二〇一五年入試センター試験・国語第一問・出題文の検証
はじめに
センター試験国語・第一問出題文の検証を初めて行ったのが、2003年であったから、今回の検証作業は十二回目ということになる。毎年、正当文であることを期待して出題文を読むのだが、今年もまた例年どおり、いやそれ以上に、私の期待は強く裏切られた。今年の出題文(佐々木敦『未知との遭遇』による)は佐々木氏が言うところのツイッタ―(twitter/さえずり)的と言うべきか、言語学的以前の問題が多々あった。特に「段落一」と「段落九」のさえずり傾向は特に強い。鳥のさえずりなら、そんなに気にならないが、論文形式文におけるそれは困る。書き手の恣意的な「さえずり」は意味がないから読み手の読解を阻むのである。
そこで、読解作業を進めるためには、特殊なさえずり防音装置を耳につけなければならないが、そんなに精巧な装置があるわけもなく、私が頼りにできるのは次に記す二つの言語学的原則しかない。くわえて、さえずりの数々をいちいち検証するのは、私にとって時間の無駄であるゆえに、「段落一」と「段落九」以外は添削のみとする。
原則事項
「その一」
作品が世に送りだされた以上、その作品の解釈は読み手に任される。これが絶対的前提である。
「その二」
受験者にとっての出題文は首尾一貫性をもった完成論文の体を成していなければならない。これが絶対的前提である。何故なら、受験者は試験会場で初めて出題文に対面するからである。「段落三」と「段落四」には「本文より前のところで言及があった」という注付きの文があるが、「私は過去に言っているよ」なんていう注釈付きの論文なんて過去に聞いたことはない。笑止千万である。まさに、書き手の言葉「しかしわれわれは過去のすべてを知っているわけではない(段落二D)」をそのまま、この出題文を選択した者に投げ返したいところである。もとより、そんな注釈を付けなければならない稚拙な文(段落三A&段落四@&段落五F)は削除に値する。
添削方法
「方法その1」
「です体」と「である体」とが混在した文章となっている。「体」はどちらでもいいのだが、混在はいけない。ここでは「である体」に統一する。
「方法その2」
さえずり的な言葉・句・節・文には青色を付し、文の順序も必要に応じて変更する。広い範囲で変えたときは文番号を記す。
「方法その3」
.「さえずり」度合が特に大きい「段落一」と「段落九」に関しては添削理由を簡単に記す。
「方法その4」
.結論の「段落十一」においては意味論に簡単に触れる。
「方法その5」
.私が新たに加えた言葉・句・節・文には傍線を付す。
添削作業開始
「段落一」
ネット上で教えをタれる人たちは、特にある程度有名な方々は、他者に対して啓蒙的な態度を取るということに、一種の義務感を持ってやってらっしゃる場合もあるのだろうと思います。僕も啓蒙は必要だと思うのですが、どうも良くないと思うのは、ともするとネット上では、啓蒙のベクトルが、どんどん落ちていくことです。これはしばしば見られる現象です。Cたとえば掲示板やブログに「OOについて教えてください」などという書き込みをしている「教えて君」みたいな人がよくいますが、そこには必ず「教えてあげる君」が現れる。D自分で調べてもすぐにわかりそうなのに、どういうわけか他人に質問し、そして誰かが答える。Eそして両者が一緒になって、川が下流に流れ落ちるように、よりものを知らない人へ知らない人へと向かってしまうという現象があり、これはナンセンスではないかと思います。ツイッタ―でも、ちょっとしたつぶやきに対して「これこれはご存知ですか?」というリプライを飛ばしてくる人がいますが、つぶやいた人は「教えてあげる君」に教えられるまでもなく、それは知っていて、その上でつぶやいたのかもしれない。だから僕は「教えて君」よりも「教えてあげる君」の方が、場合によっては問題だと思います。自分より知識や情報を持っていない方に向かうよりも、自分が知らないことを新たに知ることができる方向に向かっていった方がいいに決まっている。I啓蒙するよりも啓蒙される側に回った方が、自分にとっては利があると思うのです。
「段落一の添削文」
