二〇一二年センター試験国語(問一)問題文(「境界としての自己」木村敏)の検証  
 
 毎年のことながら、今回も検証をはじめるにあたって次の原則を確認しておく。
 
 出題文は、書き手(木村敏)にとっては作品全体の一部であろうと、試験場ではじめて読まされる受験者にとっては一つの完成文 (完璧という意味ではない)でなければならない。したがって、当然ながら出題文には首尾一貫(導入→論証→結論)性をもったひとつの論文としての体裁が求められる。
 
 二〇〇四年以来、センター試験・国語(問一)問題文の検証作業を行ってきていて、つくづく失望させられることがある。それは書き手たちの貧しい論文筆記力である。一貫性を満たしていない寝言文(寝言のようなちんぷんかんぷんな文)が国(文部科学省)のお墨付きをえて正当文の皮を被され、出題文として公に発表されつづけてきている。毎年繰りかえされるこの現象は何を象徴しているのか? 
 問題文の書き手が立つ学術的位置は論考の専門家であろう。その専門家である教師が寝言文を書き、生徒である読み手は一切の疑問も持たず寝言文の文字を追わされる。一切の疑問を持たないということは、文字を目で追いながらも頭脳は思考していないということである。思考していたら、寝言文にクレームがつくはずである。しかし、彼らからクレームがついたためしはない。言語は思考の道具であるゆえに、この現象は日本語自体の衰退はもちろん、日本人の頭脳自体の衰退をも示していることになる。
 さて、検証の解説方法であるが、今回は問題文すべてを最初から添削し、その理由を記していく。何故なら、導入部分からはじまり、論証の道程のすべてが、部分的に修正できないほど破滅的だからである。
 では、検証作業をはじめる。最初に出題文を記し、そして添削文、その後に添削箇所と添削理由を記していく。説明しやすいように、出題文の各文に番号を付し、訂正あるいは削除すべき文、そして新たに加えた文言にも傍線を付す。
 
「段落一」
  @人間だけでなくすべての生きものは、その環境との境界面で、環境との最適な接触を維持することによって生命を保持している。A子孫を残すために配偶者を見いだして生殖や子育ての行動を行い、寒暑や風雨を避けるために住居を確保したり居住地を変えたりし、敵から逃避したり競争相手をクチクしたりするのも、生物一般の生命維持の目的に沿ったものである。Bしかしなんといっても生き物がその環境から栄養をセッシュする食行動が、環境との境界における生命維持のもっとも基本的な営為であることは、異論のないところだろう。
 
「段落一」の添削文
 人間だけではなくすべての生きものは、その環境との境界面で、環境との最適な接触を維持することによって生命を保持している。子孫を残すために配偶者を見いだして生殖や子育ての行動を行い、寒暑や風雨を避けるために住居を確保したり居住地を変えたりし、敵から逃避したり競争相手をクチクしたりするのも、生物一般の生命維持の目的に沿ったものである。(A)生命維持のために環境との最適な接触を維持するわけだが、この接触面つまり境界とは生きものにとって何なのか、ここでは境界と生きものとの関係を探っていくことにする。
 
「添削箇所&その理由」
、B文の削除。出題文の論題を推察すると、論題はタイトルから「境界としての自己」であろうと推察できる。しかし、導入部(段落一)には、「境界としての自己」を暗示するそれらしきthesis statement(命題声明文)は存在しない。命題声明文とは、これからこういう論題に関して論じていきますよという書き手の声明文である。この声明文は論文の長さにもよるが、基本的には「段落一」の末で述べられなければならない。さて、B文は第一段落の末に位置していることから、位置的には命題声明文である。しかし、内容的には命題声明文の役目をしていないばかりか、逆に一貫性を破壊する余計な一文になっている。
  では、その破壊ぶりを見ていこう。B文は「しかしなんといっても」という強調句(それにしても、他にどのような事情があろうとも、これだけはゆずれないという意味)をして、読み手の認識を強力に「これから食行動に関して述べられる」へと導いている。ところが、「食行動」に関することがらは、読み進めども、読み進めども二度と出てこない。したがって、B文は命題声明文のように見せながらも実は、読み手の思考回路を行き止まりの横道へと誘う誤った標識なのである。
2、 付加すべき命題声明文は全文の内容的流れから推測して(A)文とした。書き手の意に反するかもしれないが、結論段落において書き手が述べている結論を導くためには適切と考える。
 
