逸を説くのではないのです。

[段落七]の要約
 例えば『論語』一つをとってみても、「学ぶ」階層のために書かれている。

段落八 
 思想でなく文学にしても、同じことが言えます。たしかに、中国最古の詩集である『詩経』には民歌に類するものが含まれていますが、その注釈や編纂が士人の手になるものである以上、統治のために民情を知るという視線はすでに定まっています。まして、魏晋以降、士人が自らの志や情を託しうるものとして詩を捉え、ついには詩作が彼らの生を構成するほとんど不可欠の要素になったことを見れば、唐代以降の科挙による詩作の制度化を待たずとも、古典詩はすでに士人のものだったことは、あきらかです。

「段落八」の要約
 文学にしても思想と同様に「学ぶ」階層のためのものだった。中国最古の詩集『詩経』の注釈や編纂が士人によるものであれば、すでにその視線は彼らのものだったからである。魏晋以降、士人が自らの志や情を詩に託したことや、唐代以降の科挙における詩作の制度化からも、古典詩はすでに士人のものだったことは明らかである。 
 
段落九 
 こういう観点からすれば、古典詩文の能力を問う科挙は、士大夫を制度的に再生産するシステムであったのみならず、士大夫の思考や感覚の型――とりあえずこれをエトスと呼ぶことにします――の継承をも保証するシステムだったことになります。
 
「段落九」の要約
 古典詩文の能力を問う科挙は、士大夫を再生産するシステムであり、さらには、エトス(士大夫の思考や感覚の型)の継承を保証するシステムだった。

段落十、 
 日本の近世社会における漢文の普及もまた、士人的エトスもしくは士人意識――その中身ついては後で述べます――への志向を用意しました。漢文をうまく読み、うまく書くには、字面だけを追って真似ても限界があります。その士人としての意識に同化してこそ、まるで唐代の名文家韓愈が乗り移ったかのような文章が書けるというわけです。あるいは、彼らの詩文を真似て書いているうちに、心の構えがそうなってしまうと言ってもよいでしょう。文体はたんに文体に止まるものではないのです。

段落十一、
 そういうふうにして、古典文の世界に自らを馴染ませていくこと自体は、中国でも日本でもそれほどの違いがあるわけではありません。ただ、誰がどのようにして、というところには注意が必要です。もう一度、近世日本に戻って考えてみましょう。

[段落十&段落十一]の要約
 日本の近世社会における漢文の普及もまた中国同様、エトスへの志向を用意することになった。エトス習得という目的をもって古典文の世界に馴染んでいったこと自体は、中国でも日本でもそんなに違いはない。しかし、誰がどのようにしてという観点に関しては見る必要がある。

添削事項.
「段落十一」は「段落十」につづいて近世日本(社会)に関する内容である。したがって、もう一度.近世日本にもどる必要はないので、傍線部分は削除が妥当である。

確認事項
.[段落十一」の「誰がどのように(斜文)」は疑問形である。疑問形には読み手に強い印象を与えるという特徴があり、論点の提示とみなされる。したがって、この疑問形を読まされた読み手は、これから「誰がどのように」という問題に関して論じられていくだろうと予想する。
           
段落十二、 
 繰り返しになりますが、日本における近世後期の漢文学習の担い手は士族階級でした。となると、中国の士大夫と日本の武士が漢文を介してどのように繋がるのか、見ておく必要があります。

[段落十二]の要約.
 .日本の近世後期における漢文学習の担い手であった士族階級と中国の士大夫とが、漢文を介してどのように繋がるのか見てゆく。

確認事項
.前段落「十一」において提示された「誰がどのように」に対する経過的回答が、「中国の士大夫と日本の武士が漢文を介してどのように繋がるのか(斜文)」であろうと推測される。しかし、この文もまた疑問形である。誰と誰がという疑問は解けたが、その両者が漢文を介して繋がるその様態(How)に関しては再び疑問形になっている。ということで、この(How)が次なる論点なのだろうと、読み手は予想する。
        