ネット上で教えをタれる人たちは、特にある程度有名な方々は、他者に対して啓蒙的な態度を取るということに、一種の義務感を持ってやってらっしゃる場合もあるのだろうと思う。たとえば、掲示板やブログそしてツイッタ―等における「教えて/教えてあげる」やりとりである。僕も啓蒙は必要だと思うのだが、ネット上における啓蒙はともすると、そのベクトルが上よりも下に向かう傾向にあるのが気になる。ちょっとしたつぶやきに対して「これこれはご存知ですか?」というリプライを飛ばしてくる人がいるが、つぶやいた人は「これこれ」を知ったうえでつぶやいたのかもしれない。このように、*自分が考えたことはすでに誰かが考えているという現象がある。啓蒙のベクトルは、自分より知識や情報を持っていない方に向かうよりも、自分が知らないことを新たに知ることができる方向に向かった方がいいに決まっている。したがって僕自身は、啓蒙する側よりも、利を得る啓蒙される側に回ることを選ぶ。
「添削の根拠」
「その1」
「段落一」は論文の導入部であるにもかかわらず、存在しているのか、していないのか、述べられるべき論点声明文が「さえずり/饒舌」という騒音に妨害されて聴こえてこない。まあ、論点声明文の存在は期待しないことにしても、絶対不可欠なのが「段落二」へと繋げるための一文である。繋げるわけであるから、この一文の内容は、「段落二」の@文の内容と相関していなければならない。そこで、*「自分が考えたことはすでに誰かが考えているという現象がある)」を文脈的に適切な箇所に挿入した。
「その2」
CDE文は「さえずり」すぎていて、まさに書き手がE文で言っているところの「ナンセンス」以外のなにものでもない。そこで、これら三つの文の要旨を整理して、一文「たとえば、掲示板やブログそしてツイッタ―等における《教えて/教えてあげる》やりとりである」とする。
「その3」
段落末のI文「啓蒙するよりも啓蒙される側に回った方が、自分にとっては利があると思うのです」が言う「自分」とは、この出題文の書き手自身を指しているのか、それとも、啓蒙される側の人全般を指しているのか、明確ではない。ここの時点では、どちらなのか分からないが、結論段落「段落十一」のE文「けれども、やはり僕自身は、できれば啓蒙は他の人に任せておきたいのです」まで読み進めて初めて、「自分」とは書き手自身であることが判明する。ということで、I文を「したがって僕自身は、啓蒙する側よりも、利を得る啓蒙される側に回ることを選ぶ」と添削した。
「段落二」
ところで、ではどうして自分が考えたことをすでに考えた誰かが必ずといっていいほど存在するのか。それは要するに、過去があるから、大袈裟に言えば、人類がそれなりに長い歴史を持っているから、です。もちろん今だって新しい発想や知見が生まれているわけですが、いろいろな分野において、過去のストックが、ある程度まで溜まってしまった。だから何らかの事柄にかんして考えてみようとすると、タイガイは過去のどこかに参照点がある。しかしわれわれは過去のすべてを知っているわけではない。だからオリジナルだと思ってリヴァイバルをしてしまうことがある。それゆえに生じてくる問題にいかに対すればいいのか。
「段落二の添削文」
では、どうして自分が考えたことをすでに考えた誰かが必ずといっていいほど存在するのか。それは要するに、過去があるから、大袈裟に言えば、人類がそれなりに長い歴史をもっているからである。いろいろな分野において、過去のストックが、ある程度まで溜まってしまっているうえに、この瞬間においても、今まさに新しい発想や知見が生まれている。だから何らかの事柄にかんして考えてみようとすると、タイガイは過去のどこかに参照点がある。しかしわれわれは過去のすべてを知っているわけではない。だからオリジナルだと思ってリヴァイバルをしてしまうことがある。それゆえに生じてくる問題にいかに対すればいいのか。
「段落三」
単純な答えですが、順番はともかくとして、自力で考えてみることと、過去を参照することを、ワンセットでやるのがいいのだと思います。先ほども言ったように、知っていることとわかっていることは別物なのだから、独力で理解できた方が、他者の言説を丸呑みするよりもましに決まっています。しかしその一方で、人類はそれなりに長い歴史を持っているので、過去には思考のためのジュンタクな資産がある。それを使わない手はない。だから自分が考えつつあることと、他人が考えたことを、どこかのタイミングで突き合わせてみればいい。そうすることによって、現在よりも先に進むことができる。
「段落三の添削文」
単純な答えですが、順番はともかくとして、自力で考えてみることと、過去を参照することを、ワンセットでやるのがいいのだと思う。人類は長い歴史を持っているので、過去には思考のためのジュンタクな資産がある。それを使わない手はない。だから自分が考えつつあることと、過去に他人が考えたことを、どこかのタイミングで突き合わせてみればいい。そうすることによって、現在よりも先に進むことができる。