「段落二」
 @生きものがその生命維持の行動を遂行するのは、いうまでもなく個々の個体としてである。A各個体はそれぞれ固有の環境との接点で、ときには同種他個体との協力によって、またときには同種他個体や異種個体との競合関係のなかで、自己自身の生存を求めて行動する。Bその場合、ある個体と関係を持つ他の個体たちもやはり当の個体の環境を構成する要件となることはいうまでもないし、さらには当の個体自身の諸条件――たとえば空腹や疲労の程度、性的要求、運動や感覚の能力など――も「内部環境」という意味で環境側の要件に加わってくる。Cそう考えると、個体と環境の接点あるいは境界というのが何を指しているのかを一義的に確定するのはかなり困難なことになる。Dなによりもまず、個体自身を構成している諸条件がすべて環境とみなされることになるなら、「個体」とはそもそも何を指しているのだろう。Eここでいわれる境界の「向こう側」にあるのが環境であるのはよいとして、同じこの境界の「こちら側」にはいったい何があるのだろう。Fそこに単純に個体あるいはその有機体をおくことはできそうもない。
 
「段落二」の添削文
  生きものがその生命維持の行動を遂行するのは個々の個体としてである。各個体はそれぞれ固有の環境との接点で、ときには同種他個体との協力によって、またときには同種他個体や異種個体との競合関係のなかで、自己自身の生存を求めて行動する。その場合、ある個体と関係を持つ他の個体たちもやはり当の個体の環境を構成する要件となることはいうまでもないし、さらには当の個体自身の諸条件――たとえば空腹や疲労の程度、性的要求、運動や感覚の能力など――も「内部環境」という意味で環境側の要件に加わってくる。そう考えると、個体と環境の接点あるいは境界というのが何を指しているのかを一義的に確定するのはかなり困難なことになる。個体自身を構成している諸条件がすべて環境とみなされることになるなら、(B)境界をはさんで「こちら側」にある「個体」とは何なのかということになるからだ。もちろん、(C)その「個体」本体は有機体ではあるが、現象的概念としては何なのかという疑問である。
 
「添削箇所&その理由」
、 @文の饒舌句「いうまでもなく」を削除する。いうまでもなく分かっているのは書き手のみであり、読み手ではない。
2、  D文内の意味をなさない誇張句「なによりもまず」の削除。
、 D文後節の「何を指しているのだろう」と推量助動詞を使用しての自問自答的疑問文あるいは「発  信しっぱなし疑問文」を削除し、「境界をはさんで...何かということになるからだ(B文)」を置く。ちなみ  に、「発信しっぱなし疑問文」の使用禁止に関しては、拙本「日本語を教えない国日本P218(巻末記   載)」を参照のこと。
、 E文も「発信しっぱなし疑問文」である。意味不明により削除する。しかも、文頭の「ここでいわれる」も奇異な表現。「境界」とか「その向こう側」とか言っているのは書き手自分自身である。自分自身が言っているのであるから、自分の言葉に責任をもつ意味でも、「いわれる」という受動態表現ではなく、「いう」という能動態表現が適切である。
、 F文も意味不明ゆえに削除する。この文の末「...そうもない」は推量表現である。D文末の「...のだろう」、E文末の「...のだろう」、そしてここF文でも「...そうもない」と、書き手は文をくくっている。推量表現の三連である。書き手自身が如何に己の論に自信がないかが知れるというものである。さて、論文筆記の必須要件に、たとえ命題の真偽は仮説であろうとも、論証のための根拠は真理あるいは事実でなければならないというのがある。これが論文筆記の重要な原則である。「生きものは有機体」は根拠となる真理である。つまり、生きものは有機体以外のなにものでもないので、「そこ(境界のこちら側)に有機体をおくことはできそうもない」とは表現できない。よって、F文のかわりに、(C)文「その個体本体は有機体であるが、現象的概念としては何なのかという疑問である」を置く。
 