段落十三 
 グンコウを競う中世までの武士とは異なり、近世幕藩体制下における士族はすでに統治を維持するための吏僚であって、中国の士大夫階級と類似したポジションにありました。その意味では、士人意識には同化しやすいところがあります。一方、中国の士大夫があくまで文によって立つことでアイデンティティを確保していたのに対し、武士は武から外れることは許されません。抜かなくても刀は要るのが太平の武士です。文と武、それは越えがたい対立のように見えます。

[段落十三]の要約
 近世幕藩体制下の士族はグンコウを競う武士ではなく、統治維持のための吏僚であり、中国の士大夫階級と類似したポジションにいた。しかし、士大夫が文のみをアイデンティティとしていたのに対し、日本の士族のアイデンティティは太平であっても帯刀するという武もくわわっていた。文と武は対立のように見える。

添削事項
.傍線を付した文「その意味では、士人意識には同化しやすいところがあります」が意味不明である。「その意味」とは「(日本の)士族は中国の士大夫階級と類似したポジションにいたという」意味であろうから、この文の主語は省略されてはいるものの「(日本の)士族」である。したがって、意味不明にしているのは「士人意識には」の「には――格助詞(に)に係助詞(は)のついた連語」だということに気づく。そこで、添削は「には」を格助詞の「に」に訂正して、「その意味では、士人意識に同化しやすいところがあります」とする。

確認事項
.Howに対する回答はない。

段落十四、
 しかしそれも、武を文に対立するものとしてでなく、忠の現れと見なしていくことで、平時における自己確認もヨウイになります。刀は、武勇ではなく忠義の象徴となるのです。これは、武への価値づけの転換であると同時に、そうした武に支えられてこその文であるという意識が生まれるケイキにもなります。

[段落十四]の要約
 武を「忠」の現れと見なせば刀は忠義の象徴になる。したがって、帯刀によって、平時における武士の自己認識がたやすくなる。「忠」に転換された武であるから、武は文と対立しない。

添削事項
. 傍線文の冒頭にある中称代名詞「それ」が何を指し示しているのか前段落に探すが、それらしい言葉は見あたらない。仮に「それ」が前文(前段落の末文)を指しているのであれば、近称代名詞の「これ」を使用しなければならないが、ここにおける代名詞はなくても問題は生じない。さらに、「平時における自己確認」は誰の自己確認なのかが明確でない。しかも「自己確認」という言葉使用も適切ではない。「自己確認」とは「自己を確かめたうえで認める」という意味である。これでは意味が通じない。書き手は「段落十三」において「アイデンティティ」という言葉を使用し、さらには「段落十八」において「自己認識」という言葉を使用しているのであるから、当然にここでも「自己認識」という言葉使用が妥当である。とりあえず、次のように文全体を添削しておく。「しかし、武を文に対立するものとしてではなく、忠の現れと見なすことで、平時における武士自身の自己認識もヨウイになります。」

確認事項
 Howに対する回答はない。

段落十五、 
 やや誇張して言えば、近世後期の武士にとっての文武両道なるものは、行政能力が文、忠義の心が武ということなのです。武芸の鍛錬も、総じて精神修養に眼目があります。水戸藩の藩校弘道館を始め、全国各地の藩校が文部両道を標榜したことは、こうした脈絡の中で捉えてこそ意味があるでしょう。たとえば、幕末の儒者佐藤一斎の『言志晩録』にはこんな一節があります。

  刀槊之技、懐怯心者衄、頼勇気者敗。必也泯勇怯於一静、忘勝負於一動、[・・・]如是者勝矣。心学亦不外於此。
  (刀槊の技[剣術]は、怯心[臆病な心]を懐く者は衄し[負け]、勇気に頼る者は敗る。必ずや勇怯を一静に泯し[消し]、勝負を一動に忘れ、[...]是の如き者は勝つ。心学も亦た此れに外ならず。) 