「段落四」
「君の考えたことはとっくに誰かが考えた問題」と、ちょっと似ていますが、盗作、パクリをめぐる問題というものがあります。これは多くのひとが気付いていると思うのですが、ある時期以後、たとえば音楽においても、メロディラインが非常に似通った曲が頻出し、しかもそれがヒットしてしまったりするという現象が起こってきました。僕は意図的な盗作よりも、むしろ盗作するつもりなど全然なくて、つまりオリジナルを知らないのにもかかわらず、なぜかよく似てしまう、そのことの方がむしろ問題だと思います。
「段落四の添削文」
しかし、意図しないでおきてしまう盗作・パクリをめぐる問題というものがある。たとえば音楽に関してである。多くのひとが気付いていたと思うが、ある時期以後、メロディラインが非常に似通った曲が頻出し、しかもそれがヒットしてしまうという現象が起こったことがある。僕は、意図的な盗作よりも、むしろ盗作するつもりなど全然なくて、つまりオリジナルを知らないのにもかかわらず、なぜかよく似てしまう、そのことの方がむしろ問題だと思う。
「段落五」
人類がそれなりに長い歴史を持っているということは、当然ながら人類は、これまでに沢山の曲を作ってきたわけです。メロディも沢山書いてきた。だから誰かがふと思いついたメロディが過去に前例があるということは、確率論的にも起き易くなっていることであって、ある意味で不可避だと言ってもいい。新しいメロディが、なかなか出てこないということは、それだけ過去に素晴らしいメロディが数多く紡ぎ出されたということです。それは別に悪いことではない。もちろんメロディを書こうとする音楽家にとっては、これはなかなか厳しい問題かもしれません。でも、「君の考えたことはとっくに誰かが考えた問題」と同じように、自分で考えたということは自分にとっては意味のあることだけれど、それでも何かに似てしまうということはあり得る、というタンテキな事実を認めるしかない。自分の口ずさんだメロディが、見知らぬ過去の誰かによってカナでられていたとしても、めげる必要はない。でも、それを認めることは必要です。知らなかったんだから何が悪い、誰が何と言おうとこれは自分のものだ、ということではない。知らないより知っていたほうがいい、でも知らなかったこと自体は罪ではない、ということです。
「段落五の添削文」
人類がそれなりに長い歴史を持っているということは、当然ながら人類は、これまでに沢山の曲を作ってきたわけである。メロディも沢山書いてきた。だから誰かがふと思いついたメロディが過去に前例があることは、確率論的にも起き易くなっていることであって、ある意味で不可避だと言ってもいい。新しいメロディが、なかなか出てこないということは、それだけ過去に素晴らしいメロディが数多く紡ぎ出されているということであり、メロディを書こうとする音楽家にとっては、なかなか厳しい問題である。しかし、自分の口ずさんだメロディが、見知らぬ過去の誰かによってカナでられていたとしても、めげる必要はない。自分ですべてを考えたとしても何かに似てしまうことはあり得る、というタンテキな事実を認めるしかない。認めることが必要なのである。知らなかったこと自体は罪ではないが、「知らなかったんだから何が悪い」と主張することはできない。知らないより知っていたほうがいいにきまっている。
「段落六」
意識せずして過去の何かに似てしまっているものに、誰かが気付いて「これってOOだよね」という指摘をする。それを自分自身の独創だと思っていた者は、驚き、戸惑う。しかしその一方では、意識的な盗作をわからない人たちもいるわけです。明らかに意識的にパクッているのだけれども、受け取る側のリテラシーの低さゆえに、オリジナルとして流通してしまう、ということもしばしば起こっている。それが盗作側の利益になっていたりするならば、やはり一定のリテラシーが担保されなければならないと思います。けれども、無意識的に何かに似てしまうというのは、これはもうしようがないことだと思います。人類はそれなりに長い歴史を持っているのだから。
「段落六の添削文」
意識せずして過去の何かに似てしまっているものに、誰かが気付いて「それってOOだよね」という指摘をする。それを自分自身の独創だと思っていた者は、驚き、戸惑う。その一方、意識的な盗作に気付かない人たちもいる。受け取る側のリテラシーの低さゆえに、盗作がオリジナルとして流通してしまうことが、しばしば起こっている。盗作を防ぐための一定のリテラシーは担保されなければならないが、無意識的に過去の何かに似てしまうことは、もうしようがないことだと思う。人類は長い歴史を持っているのだから。