「段落三」
 @複数の個体の場合はどうか。A話を簡単にするために、互いに協力関係にある二人の人間、たとえば夫婦の場合を考えてみる。B夫婦であっても、それぞれが自分自身の固有の世界を生きている独立の個人どうしであることに変わりはない。C私は私の子ども時代以来の経験と記憶が集積したいまの現在を生きているし、私の妻も同じことだ。Dこれを単純に同化したり、いわんや交換したりすることはできない。Eしかしどんな夫婦でも結婚以来の、これまた他の夫婦とは根本的に違った、二人だけの共同の歴史をもっている。Fそしてそれによって、何かの事態に対して、とくに口に出して相談しなくても、無意識のうちにひとつのまとまった行動をとるシュウカンがついている。Gそのかぎりでは、夫婦をひとまとめにして一個の「個体」とみなしても差し支えない。Hそれと同じことが家族全体とか、長年つきあっている友だちのあいだとか、共通の利害関係で結ばれたグループとかについてもいえるだろう。I人間以外の動物の場合、たとえば魚や鳥の群、整然とした社会を作っている昆虫などについては、群全体がひとつの個体のように行動するというこの傾向がいっそうはっきりしている。
 
「段落三」の添削文
 複数の個体の場合はどうか。話を簡単にするために、互いに協力関係にある二人の人間、たとえば夫婦の場合を考えてみる。夫婦であっても、それぞれが自分自身の固有の世界を生きている独立の個人どうしであることに変わりはない。私は私の子ども時代以来の経験と記憶が集積したいまの現在を生きているし、私の妻も同じことだ。これを単純に同化したり、いわんや交換したりすることはできない。しかしどんな夫婦でも結婚以来の、これまた他の夫婦とは根本的に違った、二人だけの共同の歴史をもっている。そしてそれによって、何かの事態に対して、とくに口に出して相談しなくても、無意識のうちにひとつのまとまった行動をとるシュウカンがついている。そのかぎりでは、夫婦をひとまとめにして一個の「個体」とみなしても差し支えない。それと同じことが家族全体とか、長年つきあっている友だちのあいだとか、共通の利害関係で結ばれたグループとかについてもいえる。
 
「添削箇所&その理由」
、H文における推量助動詞「いえるだろう」の「だろう」を削除。もともと「い(言)える」という言葉の意味は「言うことができる」つまり可能性である。可能性のうえにさらに「だろう」という推量表現はいらない。
、I文を次の「段落四」の頭に移動する。理由は同じ題材は同一段落内で扱うべきだからである。
 
「段落四」
@つまりこのような集団の場合でも、それがまとまった行動をとるのはやはり個体に準じて考えられる集団全体の存続という目的がそこにあるので、個体が生存を維持しようとする場合と同じように、環境との境界面で最適の接触を求めているといってよい。Aそしてここでもやはりこの境界の「こちら側」に単純に集団全体というようなものをおくことはできない。B第一、個体の場合と違って集団には環境とのあいだの物理的な境界線などというものがすでに存在しないのだし、集団を構成している複数の個体のそれぞれが集団全体にとっての重要な内部環境になっていることを考えてみても、ことはけっして簡単でないことがわかるだろう。C集団を構成している各個体の行動は、けっして集団全体の行動に同化しつくされることなく、個体それぞれの個別的な欲求に対応してもいる。Dそれぞれの個体がそれぞれの環境との境界面で独自の生命維持行動を営みながら、しかも全体としては集団の統一的な行動が保たれている。E個別行動が全体の統制を破壊するような事態は、まず起こらない。
 
「段落四」の添削文
  人間以外の動物の場合、たとえば魚や鳥の群、整然とした社会を作っている昆虫などについては、群全体がひとつの個体のように行動するというこの傾向がいっそうはっきりしている。@このような集団の場合でも、それがまとまった行動をとるのはやはり個体に準じて考えられる集団全体の存続という目的があるので、個体が生存を維持しようとする場合と同じように、環境との境界面で最適の接触を求めているといってよい。Cそして、各個体の行動は、集団全体の行動に同化しつくされることなく、個体それぞれの個別的な要求に対応してもいる。Dつまり、それぞれの個体がそれぞれの環境との境界面で独自の生命維持行動を営みながら、しかも全体としては集団の統一的な行動は保たれているということである。B(A)しかし、ここでも環境とのあいだに物理的な境界線などというものは存在しえないことに気づく。B(B)集団を構成している複数の各個体のそれぞれが集団全体にとっての重要な内部環境になっているからである。Aすなわち、集団の場合も、個体の場合と同様に、境界の「こちら側」に単純に集団全体というようなものをおくことはできないのである

