二〇一六年入試センター試験・国語第一問・出題文の検証

  今年の出題文は、[段落二]と「段落一四」内に些細な問題が二か所あるのみで、理論の流れを妨げるような大きな問題はなかった。したがって、今回の検証は、これら二か所だけの考察になる。検証箇所は二か所だけだが、読みやすいように全文(土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』による)を記し、そして、問題の二か所に傍線を付す。

  段落一
 着せ替え人形のリカちゃんは、一九六七年の初代から現在の四代目に至るまで、世代を超えて人気のある国民的キャラクターです。その累計出荷数は五千万体を超えるそうですから、まさに世代を越えた国民的アイドルといえるでしょう。しかし、時代の推移とともに、そこには変化も見受けられるようです。かつてのリカちゃんは、子どもたちにとって憧れの生活スタイルを演じてくれるイメージ・キャラクターでした。彼女の父親や母親の職業、兄弟姉妹の有無など、その家庭環境についても発売元のタカラトミ―が情報を提供し、設定されたその物語の枠組みのなかで、子どもたちは「ごっこ遊び」を楽しんだものでした。

  段落二
 しかし、平成に入ってからのリカちゃんは、その物語の枠組みから徐々に解放され、現在はミニ―マウスやポストペットなどの別キャラクターを演じるようにもなっています。自身がキャラクターであるはずのリカちゃんが、まったく別のキャラクターになりきるのです。これは、評論家の伊藤剛さんによる整理にしたがうなら、特定の物語を背後に背負ったキャラクターから、その略語としての意味から脱却して、どんな物語にも転用可能なプロトタイプを示す言葉となったキャラへと、リカちゃんの捉えられ方が変容していることを示しています。

検証一 

傍線箇所の「その略語としての意味から脱却して」が意味不明である。意味不明にしているものの一つは中称指示詞の「その」である。何故か? 「キャラクター」に関して論じているのは書き手である。「キャラクター」という対象は書き手の脳内にあり、読み手の領域には存在しない。対象が読み手の領域に存在しないのに、「その略語」と書き手から言われても、読み手は困惑するしかない。書き手の領域にある対象を指し示すことができるのは近称の「こ」系指示詞であり、中称の「そ系」指示詞をもって指し示すことはできない。意味不明さに拘泥しないで読み進めば、「その略語」とは「キャラクターの略語の「キャラ」であろうとは推量できるとしても、日本語文章は後ろから読み解く種類のものではない。
 中称指示詞以外の問題は、「その略語としての意味から脱却して」が意味的に前後の脈絡を破壊していることである。この破壊的節を何ゆえに、書き手はここに置いたのか? 次の節「どんな物語にも転用可能なプロトタイプを示す言葉となったキャラへと」のなかの「キャラ」を説明するためではなかろうかという推量は成り立つ。この推量をもとに、添削は次のように行った。

添削文  
 これは、評論家の伊藤剛さんによる整理にしたがうなら、特定の物語を背後に背負ったキャラクターから、どんな物語にも転用可能なプロトタイプを示す---単なる略語ではない---言葉となったキャラへと、リカちゃんの捉えられ方が変容していることを示しています。

段落三
  物語から独立して存在するキャラは、「やおい」などの二次創作と呼ばれる諸作品のなかにも多く見受けられます。その作者たちは、一次 作品からキャラクターだけを取り出して、当初の作品のストーリーとはかけ離れた独自の文脈のなかで自由に操って見せます。しかし、どんなストーリーのなかに置かれても、あらかじめそのキャラに備わった特徴は変わりません。たとえば、いくらミニ―マウスに変身しても、リカちゃんはリカちゃんであるのと同じことです。

  段落四
 このような現象は、物語の主人公がその枠組みに縛られていたキャラクターの時代には想像できなかったことです。物語を破壊してしまう行為だからです。こうしてみると、キャラクターのキャラ化は、人びとに共通の枠組みを提供していた「大きな物語」が失われ、価値観の多元化によって流動化した人間関係のなかで、それぞれの対人場面に適合した外キャラを意図的に演じ、複雑になった関係を乗り切っていこうとする現代人の心性を暗示しているようにも思われます。

  段落五
 振り返ってみれば、「大きな物語」という揺籃のなかでアイデンティティの確立が目指されていた時代に、このようにふるまうことは困難だったはずです。付きあう相手や場の空気に応じて表面的な態度を取りツクロうことは、自己欺瞞と感じられて後ろめたさを覚えるものだったからです。アイデンティティとは、外面的な要素も内面的な要素もそのまま併存させておくのではなく、揺らぎをはらみながらも一貫した文脈へとそれらをシュウソクさせていこうとするものでした。

  段落六
 それに対して、今日の若い世代は、アイデンティティという言葉で表わされるような一貫したものとしてではなく、キャラという言葉で示されるような断片的な要素を寄せ集めたものとして、自らの人格をイメージするようになっています。アイデンティティは、いくども揺らぎを繰り返しながら、社会生活のなかで徐々に構築されていくものですが、キャラは、対人関係に応じて意図的に演じられる外キャラにしても、生まれもった人格特性を示す内キャラにしても、あらかじめ出来上がっている固定的なものです。したがって。その輪郭が揺らぐことはありません。状況に応じて切り替えられはしても、それ自体は変化しないソリッドなものなのです。