「段落七」
@以上のような問題はいずれも、累積された過去と呼ばれる時間の中で、さまざまなことが行なわれてきてしまった、すなわち「多様性」が、ある閾値を超えてしまったということから生じています。A何かをしようとした時、何事かを考えはじめようとした時に、目の前に立ちはだかってくるもの、あるいは視線の向こう側に見えてくるものが、あまりにも多過ぎて、どうにもげんなりしてしまう。Bしかしそれを無視することはできないし、だったら知らなければいいということでもない。Cしかしだからといって、それらは今、突然、一気に現れたわけではありません。Dこれまでに短くはない時間が流れてきたがゆえに、つまり人類がそれなりに長い歴史を持っているがゆえに、それだけ多くのコト/モノが積み重なったということに過ぎない。Eしかし、われわれが「多様性」を、何らかの意味でネガティヴに受け取ってしまうのは、時間の流れとは別に、それがひと塊のマッス(量)として、いきなり自分の前に現れたかのように思えるからではないでしょうか。Fそれはナンセンスなことだと思うのです。
「段落七の添削文」
@以上のような問題はいずれも、累積された過去と呼ばれる時間の中で、さまざまなことが行われてきた、すなわち「多様性」が、ある閾値を超えてしまったことから生じてきている。Cこの「多様性」は今、突然、一気に現れたわけではなく、D人類が経験してきた長い時間の流れの中で、多くのコト/モノが積み重なってきたということに過ぎない。A何かをしようとした時、何事かを考えはじめようとした時に、目の前に立ちはだかってくるもの、あるいは視線の向こう側に見えてくるものが、あまりにも多過ぎて、どうにもげんなりしてしまう。Eというように、この「多様性」をネガティヴに受けとってしまうのは、それらが、歴史的時間を超えて、ひと塊のマッス(量)として、いきなり自分の前に現れたかのように思えるからではないのか。Bともあれ、われわれは、それらを無視することはできないし、知らなければいいということでもない。
「段落八」
われわれは、ある事象の背後に「歴史」と呼ばれる時間があると考えるわけですが、特にネット以後、そういった「歴史」を圧縮したり編集したりすることが、昔よりもずっとやり易くなりました。というよりも、そういう圧縮や編集が、どんどん勝手に起きてしまうようになった。何事かの歴史を辿る際に、どこかに起点を設定して、そこから現在に連なっていく、あるいは現在から遡行していって、はじまりに至る、ということではなくて、むしろ時間軸を抜きにして、それを一個の「塊=マッス」として、丸ごと捉えることが可能になった。そういう作業において、ネットは極めて有効なツールだと思います。
「段落八の添削文」
われわれは、ある事象の背後に存在する「歴史」と呼ばれる時間を圧縮したり編集したりしてしまう傾向にあるが、特にネット以後、そういうことが、昔よりもずっとやり易くなった。というよりも、そういう圧縮や編集が、どんどん勝手に起きてしまうようになった。すなわち、何事かの歴史を辿る際に、どこかに起点を設定して、そこから現在に連なってくる、あるいは現在から遡行していって、はじまりに至る、ということではなくて、むしろ時間軸を抜きにして、それを一個の「塊=マッス」として、丸ごと捉えることが可能になった。そういう作業において、ネットは極めて有効なツールだと思う。
「段落九」
@ただ、そのことによって、たとえば「体系的」という言葉の意味が、決定的に変わってしまった。Aフランス語で「歴史=history」が「物語=history」という意味であるということは、もはや使い古されたクリシェですが、しかし「物語」としての「歴史」の記述/把握という営みは、少なからず行なわれてきたし、今も行なわれている。Bもちろん実証的な観点から、そういうアプローチに対する批判もある。C事実の連鎖は物語的な整合性やドラマツルギ―とは必ずしも合致しないからです。Dしかしそれでも「歴史」を「物語」的に綴る/読むことはできてしまう。Eなぜならば、そこには「時間」が介在しているからです。F過去から現在を経て未来へと流れてゆく「時間」というものが、そのあり方からして「物語」を要求してくる。G「物語」とは因果性の別名です。Hだからひとは「歴史」を書くつもりで、ついつい「物語」を書いてしまう。
「段落九の添削文」