「添削箇所&その理由」
、すでに言及済みだが、「段落三」の末文を「段落四」の頭に移動する。
、段落を形成する文の順序が一貫性の流れにそっていないことから全面的に文の順序を変える。段落の初文は前段落の末文の内容を受けつぎ、その段落内の各文は順序良く末文に向かって流れなければならない。もちろん、その末文はその段落の結論であり、その内容は次の段落の内容と連結していかなければならない。この原則に従うと、文の流れは「@→C→D→B?→B?→A」となる。加えて、内容をよどみなく流すためには、文と文のあいだに適切な接続詞が必要である。各文の添削の仔細は次に書く。
、@文の「つまり」を削除する。@文は前文内容の要約でも言い換えでもない。したがって、「結局/要するに/言い換えると」という意味の「つまり」は不要、というよりも読解を妨げる余計ものである。そして、「そこ」も削除する。代名詞「そこ」と指定すべき先行詞である場所あるいは局面の記載がないからである。
、C文の頭に接続詞「そして」を挿入する。
、D文の頭に「つまり」を、文末に「ということである」を挿入する。D文の内容は@文とC文の言い換え、あるいは更なる説明だからである。
、複雑怪奇な文はBである。内容的には無用な節と必要な節があるので、必要な節のみを添削して残すことにする。具体的には、読点でくぎられた前節を(A)、中節を(B)として残し、後節の「ことはけっして簡単でないことがわかるだろう」などと、無責任にも読み手に同意を求める意味不明な文は削除する。
、B文の前節は「第一、個体の場合と違って集団には環境とのあいだの物理的な境界線などというものがすでに存在しないのだし」である。この文には二つの問題がある。一つは「第一」と「すでに」という二つの言葉を使って、「集団には物理的な境界線はない」と自明のごとく断言していることと、二つ目は「個体の場合と違って」という句である。この句の言外的意味は「個体の場合には集団と違って物理的な境界線がある」である。この書き手の主張に対して異論を唱えるつもりはないが、「段落二」における書き手の主張に反しているから、読解作業が頓挫させられてしまう。では、「段落二」のBC文において書き手は何と主張していたか? 「個体自身の要件も内部環境という意味で環境側の要件に加わると考えると、個体と環境との接点あるいは境界というのが何を指しているのか一義的に確定できない」と主張していただけであり、「個体の場合は環境とのあいだに物理的な境界線がある」と断言していたわけではない。したがって、B文の「第一、個体の場合と違って」は存在してはならない余計句だということになる。さて添削であるが、結論へと連結させるためにB(A)文としておく。
、B文の中節と後節において、書き手は「集団を構成している複数の個体のそれぞれが集団全体にとっての重要な内部環境になっていることを考えてみても、ことはけっして簡単でないことがわかるだろう」と言っている。何が簡単でないのか分からないが、とりあえずそれは置いといて、「段落二」において出てきた「内部環境」という言葉に注目する。「段落二」における書き手の主張は「個体の場合、個体自体の諸条件が内部環境だから境界というものを確定できない」であった。したがって、書き手の主張は「個体も集団も、それぞれが含む内部環境の要件は違うが、内部環境という解釈的概念をもってすれば、境界は確定できない」となる。そこで、結論へと連結させるために、B文中節&後節の添削はB(B)文としておく。結論はその論文が存在するために不可欠な要である。よって、添削されるべきは論証過程においてであり、添削方法は結論を導く方向をとるのが王道である。
、A文は添削して「段落四」の末文とする。

「段落五」
 @生物の個体とか、個体に準じて考えられる集団とかについて、それと環境との境界面における生命維持の営みが思いもかけぬ複雑な構造を持っていることは右に見たとおりなのだが、これがそれぞれに確固とした自己意識を持っている人間集団の場合となると、その複雑さも飛躍的に増大する。Aたとえば家族の場合、外部環境との接触面では比較的まとまった行動を示す家族でも、家族の内部では個人個人の自己意識と自己主張が動物の場合とは比較にならぬほど強く表面に出る。B個人の個別的な行動が家族全体のまとまりを破壊するような場合もけっして稀ではない。Cここでは、人間以外の生物には出てこないような「私]と私以外の「他者たち]との対決が、集団としての家族のまとまりよりも明らかに優位に立っている。Dそれと同じことが家族以外でも人間集団のあらゆる場面で見られることについては、いちいち例を挙げるまでもないだろう。
 