  段落七
 では、自分の本心を隠したまま、所属するグループの中で期待される外キャラを演じ続けることは、人間として不誠実であり、いい加減な態度なのでしょうか。現在の日本では、とくに若い世代では、どれほど正しく見える意見であろうと、別の観点から捉え直された途端に、その正当性がたちまち揺らいでしまいかねないような価値観の多元化が進んでいます。自己評価においてだけでなく、対人関係においても、一貫した指針を与えてくれる物差しを失っています。

  段落八
 現在の人間関係では、ある場面において価値を認められても、その評価はその場面だけで通じるものでしかなく、別の場面に移った途端に否定されるか、あるいは無意味化されてしまうことが多くなっています。人びとのあいだで価値の物差しが共有されなくなり、その個人差が大きくなっているために、たとえ同じ人間関係のなかにいても、その時々の状況ごとに、平たくいえばその場の気分しだいで、評価が大きく変動するようになっているのです。

  段落九
 私たちの日々の生活をカエリみても、ある場面にいる自分と別の場面にいる自分とが、それぞれ異なった自分のように感じられることが多くなり、そこに一貫性を見出すことは難しくなっています。それらがまったく正反対の性質のものであることも少なくありません。最近の若い人たちは、このようなふるまい方を「キャラリング」とか「場面で動く」などと表現しますが、一貫したアイデンティティの持ち主では、むしろ生きづらい錯綜した世の中になっているのです。

  段落十
 しかし、ハローキティやミッフィーなどのキャラを思い起こせばすぐに気づくように、最小限の線で描かれた単純な造形は、私たちに強い印象を与え、また把握もしやすいものです。生身のキャラの場合も同様であって、あえて人格の多面性を削ぎ落とし、限定的な最小限の要素で描き出された人物像は、錯綜した不透明な人間関係を単純化し、透明化してくれるのです。

  段落十一
 また、きわめて単純化された人物像は、どんなに場面が変化しようと臨機応変に対応することができます。日本発のハローキティやオランダ発のミッフィーが、いまや特定の文化を離れて万国で受け入れられているように、特定の状況を前提条件としなくても成り立つからです。生身のキャラにも、単純明快でくっきりとした輪郭が求められるのはそのためでしょう。

 段落十二
 二〇〇八年には、ついにコンビニエンス・ストアの売上高が百貨店のそれを超えました。外食産業でもファーストフード化が進んでいます。百貨店やレストランの店員には丁寧な接客態度が期待されますが、コンビニやファーストフードの店員にはそれが期待されません。感情を前面に押し出して個別的に接してくれるよりも、感情を背後に押し殺して定形的に接してくれたほうが、むしろ気をつかわなくて楽だと客の側も感じ始めているのではないでしょうか。店員に求められているのは、一人の人間として多面的に接してくれることではなく、その店のキャラを一面的に演じてくれることなのです。近年のメイド・カフェの流行も、その外見に反して、じつはこの心性の延長線上にあるといえます。そのほうが、対面下での感情の負荷を下げられるからです。 

  段落十三
 こうしてみると、人間関係における外キャラの呈示は、それぞれの価値観を根底から異にしてしまった人間どうしが、予想もつかないほど多様に変化し続ける対人環境のなかで、しかし互いの関係をけっして決裂させることなく、コミュニケーションを成立させていくための技法の一つといえるのではないでしょうか。深部まで互いに分かりあって等しい地平に立つことを目指すのではなく、むしろ互いの違いを的確に伝えあってうまく共生することを目指す技法の一つといえるのではないでしょうか。彼らは、複雑化した人間関係の破綻をカイヒし、そこに明瞭性と安定性を与えるために、相互に協力しあってキャラを演じあっているのです。複雑さをシュクゲンすることで、人間関係の見通しを良くしようとしているのです。

  段落十四
 したがって、外キャラを演じることは、けっして自己欺瞞ではありませんし、相手を騙すことでもありません。たとえば、ケータイの着メロの選択や、あるいはカラオケの選曲の仕方で、その人のキャラが決まってしまうこともあるように、キャラとはきわめて単純化されたものに違いありません。しかし、ある側面だけを切り取って強調した自分らしさの表現であり、その意味では個性の一部なのです。うそ偽りの仮面や、強制された役割とは基本的に違うものです。

検証二
 傍線箇所の文「キャラとはきわめて単純化されたものに違いはありません」が意味不明である。理由は「違いはありません」と係助詞の「は」が「違い」の後ろについているからである。広辞苑には、係助詞の「は」は説明しようとする物事をとりあげて示す、とあるから、「違いはありません」となると、「は」は「違い」という言葉を体言のように強調してしまうことになる。つまり、たった一つの係助詞の「は」が、この文の主部である「キャラとはきわめて単純化されたもの」と、本来の述部である「違いありません」とを切り離してしまっているのである。
 このことを簡単な例文で見てみよう。
 @...AとはBに違いはありません。
 A...AとはBに違いありません。
 B.AとBに違いはありません。
 意味論に則っている文はAとBであり、@は則っていない。つまり、@文の形をとる傍線文はA文に訂正が妥当ということである。よって、余計な「は」を取り除かれるのが妥当である。

  段落十五
 キャラは、人間関係を構成するジグソーパズルのピースのようなものです。一つ一つの輪郭は単純明快ですが、同時にそれぞれが異なってもいるため、他のピースとは取り替えができません。また、それらのピースの一つでも欠けると、予定調和の関係は成立しません。その意味では、自分をキャラ化して呈示することは、他者に対して誠実な態度といえなくもないでしょう。価値観が多元化した相対性の時代には、誠実さの基準も変わっていかざるをえないのです。 
    


以上をもち、今回の検証を終わる。