たとえば、フランス語で「歴史=history」が「物語=history」という意味であるということはもはや使い古されたクリシェだが、このクリシェが示すように、「歴史」の「物語」的記述/把握という営みは、少なからず行われてきたし、今も行われている。もちろん実証的な観点から、そういうアプローチに対する批判もある。事実の連鎖は物語的な整合性やドラマツルギーとは必ずしも合致しないからである。しかしそれでも「歴史」を「物語」的に綴る/読むことはできてしまう。なぜならば、そこには「時間」が介在しているからである。過去から現在を経て未来へと流れてゆく「時間」というものが、そのあり方からして「物語」を要求してくる。しかも物語は因果性があるからおもしろい。だからひとは「歴史」を書くつもりで、ついつい「物語」を書いてしまう。
「添削の根拠」
@文の意味を解釈すると、「そのこと」とは前段落が言うところの「ある事象を、時間の流れを考慮しないで、一個の塊として丸ごと捉えること」であるから、「そういう捉え方をするようになったから、《体系的》という言葉の意味が決定的に変わってしまった」となる。
ここで、書き手が「変わった」と言っているものは具体的事物ではなく、「体系的という言葉の意味」つまり概念である。現在における「体系的」という言葉の意味は広辞苑によれば「組織的、統一的」であるが、この広辞苑に載っている意味が決定的に変わってしまったのだろうかという疑問が、読み手に生じる。この疑問は、いずれ解決されるだろうと期待しながら読み進めるが、決定的に変わった「体系的」という言葉についての説明はなく、「歴史」を「物語」的に綴る/読む傾向になったと述べられているのみである。歴史を物語的にとらえることと、決定的に変化した「体系的」という言葉とどう相関しているかについての説明はない。つまり、「体系的という言葉の意味が変わった」ことに関する根拠は示されていないのである。根拠が示されていない概念的な言説は「さえずり」とみなされても仕方がなく、削除が妥当である。
ところで、書き手はここで何を言いたいのか、私の知識を頼りに次のように、好意的に推量してみた。書き手はおそらく、「ものごとや事象を、時間の流れを考慮して歴史的に解釈する方法が歴史的解釈であり、時間の流れを排除して丸ごと捉えることが体系的解釈である」と言いたかったに違いない。すなわち、私の推量が正しければ、「体系的」という言葉の意味が変わったわけではなく、ネット以後、ものごとを「体系的」に捉える傾向になったということなのだろう。
さて、この段落にはもうひとつの「さえずり」文がある。G文「物語とは因果性の別名です」である。広辞苑によると、「因果性」の意味は「二つないしそれ以上の事象の間に、原因および結果としての結びつきの関係があること」であるから、G文のさえずり音を少しだけ抑えると、「物語には原因とその原因が引きおこした結果が必ずあるから、物語は因果性の別名である」とでもなろうか。たしかに、プロローグとエピローグがある「物語」の特徴はそうではあるが、G文の表現は唐突すぎる。しかし、「因果性」という言葉を使用したい書き手の気持ちは理解できる。そこで表現を変えて「しかも物語は因果性があるからおもしろい」と添削しておいた。
「段落十」
@しかしネット以後、このような一種の系譜学的な知よりも、「歴史」全体を「塊」のように捉える、いわばホ―リスティックな考え方がメインになってきたのではないかと思うのです。*Aこれはある意味では「歴史」の崩壊でもあります。Bまず「現在」という「扉」があって、そこを開けると「塊」としての「歴史」がある。Cその「歴史」を大掴みに掴んでしまって、それから隙間を少しずつモザイク状に埋めていくことが、「歴史」の把握の仕方としては、今やリアルなのではないかと思うのです。
「段落十の添削文」
@すなわち、ネット以後の傾向として、一種の系譜学的な知よりも、「歴史」全体を「塊」のように捉える、いわばホ―リスティックな考え方がメインになってきたのではないかと思う。Bまず「現在」という「扉」があって、そこを開けると「塊」としての「歴史」がある。Cその「歴史」を大掴みに掴んでしまって、それから隙間を少しずつモザイク状に埋めていくことが、「歴史」の 把握の仕方としては、今や現実的なのではないかと思う。*Aこれはある意味では「歴史」の崩壊でもある。
「段落十一」