「段落五」の添削文
 生物の個体とか、個体に準じて考えられる集団とかについて、それと環境との境界面における生命維持の営みが思いもかけぬ複雑な構造を持っていることは今まで見てきたとおりなのだが、その複雑さは、それぞれに確固とした自己意識を持っている人間集団の場合となると飛躍的に増大する。たとえば家族の場合、外部環境との接触面では比較的まとまった行動を示す家族でも、家族の内部では個人個人の自己意識と自己主張が動物の場合とは比較にならぬほど強く表面に出る。個人の個別的な行動が家族全体のまとまりを破壊するような場合もけっして稀ではない。ここでは、人間以外の生物には出てこないような「私」と私以外の「他者たち」との対決が、集団としての家族のまとまりよりも明らかに優位に立っている。それと同じことが家族以外でも人間集団のあらゆる場面でみられることについては、いちいち例を挙げるまでもないだろう。
 
「添削箇所&その理由」
  添削箇所は二か所。添削した理由は、したほうが分かりやすいといった程度。

「段落六」
 @自己意識がどのような経緯で人間に備わったものなのか、それにはさまざまな仮説が可能だろう。Aしかしいずれにしても、それが[進化]のひとつの産物であることは間違いない。B進化の産物だということは、生存の目的にかなっているということである。C自己意識を身につけることによって、人間は環境とのセッショウの中で新たな戦略を手に入れた。Dところが、元来は生存に有利であるはずの自己意識が、同じく生存を目的としているはずの集団行動と、ときには真っ向から対立することになる。Eここに生物としての人間の、最大の悲劇が潜んでいるのだろう。F自己意識という人間の尊厳に、それ本来の意味を取り戻させるためにはどうすればよいのか。
 
「段落六」の添削文
  自己意識がどのような経緯で人間に備わったものなのか、さまざまな仮説が可能だろう。いずれにしても、それが「進化」のひとつの産物であることは間違いない。進化の産物だということは、生存の目的にかなっているということである。自己意識を身につけることによって、人間は環境とのセッショウの中で新たな戦略を手に入れた。ところが、元来は生存に有利であるはずの自己意識が、同じく生存を目的としているはずの集団行動と、ときには真っ向から対立することになる。ここに生物としての人間の、最大の悲劇が潜んでいる。

「添削箇所&その理由」
、@文の「それには」は文を不明確にするだけの指示詞なので削除する。
、A文の対立接続詞「しかし」を削除する。
、E文の推量助動詞「(の)だろう」を削除する。
、論点から外れた「発信しっぱなし疑問文」のF文を削除する。論文中のどこにも「人間の尊厳に本来の意味を取り戻すためにはどうしたらよいのか」という方法論については述べられていないからである。

「段落七」
 @「私」の自己意識は単なる個体の個別性の意識ではない。A個体のそれぞれが自分は他の個体と別個の存在だということを認知する程度の意識なら、おそらく他の多くの動物にも備わっているだろう。B明確な個体識別能力を持っている動物は少なくないし、他個体の個体識別と自己認知とは同じ一つの認知機能の両面である。Cそれとは違って、人間は自分自身をほかならぬ「私」として意識し、この一人称代名詞で言表される存在に、他のすべての個体とは絶対的に別次元の――他のもろもろの個体間の差異とは絶対的に異質の特異な差異でもって他者から区別される――唯一無二の存在という特権的な意味を与えている。D「私」というのは、いわば等質空間内の任意の一点ではなく、むしろ円の中心にたとえられるような、それ以外の一切の点と質的に異なった特異点である。
 
