右翼という言葉を考える
日本には、ネトウヨという新族がいるらしい。
そもそも、ネトウヨって何? 誰? どの組織のために働いているの?
そのネトウヨ族が、極右だと言われる高市早苗を「天照大神の再来」と担ぎ、大騒ぎしているらしい。
ネトウヨも分からないが、右翼とか、極右とか、左翼とか、これらも、集団や組織が嫌いでどこにも属したことのない私には不可解な言葉である。日本人はこういう種類の人間に分けられているのだろうか?
ヤフーニュースに、慰安婦問題や第二次大戦中の朝鮮半島からの徴用をめぐる教科書の記述について、教科書会社から「従軍慰安婦」「強制連行」との記述の削除や変更の訂正申請があり、文科省は8日承認した、とあった。これなどは、文科省を含めて歴史修正主義者による仕事であろう。
何故に歴史を修正しなければならないのだろうか。日本には、日本人が行ってきたどす黒い過去を消し去りたい人種がいまだに生きているということである。
次は米国留学中の個人的体験である。
留学生のなかには、中国人や韓国人たちが大勢いた。カフェテリアで食事をしていると、30歳前後の中国人男性留学生に話しかけられた。話題は日本軍部による南京大虐殺であった。彼は私の横にいる若い日本人女子留学生を指しながら、なにやら怒っていた。
「彼女が南京大虐殺なんてないと言ったが、あなたはどう思うか? 」
私は、横に座る指をさされた女子に、「それ本当なのか」と訊いた。彼女は「日本はそんなことしてない」と反論した。
私は、中国人学生が座る別のテーブルへと移り、答えた。
「南京大虐殺はあった。従軍看護婦として南京に渡った年上の友人がいる。その友人が川に捨てられた大勢の中国人遺体を見たと言っていた。ただし、虐殺人数に関しては、あなたがたの言うとおりかどうかは分からない。日本が中国へ侵略をしたのは事実。そのころ私は生まれていなかったけれど、同じ日本人として、ここで謝罪する。ごめんなさい」
「では、何故、彼女は、日本はそんなことしていないと言ったんだ? 」
「プロパガンダ。おそらく、彼女が学んだ教科書には載っていなかったのでしょう。やってはならないことだが、為政者は歴史修正を行う。まちがった愛国心であるが、愚かな為政者は行う」
あなたの国の為政者も行っているでしょうと、つなげたかったが、言わなかった。
たとえ、自国の汚点であろうとも、知っておかなければならないと、私は思う。いや、汚点だからこそ知っておかなければならないのである。簡単に言えば、人は誰でも、その場に立てば、同じことをするからである。敵だから殺せと言われれば、人を殺す。殺さなければ、自分が殺される。そうやって先人は戦争を生きてきたということを知らなければ、いつか私たち自身もその環境に放り込まれる。
十五年戦争で、中国や朝鮮の人々にたいして日本が行った数々のグロテスクな行為を否定する人たちとはどういう人たちなのだろうか? 「表現の不自由展」の反対行動に関わった人々を見れば分かる。あれら作品を見ての松井大阪市長の言葉「どう考えても日本人の国民の心を踏みにじるもの」がまちがった愛国心を語っている。あれら作品群を見て、心が踏みにじられたと思う国民はどれだけいるだろうか? どう考えても、大多数の国民の心はそんなに傷ついているとは思われない。
なぜなら、すでにほとんどの日本人は、たとえ自分の先祖であろうと、すでにそれら行為を行った人々とは別の次元で生きているからである。国の命令とはいえ、実際の行為は個人によるものであるが、そういう個人の大多数はすでに亡くなっている。おそらく彼らはすべてを子どもたちに語らずあの世まで持っていったであろうと推測される。された人間は語るが、した人間は語らないのが、人の世の常である。だから、現在を生きる人々は、心に汚点を抱えずに生きていけるのである。
ただし、戦争を始めた当時の軍部幹部や為政者たちの子孫の心には汚点が残る可能性が大である。とくに、戦犯でありながら日本の政権中枢に返り咲いた人間たちの子孫たちである。たとえばA級戦犯の孫の安倍などがいい例である。「表現の不自由展」等で過去を蒸し返される。非常に心が痛む、いや、彼らの心は痛まない。心は痛まないが、非常な怒りを覚えるに違いない。だから、彼らにとって都合の悪い歴史的事実は黒く塗りつぶす。黒塗りは彼らの得意技である。教科書の修正も同じ塗りつぶしである。
敗戦後の日本をどう占領し、どう永久に支配するか、米国が考えた方法が、天皇を傀儡として利用することだった。米国の言いなりになる傀儡政権をつくるために、戦犯たちに恩をきせて政権中枢に返り咲かせた。
さて、「表現の不自由展」に傷つく心を持った右翼と呼ばれる姿が少しは見えてきたと思う。天皇を中心とした政体を愛し、日本帝国憲法を愛し、再び国民を臣民にして、好き放題できた過去へのノスタルジーである。「日本会議」の面々は過去を熱望しているのかもしれないが、市井に生きる大多数の人々はそんなノスタルジーはもっていないはずである。
「表現の不自由展」への抗議や中止要請の電話やファックスの数は分かっているようだが、同一人物によるSNS上の誹謗中傷と同じで、実際の数は少ないはずである。愛知県知事リコール署名偽造事件がそれを語っている。
日本はいつまで、右翼とか、左翼とかいうヘイト言葉に左右されるのだろうか?
日本に生きるみんなが幸せ。そんな社会になってほしい。こんなことを言う私は左翼なのだろうか?
むかし共産党の友人と知り合って、党に入ってほしいと誘われたが、共産党の理念は推すが、組織には入らないと断ったことがある。
右翼にしても、左翼にしても、他者を排斥するこれら識別語を、私はヘイトする。