 
[段落十五]の要約
 近世後期の武士にとっての文武両道とは、行政能力が文、忠義が武である。したがって武芸の鍛錬は精神修養に眼目がおかれた。水戸藩の藩校弘道館をはじめ全国の藩校が文部両道を標榜していた。このことは、たとえば左記の漢文からも知れる。

確認事項
. Howに対しての回答はない。

段落十六、 
 臆病も勇猛も勝負も超越してこそ、勝つことができる。武芸はすでに技術でなく精神が左右するものになっています。だからこそ、精神修養の学である「心学」が、武芸の鍛錬になぞらえられているのです。注意したいのは、武芸を心学に喩えているのではないことです。その逆です。心学を武芸の鍛錬によって喩えるほどに、武芸は精神の領域に属する行為となっていたというわけです。

「段落十六]の要約
. 精神修養の学である「心学」が武芸の鍛錬になぞらえられるほどに、武芸は技術ではなく精神の領域に属する行為となっていった。

確認事項
 Howに対しての回答はない。

段落十七、 
 そして寛政以降の教化政策によって、学問は士族が身を立てるために必須の要件となりました。政治との通路は武芸ではなく学問によって開かれたのです。もちろん「学問吟味」という名で始まった試験は、中国の科挙制度のような大規模かつ組織的な登用試験とは明らかに異なっていますし、正直に言えば、ままごとのようなものかもしれません。けれども、「学問吟味」や「素読吟味」では褒美が下され、それは幕吏として任用されるさいの履歴に記すことができました。武勲ならぬ文勲です。そう考えれば、むしろあからさまな官吏登用試験でないほうが、武士たちの感覚にはよく適合したとも言えるのです。

[段落十七]の要約
 寛政以降の教化政策も加わって、学問は士族が身を立てるための必須の条件になり、政治との通路は武芸ではなく学問によって開かれるようになる。「学問吟味」という名で始まった試験は中国の登用試験である科挙制度とは規模も組織も比較できないほど小さかったが、それでも「学問吟味」や「素読吟味」では褒美があり、履歴に記すことができる文勲であった。

添削事項.
 段落末の「そう考えれば…むしろ...言えるのです」は論点から外れた饒舌文である。

確認事項
 Howに対しての回答はない。

段落十八、 
 もう一つ、教化のための儒学はまず修身に始まるわけですが、それが治国・平天下に連なっていることも、確認しておきましょう。つまり、統治への意識ということです。士大夫の自己認識の重要な側面がここにあることは、言うまでもありません。武将とその家来たちもまた、その意識を分かちもつことで、士となったのです。経世の志と言い換えることもできるでしょう。「修身・斉家・治国・平天下」とは、四書の一つ『大学』の八条目のうち、後半の四つです。『大学』は朱子学入門のテキストとして重んじられ、倫理の基本でもありました。

[段落十八]の要約
. もう一つ、修身に始まった教化のための儒学は治国・平天下、つまり統治への意識に連なっていることを確認しておく。もともと中国では統治への意識は士大夫の自己認識の重要な側面であった。日本でも武将とその家来たちは統治への意識を分かちもつことで士となった。四書の一つ「大学」は倫理の基本でもあり朱子学入門のテキストとして重んじられた。その後半の四つが「修身・斉家・治国・平天下」である。

確認事項
. Howに対して部分的回答が与えられている。部分的回答とは「中国の士大夫と日本の武士の自己認識の重要な側面は統治への意識ということで繋がる」である。では全体的回答は? 全体的回答とは段落十二で提示された「中国の士大夫と日本の武士(士族階級)が漢文を介してどのように繋がるのか」に対する回答である。つまり「漢文を介して」に対する回答を得て、読み手は満足な全体的回答(帰結)を得ることができる。ということで、あと残りの段落二つを読んでいく。