「段落七」の添削文
  人間の自己意識は単なる個体の個別性の意識ではない。個体のそれぞれが自分は他の個体と別個の存在だということを認知する程度の意識なら、おそらく他の多くの動物にも備わっているだろうし、明確な個体識別能力を持っている動物だって少なくない。つまり、他個体の個体識別と自己認知とは同じ一つの認知機能の両面なのである。しかし、それらとは違って、人間は自分自身をほかならぬ「私」として意識し、この一人称代名詞で言表せる存在に、他のすべての個体とは絶対的に別次元の――他のもろもろの個体間の差異とは絶対的に異質の特異な差異でもって他者から区別される――唯一無二の存在という特権的な意味を与えている。(A)したがって、唯一無二である「私」という自己意識は――今まで語ってきたような環境つまり等質空間における任意の一点とは異なった――特異な一点であると考えられるのである。(B)たとえば、円の中心点のような、それ以外の一切の点と質的に異なった特異点である。

「添削箇所&その理由」
1、、@文の頭に使用されている[私]は人間という言葉が適切。前段落からひきつぐ言葉は、まだこの時点では一般的な意味の「人間の自己意識」だからである。絶対的に他者から区別される「私」に関する記述はC文から始まっている。
、B文の後節「他個体の...認知機能の両面である」を強調するために、「つまり」をつけて独立文とする。この独立文を導くために、A文とB文の前節をつなげて一文とする。
、C文の頭に対立接続詞「しかし」を挿入し、C文の「それ」が示しているのは「個体識別と自己認知」の二つであるから、「それら」とする。
、C文からD文への展開が唐突すぎる。突然に「私=円の中心点」という概念がもちだされているが、何故そういう概念にいたるのか、その説明が書かれていない。概念はおもいつきでも書けるが、重要なことはその概念へと導く論証過程である。論文作成において重要なのは、仮説的概念を唐突に書くことではなく、推理の道筋つまり根拠を明確に示すことである。
 さて添削に関してであるが、私はこの仮説的概念の提唱者ではないから、原則的には論証過程を書くことはできない。しかし添削のために利用できるヒントを探すことはできる。読解は前から後ろへと読み進める順に行うのであって、前後を行ったり来たりして行うものではないが、前文になければ後文に探さなければならない。探したところ、ヒントは次段落のG文にあった。「中心は内と外の境界それ自身」という言葉である。したがって、書き手が言う「中心」とは不可思議な一点であるということへとつなげるためには、ここ「段落七」の末文でもう少し親切に言葉を足した書き方が必要なのである。そこで、D文の前節と後節とをそれぞれ添削して、(A)文と(B)文の二文にしておいた。

「段落八」
 @このような「私」としての自己と他者たちとのあいだにも、精神分析のいう「自我境界」という形での境界線を考えることはできる。Aふつうにいわれる「自他関係」とは、この境界線上でかわされる心理的な関係ということだろう。Bそこではやはり境界をはさんだ二つの領域が想定されていて、他者は外部世界に、自己は内部世界におかれることになる。Cしかしそのようなイメージは、特異点としての「私」という自己を考える場合には適切でない。D「私」が円の中心だとするならば、私以外のすべての他者は中心の外にいることになる。E[私]自身ですら、これを意識したとたんに中心から外へ押し出される。Fしかし中心には内部というものがない。Gあるいは中心それ自身を「内部」と見るなら、中心は「内」と「外」の境界それ自身だということになる。H「私」と他者との関係もそれと同じで、「私」は「内」でありながら[内]と「外」の境界それ自身でもあるという非合理な位置を占めている。I「私」とは、実は「自我境界」そのもののことだといっていい。
 
「段落八」の添削文

  @とはいえ、このような「私」としての自己と他者たちとのあいだにも、精神分析のいう「自我境界」という形での境界線を考えることはできる。Aふつうにいわれる「自他関係」とは、この境界線上でかわされる心理的な関係ということだろう。Bそこでは境界をはさんだ二つの領域が想定されていて、他者は外部世界に、自己は内部世界におかれることになる。Dこの概念にしたがうと、「私」が円の中心だとするならば、私以外のすべての他者は中心の外にいることになる。Cしかしそのようなイメージは、前段落で語った「私=中心=特異点」という自己意識を考える場合には適切ではない。F何故なら、中心という特異点には内部がないからである。Gあるいはその中心それ自身を「内部」と見るなら、その中心は「内」と「外」とをへだてる境界それ自身だということになるからである。Eこれを意識したとたん「私」自身ですら中心から外へ押し出されかねない。Hつまり、「私」は「内」でありながら「内」と「外」の境界それ自身でもあるという非合理な位置を占めている。Iこう考えると、「私」とは精神分析のいう「自我境界」そのもののことだといっていい。人間は、自己と他者の「境界」を生きるだけではなく、はっきり意識するところに、人間的な自己意識が生まれる。そしてこのことは個々の個体だけではなく、集団全体についても同じように言える。「私」だけではなく「われわれ」もやはり他者との境界を生き、そしてそれを意識している。

