入試制度に代わるシラバス方式
シラバス(syllabus)とは、授業目的や採点等の授業内容が担当教師によって記された概要書である。いわば自分の授業を受ける生徒への教師の約束である。シラバスは学期の初日に生徒に配布され、生徒はこのシラバスによって授業の進行方向や採点方法を知ることができる。採点方法の一例をあげれば、《テストは学期中に一回で全体的比率は10%、宿題提出が週一回でその比率は20%、研究発表は10%、小論文提出は10%、出席は50%》となる。シラバスの内容は100%の比率をもって教師の裁量に任される(中央集権排除)。であるから、《意見発言(発表)100%》でも、《クイズ100%》という分配比率も可能になる。前者はクラスに出なければ発言機会を失うから、後者は出席していなければ毎週1回突然実施される小クイズを受けられないから、生徒はクラスに出席せざるを得ない。前者はプレゼンテーション訓練の授業に最適であろうし、後者は新知識を得る科目ならどんな教科にも適用できるであろう。もちろん、教師が生徒の達成を助けるために最大の努力をすることはもちろんである。
生徒は学期初日に渡されたクラスのシラバスを読んで、その学期に受けねばならない科目単位数とてらしあわせて修学負担が過重と思えば、変更期間を1週間程度としてクラスを変更できる。もしその科目クラスが卒業のために必要な必須科目なら、生徒はいずれ履修しなければならないが、他の科目の修学負担が少ない学期に受けたらいい。必須科目のクラス(教師)は複数が用意されなければならないのは当然であるから、生徒も教師の質でクラスを選択できる。教え方の下手な教師は必然的に生徒が集まらないから失職するこということもありえる。
シラバス方式は、教師の主観的見解や生徒の好き嫌いから生徒が被る被害を最大限に防ぐためのものであり、学内成績を公平に評価するために機能する。もちろん成績は絶対評価でなければならない。クラスの全員がAを取得する可能性もあり、逆にFをとって及第できないこともある。この公平さを強化するシステムとして、シラバス方式が正当に機能しているかどうか監視監督する絶対的中立の部門の設置が必要である。内申書のために子どもを人質にとられた親が教師に何も言えないという悪慣習を排除するためである。
クラス(授業)は子どもたち個個がもつ学習準備性にあわせてカリキュラムが組まなければならない。そしてこのカリキュラムは全国統一して中学と高校のレベル差をなくす。つまり、成績Aは全国に通用するAになるということである。この統一性をもたせるために国の力は必要であるが、教授法や教科書の選定は教師に選択権を与え、独自な教授法が尊重され、学習指導書や指導要領などの制度は廃止される(中央集権の排除)。これによって、教師の努力は指導要領に振りまわされることなく教授法の開発にまわされる。
入試制度を廃止しましょうと言うと、高校や大学の定員が決まっているのに、どうやって選抜するのか、という言葉が必ず聞かれます。いろいろな方法が考えられるでしょうが、私はシラバス方式を提案します。シラバス方式の仔細を次に記しますが、要は子どもたちの教育の権利が優先されなければならないということです。入試制度でがんじがらめの日本の教育制度は民主主義ではありません。ですから日本の教育から中央集権を排除して、民主主義の教育制度にしましょう。伸びる時期が違う子どもを急がせることなく、子どもの特性を尊重して個個の発達を気長に待ちましょう。以上が入試制度を廃止するための基本理念です。
シラバス方式の要項
1、小学生の低学年は担任制、高学年から教科単科制とする。
2、担任制時代は成績表の発行なし。私個人の経験から言って、小学生時代の成績表ほどあてにならないからである。あてにならない評価で、親と子を惑わせてはならない。伸びる時期が各自違う子どもの可能性の芽を決めつけた評価で摘み取ってはならない。子どもを評価するよりも、低学年教師には、子どもを遊ばせたり、考えさせたり、子どもとじかに心の交流ができる適性が必要とされる。
3、教科単価制から評価をシラバス方式とする。一人の生徒が一つの単科のクラスを受ける権利は3回与えられ、一番成績の良かったクラスの評価がその生徒の成績になる。同じクラスを何回受けたというデータ―は残さない。もちろん、この逆のシステムもある。飛び級である。たとえば、中学生でも高校の数学の授業を、高校生でも大学の授業を受けられる、ということを可能にする。ただし、飛び級制度が子どもを急がせる原因になってはいけない。
4、教授法と教科書の選択は教師の裁量にまかされるが、カリキュラムは高校まで全国的統一性をもたせる。カリキュラムに全国統一性をもたせれば、生徒はあえて遠い学校や授業料の高い高校へ通学する必要はなくなる。入試を廃止すれば、記憶力一辺倒の価値観は自然に崩れ、いろいろの個性や能力を持った子が一つの学校に集まり、互いに尊重しあえる環境ができる。
5、大学は独自の入学許可選定基準を定めることができるが、シラバス様式で提出される高校の成績の価値は全国一律に同レベルだと認めなければならない。そして、生徒が入学願書を提出大学の数に制限を設けてはならない。大学側は定めた入学許可の判定基準を満たす生徒の入学希望はすべて認めなければならない。これでは定員オーバーになってしまうと向きもあるかもしれないが、その心配は無用であろう。何故なら、生徒たちにも大学を選択する権利があるからである。そして、一人の生徒が入学できる大学は一つだからである。たとえばA君の場合である。願書とともに申込金が必要だから、とりあえず10校に入学願書を送ったとする。そのうち5校から入学許可がおりたとする。A君が選ぶのは、家から通学できる近場の大学かもしれないし、授業料等が安い大学かもしれないし、学びたい専攻に世界的に有名な教授がいる大学かもしれない。選択権はA君にある。この時点におけるA君の出費は申込金と郵便料金のみである。受験料や宿泊料そして交通費等と高額な出費はないほうがいい。
6、誰でも、文字通り誰でも入学できるカレッジ・システム(米国のコミュニティーカレッジのようなもの)をつくることを切望する。不登校した子も、引きこもっていた子も、離婚した若いお母さんも、リストラされた中年の人も、他の人生をやってみたい定年退職者も、各種障碍をおった人も、学びたい人は誰でも受け入れる教育システムである。そのためにカレッジには補習クラスが設置されなければならない。もちろん、カレッジの教養課程卒業者は大学への転入資格を得る。
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高等教育入学への門は誰にでも開かれている。しかし、卒業への門は誰にでも開かれれているわけではありません。卒業には真の努力が求められます。大学での学びは記憶ではありません。思考し、研究し、あなた自身の説をひきだすことです。これが本当の学びです。記憶だけでは思考力は育ちません。日本の大学が衰退しはじめているのは子どもたちに記憶だけさせてきたせいです。
2003年9月16日 横山多枝子 記