段落十九、 
 細かく言えば、八条目の前半、「格物・致知・誠意・正心」との思想的連関はどうなのか、とか、昌平黌や藩校でのむやみな政談はご法度だったのではないか、とか、いくらでも議論や検証を行う余地はあります。単純に統治意識の一語ですませられないところがあるのは事実です。近世の思想史をていねいに見ようとすれば、右の捉え方は、ややおおづかみに過ぎるかもしれません。

段落二十 
 しかし当の学生たちにとってみれば、漢文で読み書きするという世界がまず目の前にあり、そこには日常の言語とは異なる文脈があったことこそが重要なのです。そしてそれは、道理と天下を語ることばとしてあったのです。漢文で読み書きすることは、道理と天下を背負ってしまうことでもあったのです。

[段落十九&段落二十]の要約
...「大学」前半の思想的連関や他の諸議論検証無しに、統治意識のみで語るのは大雑把な捉え方である。しかし当の学生たちは漢文で読み書きするという世界に居て、日常の言語とは異なる文脈に触れていた。その文脈が道理と天下を語るのであれば、漢文で読み書きするということは当然に、道理と天下を背負ってしまうことでもあった。

確認事項
 How「中国の士大夫と日本の武士が漢文を介してどのように繋がるのか」に対する書き手が用意した回答は「両者の統治への意識は漢字で学ぶことで育ったから、両者は漢文を介して繋がっている」というようなものである。しかし、この回答は的を得ていない。では、どう的を得ていないのか? 次の添削事項において述べる。

添削事項
.「繋がり」という言葉は具体的な物の接続にも抽象的な事柄の接続にも用いられるが、「士大夫と武士が漢文を介して繋がる」となると、士大夫と武士は人間という物体であるから具体的かつ物理的な繋がりになる。たとえば、士大夫と武士は漢文を介して何らかの接点があったというような状況である。ところが、士大夫と武士とのあいだは距離的にも時間的にも隔たっている。しかも、書き手が結論付けた「繋がり」の対象も人間という物体どうしではなく、人間という物体に宿る意識であった。
 したがって、段落十二における疑問文Howの「中国の士大夫と日本の武士が漢文を介してどのように繋がるのか」という表現が適切ではなかったのである。繋がっていたのは両者の意識だから、「中国の士大夫の意識と日本の武士のそれが漢文を介してどのように繋がるのか」という表現をするべきだったのである。・・・了                                                                                                 

追記...
   言語はすべての学問の基盤である。数学でも自然科学でも言語がなければ学ぶことはもとより研究もできない。逆に言語力があれば書物だけからでも独学できる。だから日本語圏に住む私たちにとって重要なのは第一言語の日本語の教育であり、けして他国言語の英語ではない。しかし、最近の日本では日本語教育よりも英語教育のほうが重要視されている傾向にある。そんな風潮のなか、市井の子どもとその親は、片言の英語を話せたら、それで英語力が身についたと錯覚の海を浮遊する状況にある。後に日本語の高波に足もとをすくわれるとも知らずに。
   日本に生まれ育ち、第一言語が日本語である以上、脳は日本語で認知・認識し、日本語で考えるように発達するのである。その日本語をおろそかにしたら、未熟な日本語と片言の英語で発達させられた脳の行く末はどうなるだろうか? 日本人の脳は壊されていくとしか言いようがない。 
 真の言語力とは高度な日本語を使いこなせる力である。たとえば首尾一貫とした論文を自分の言葉で書けるような力である。他者の言葉ではなく、自分の言葉をもってである。
 これを書いているさなかに、STAP(スタップ)細胞の問題が明るみになった。論文のなかに文章や画像の盗用があるという。細胞そのものの捏造なのか、論文だけの捏造なのか、どちらにしても、他者の文章を盗用するということは己の言葉つまり理論がないということであり、他者の映像を盗用するということは、己のデータ―がないということである。したがって、スタップ細胞そのものの存在も無い、と疑われて当然である。
 再度言う。言語は脳を発達させ、脳はさらに言語を進化させる。この繰り返しで今の人間がいる。今の人間社会がある。日本人にとっての言語とは第一言語の日本語である。
   
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