「添削箇所とその理由」
、文の流れを円滑にするために、前文内容を肯定しながらもけれどもこういう面もあるという意味の移行句「とはいえ」を@文の頭に挿入する。
、C文とD文を前後におきかえ、文の流れを円滑にするために、D文の頭に移行句「この概念にしたがうと」を挿入する。
、「私という自我意識は内部をもたない一つの点」ということを、読み手に再認識させるために、C文の「特異点としての《私》という自己」を「前段落で語った《私=中心=特異な一点》という自己意識を」へと変える。
、E文は、「これを意識したとたん」を文頭へと移し、文末を断定表現から可能表現の「押し出されかねない」へと変え、そしてG文の後ろに移動する。そのほうが話の流れが円滑である。全体的には「@→A→B→D→C→F→G→E→H→I」という流れになる。
、F文とG文はC文の理由を述べているので、F文の頭に「何故なら」を、G文の末には「...からである」を挿入する。
、H文の前節「私と他者との関係もそれと同じで」は後節と内容的に相関しておらず、読解を混乱させるだけなので削除し、その代わりに「つまり」を挿入する。
、I文の頭に、移行句「こう考えると」を加え、「実は」を削除し、そこに「精神分析のいう」を挿入する。個人的概念の論証に本当という意味の言葉である「実は」は適切ではない。
、I文の後に次段落である「段落九」のBCDをつける。理由は次段落で述べる。

「段落九」
 @等質空間に引かれた境界線と違って、生命空間における個体と環境の境界は、その「こちら側」にあるはずの「内部」をもたない。A同じことを別の言い方でいうなら、生きものそれ自身とそれ自身でないものとの境界そのものとして、この境界を生きている。Bこの自己と他者の「境界」を、生きるだけではなくはっきり意識するところに、人間的な自己意識が生まれる。Cそしてこのことは個々の個体だけでなく、集団全体についても同じように言える。D人間の場合、「私」だけではなく[われわれ]もやはり他者との境界を生き、そしてそれを意識している。
 
「段落九」の添削文
 (A)人間の自己意識[私]という特異点を例に、境界の何であるかを述べてきたが、人間以外の生きものについても、この特異点の状態であると考えなければ、「段落二」で述べた「内部環境」の説明がつかないことに気づく。(B)すなわち、生命空間における境界の「こちら側」にあるものは「内部」ではなく「内部環境」という環境だということになる。同じことを別の言い方でいうなら、生きものすべては、それ自身とそれ自身でないものとの境界そのものとして、この境界を生きているとも言える。

「添削箇所&その理由」
、 ここ「段落九」では論述対象がころころと変わっている。どう変わっているかといえば、「段落八」における対象は人間の自己意識(私)に関してであったのが、ここ「段落九」に入ったとたんの対象は生きもの一般になり、そうかとおもえばBCD文では再び人間の自己意識(私)にもどるという次第である。しかも悪いことに、書き手は移行を示す接続詞さえ書いていない。このハチャメチャぶりを読み手の眼前にあらわれる光景でたとえるとこうである。眼前にズームアップされた「花のめしべ(人間の自己意識)の光景が次の一瞬「森全体(生きもの一般)」の光景になり、まばたきする間もなく次の一瞬、再び花のめしべの光景にもどっているという模様である。二、三行という少ない行間のあいだにズームアップとズームアウトをくりかえされたら、読み手はめまいを覚えるというものである。
 添削に関してであるが、やはりここでも、読解の正道ではないが、ヒントを次の「段落十」にヒントを探さなければならない。「段落十」における論述対象は人間の自己意識ではなく「生命の営み」である。よって、ズームアウトした状態で「段落九」を終えねばならない。だから、人間に関して述べているB、C、D文は「段落八」の後ろに移行しておいたというわけである。
、 論述対象を「生きもの一般」に変えることを明言するために、段落の頭にA文を付加する。
、 添削した@文をB文としてA文の後に挿入する。
、 A文を明確にするために、主語として「生きものすべて」を、そして文末に「ともいえる」を挿入する。文頭に「別の言い方でいうなら」と置くなら、文末は「ともいえる」で終わったほうが美しく、もちろん分かりやすい。