@先ほど「リテラシー」という言葉を出しましたが、リテラシーが機能していないと、何かをわかってもらおうとしても空回りしてしまうことがあるので、最低限のリテラシーを形成するための啓蒙の必要性が、とりわけゼロ年代になってからよく語られるようになってきました。Aたとえば芸術にかんしても、ある作家や作品に対する価値判断に一定の正当性を持たせるためには、どうしても啓蒙という作業が必要になってくるという意見があります。B時間軸に拘束されない、崩壊した「歴史」の捉え方が、九〇年代以後、少しずつメインになってきて、僕はそれは基本的に良いことだと思っていたのですが、ゼロ年代になってくると、その弊害も起こってきた。Cそのひとつの例が「意図的なパクリ」だったりします。Dだから、ここまでくると、啓蒙も必要なのかもしれないという気持ちが、僕にも多少は芽生えてきました。Eけれども、やはり僕自身は、できれば啓蒙は他の人に任せておきたいのです。F啓蒙を得意とする、啓蒙という行為に何らかの責任の意識を持っている人たちがなさってくれればよくて、僕はそれとは異なる次元にある、未知なるものへの好奇心/関心/興味を刺激することの方をやはりしたい。Gけれどもそれも今や受け手のリテラシーをある程度推し量りながらする必要がある。Hそこが難しい所であるわけですが。
「添削十一の添削文」
先ほど「リテラシー」という言葉を出したが、リテラシーが機能していないと、何かをわかってもらおうとしても空回りしてしまうことがあるので、最低限のリテラシーを形成するための啓蒙の必要性が、とりわけゼロ年代になってからよく語られるようになってきた。たとえば芸術にかんしても、ある作家や作品に対する価値判断に一定の正当性を持たせるためには、どうしても啓蒙という作業が必要になってくるという意見がある。時間軸に拘束されない崩壊した「歴史」の捉え方が、九〇年代以後、少しずつメインになってきたことを、僕は基本的に良いことだと思っていたのだが、ゼロ年代になってくると、そう思えない弊害が起こってきた。そのひとつの例が「意図的なパクリ」である。だから、啓蒙も必要なのかもしれないという考えが、僕にも多少は芽生えてきた。とはいえ、僕自身としては、啓蒙は他の人に任せておきたい。啓蒙を得意とする、啓蒙という行為に何らかの責任意識を持っている人たちがなさってくれればよくて、僕はそれとは異なる次元にある未知なるものへの好奇心/関心/興味を引きだすことの方をやりたい。しかし、その仕事も今や受け手のリテラシーをある程度推し量りながらする必要がある。ここが難しい所であるわけだが。
「意味論の指摘」
この最後の段落に、意味論の原則から外れている言葉使用があったので簡単に指摘しておく。それは、F文内の「刺激」である。書き手は「僕は...未知なるものへの好奇心/関心/興味を刺激することの方をしたい」と言っているが、残念ながら、好奇心/関心/興味を刺激することは、誰にもできない。どういうことかと言うと、「刺激する」という言葉の意味は「生物体に作用してその状態を変化させ、何らかの反応を引き起こすこと」であるから、書き手が刺激できるのは、「好奇心/関心/興味」等の概念ではなく、生物体である人間なのである。したがって、F文は「啓蒙を得意とする...人たちがなさってくれればよくて、僕は...未知なるものへの好奇心、関心、興味を引きだす(ために誰誰の心を刺激する)ことの方をしたい」とでもなる。
言葉にはそれぞれ独自の意味がある。その意味を無視して構成した文は存在し得る文であっても、意味はなさず、ただの文字の羅列にすぎない。・・・了
あとがき
書き手は「段落六」において「受け取る側のリテラシーの低さ」について言及しているが、「送る側のリテラシーの低さ」については言及していない。もちろん、受け手側のリテラシーが必要であることに対して異論はない。しかし、私が気になるのは、送り手側のリテラシーの低さである。私が二〇〇三年以来毎年行わなければならないこの検証作業こそが、その低さを説明している。送り手側と受け手側と、どちらのリテラシーが低いほうが問題が大きいかと言えば、もちろん送り手側である。何故なら、リテラシーのイニシアチブをとっているのは教える側、つまり書き手が言うところの啓蒙する側にあるからである。
昨年はスタップ細胞事件があったが、これなどはまさに送り手側と受け手側の両者ともに、つまり日本人のリテラシーの低さを露呈した出来事であった。スタップ細胞はある/ないと、いつまでも喧しかったが、話は実にシンプル。切り貼りあるいは使いまわし写真が示していることはデータ―がないということであり、盗用文章が示していることは理論がないということである。したがって、ネイチャーに掲載された論文に捏造・改竄が表出した時点ですでにスタップ細胞たるものは存在しないことは明らかだったのである。
送り手側のリテラシーが低ければ、受け手側のそれを高めようがない。