「段落十」 
 @生命の営みは、これを物理空間に投影してみると、すべて境界という形をとるのではないか。A逆に言って、われわれの周りの世界にあるすべての境界には――空間的な境界も時間的な境界も含めて―そこにつねに定かならぬ生命の気配が感じられるといっていい。Bこの気配こそ、境界というものを合理的に説明しツくせない不思議な場所にしているものだろう。C境界とはまだ形をとらない生命の――ニーチェの言葉を借りれば「力への意志」の――住みかなのではないか。

[段落十]の添削文
 すなわち、生命の営みは、これを物理空間に投影してみると、すべて境界という形をとるのではないか。逆に言って、われわれの周りの世界にあるすべての境界には――空間的な境界も時間的な境界も含めて――そこにつねに定かならぬ生命の気配が感じられるといっていい。この気配こそが、境界というものを合理的に説明しツくせない不思議な場所にしているのだろう。境界とはまだ形をとらない生命の――ニーチェの言葉を借りれば「力への意志」の――住みかなのではないか。
                
「添削箇所とその理由」
、前段落の内容を帰結するために、@文の頭に移行句の「すなわち」を挿入する。
、B文は文法的には添削の必要はない。しかし、「段落十」は結論の段落である。たとえ概念の立証であっても、読み手を概念の世界に引きずりこむために表現は断定的のほうがよい。内容から断定表現はできないから、文末の推量表現「だろう」はいいとして、二つの「もの」――「境界というもの」と「不思議な場所にしているもの」――が説得性を弱めている。そこで、後ろの「もの」は削除し、「この気配こそが、境界というものを...不思議な場所にしているのだろう」と表現する。
、 ここでもB文からC文への流れが非常に唐突である。私はニーチェの言葉「力への意志」の意味を知らないから、この結論文におけるこの言葉の引用が適切かどうかは判断できない。したがって私はこの唐突さを添削する術を知らない。ただ言えることは、ニーチェが言うところの「力への意志」の意味を説明するのが書き手としての責務だということである。たとえ著名人の言葉であっても公理あるいは自明になっていないかぎり、その言葉だけをもって論証過程の提示はできないし、まして結論づけるための道具にすることはできないからである。根拠を示すことなしに著名人の言葉で結論づける、これは論文の書き手が行ってはいけない基本的な約束事である。
 
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 発信しっぱなし疑問文の使用不可
  疑問文とは本来質問をする文である。つまり答えを求める種類の文である。返答を強制す  る試験問題や依頼の手紙等における疑問文は受信者の答えを期待して使用される。しかし、論文形式文における疑問文は、読み手から直接に答えを引き出すために使用されているわけではない。読み手の関心を強くひきおこすため、あるいは、読み手に深く考えてもらうため、つまり強調を目的とする、文作成上の一つのテクニックである。いわば自問自答的疑問文である。
  自問自答的疑問文とはいえ、疑問を提示したまま答えを書かないでよいというわけではない。自答であっても答えは求められる。何故なら、読み手にとっては、疑問文はあくまでも疑問文だからである。書き手が投げかけた疑問の答えは、直接的(言葉や文で)にしろ、間接的(文脈で)にしろ、何らかのかたちで、答えが提示されるだろうという期待が読み手にはある。したがって、疑問文を発信しっぱなしにしたままでいると、読み手の興味を拡散し、ここでも読解の宙づり現象が起こる。
  自問自答的疑問文であるから、発信しっぱなし(回答を忘れる)になりやすいという現象が起きる。回答を忘れやすくさせている理由は、書き手のうちにすでに自明な答えがあるからである。しかし、この自明とは、あくまでも書き手にとっての自明であり、読み手にとっての自明ではない。たとえ自答的自明の答えが文脈の裏に隠されていたとしても、論文形式文における書き手と読み手のあいだには暗黙の了解は存在し得ない。よって、自答的答えを文脈の裏に隠しておいて、「これほど自明なことはないじゃないか、この自明を読み手は何故理解し得ないのか」という書き手の主張は自戒されなければならない。
                     (横山多枝子著・日本語を教えない国日本p218〜p219)