年号「令和」という言葉の意味
2019年、平成最後の年の4月日、5月から使用される新年号が発表された。その年号が「令和」である。市井は「令和」フィーバーで持ちあがっているが、私個人は好きではない。特に「令」という文字に施政者(令和と決めた/決めたかった人間〉の意図を感じるからである。具体的に言えば、この施政者は安倍政権つまり憲法改正を強く願い、改悪を企てている集団である。だから、「令」という文字から彼らのイデオロギー(偏った観念形態)臭がプンプン匂うのである。
年号は単なる記号であるから、どんな漢字が使用されようと気にする必要はないのだろうか。私はそうは思わない。言霊という言葉があるように――言葉そのものに不思議な霊威があるとは思わないが――頻繁に人々が使用することによって、使用者である人々のマインドを支配するようになることは歴史の糸をひもとけば知れる。もちろん、実質的な支配者はその言葉の生みの親である。
しかも、漢字は平仮名やカタカナと違い意味を持つ文字である。人は、「殺」や「憎」という漢字から何を思い浮かべるか、「生」や「愛」という漢字から何を思い浮かべるか。前者からは「陰」つまり日の当たらないところに隠しておきたい事柄、後者からは「陽」つまり日の当たるところに出せる/出したい事柄である。 こういう観点から、「令」という漢字について考える。 この文字がもつ意味を漢辞海から重要な箇所をピックアップにすると、次のようになる。
動詞 @命令する。号令する。Aしむ(使役を表す)
接続詞 省略
名詞 @命令。「軍令」A法令。「律令」
形容詞 @立派な。美しい。A他人の親族につける敬称。
さて、ここで考えねばならないことは、言葉というものの成立ちについてである。人類が初めて口に出した言葉は上記のなかのどれであろうか。動詞としてか、接続詞としてか、名詞としてか、それとも形容詞としてか。まだ書き文字のなかった時代、人々が互いに生きるために必要な伝達の道具としての言葉はおそらく、指をさして何か音を出せば相手に通じる名詞であったろうと想像される。そして次の段階はその名詞を動詞としても使えることにして、少し複雑なことでも伝達できるようにした。同じ言葉の接続詞扱いや形容詞扱いは、だいぶ後、言語が発達してからの話だろうと想像される。
したがって、私たち絶対多数の日本人が「令」という文字から受けとる意味は、ほとんど使ったこともない形容詞扱いの「美しい」ではなく、日常に使っている第一義的意味の「命令/命令する」である。 ということで、次に考えなければならないのは、形容詞扱いになると、「命令」という意味の「令」が何故に「美しい」という意味になったのか、その理由のようなものである。出典の万葉集から探すまでもなく、形容詞として使われている言葉の例として「令嬢」や「令室」があるが、これらの言葉から、「令」が第一義的意味の「命令する」から「美しい」という意味を持たせられるようになった、その背景のようなものが見えてくるかもしれない。
「令室」や「令嬢」という言葉から温もりを感じるだろうか。感じる人もいるかもしれないが、私は「冷たさ」のほうを感じる。何故だろうか? おそらく「命令する/命令できる」立場を「令」という文字がかもしだしているからである。権威・権力者の妻や娘なら当然に着飾り、それなりの美貌をそなえている。美貌をそなえていなくても、使えている下部や身分の低い人々は、自己保全のために、とにもかくにも称える言葉を使わなければならない。したがって、「あなたは命令できるお美しいお方です。何なりとお申し付けくださいませ」という意味をこめて「令」が使用されたと推測する。それがいつのまにか、表層的な「美しさ」という意味として定着したと考えられはしないか。だからであろう、形容詞としての「令」は温もりのある美しさではなく、出典・万葉集の「初春の冷月にして...」が示しているように、冷気が漂っているような美しさを表している。
次に「令和」の「和」に関して考えてみよう。「和」の意味は「和す。・和らぐ・和む」であり、もっとも馴染みのある使い方では「平和」の「和」である。安倍政権は「令」を形容詞扱いして「美しい和」と説明したが、見過ごしてならないのは、「和」は『倭』つまり日本の国名の「やまと」のことでもある。そこで思い出されるのが、安倍政権選挙時、テレビ等から頻りに流されていたプロパガンダ的キャンペーンの「美しい日本」という言葉である。ここまで言えば、もう知れるであろう。イデオロギー臭が漂うわけが。
したがって、「令和」の意味するところは、「和を命じる」と「(冷気漂う)美しい日本」の両方であろう。この二つを重ねると、「美しい日本を護るために、民に和を命じる」とでもなろうか。これは国民どうしの和も意味するが、憲法改正を企む安倍政権であれば、「平和のために憲法改正を」というスローガンにもなりえる。上から命じられる平和は欺瞞と虚実のプロパガンダである。さらに、国民どうしの和でも、モリカケ問題に象徴されるように、一部施政者は互いに仲良く忖度しあおういう意味がこめられていると考えても、考えすぎではないだろう。つまり、「令和」という言葉にひそかに込められたのは、日本を完全に私物化したい、あるいは思うままに動かせる国体にしたいという、一個人あるいはその個人が所属する集団の願いである。
では、没になった他の候補はどうか、「英弘」「広至」「万和」「万保」「久化」のすべては、国のあり方の理想を示しているにすぎず、国民に対する使役的意味は暗示さえしていない。そもそも元号とは国民全員が願い、そして思い描く理想的な国のあり方を示す言葉が望ましいのである。しかし、今回、第一義的意味が使役の「令」が国民の前に高く翳された。国民はこれでいいのか?
上から下された言葉を無思考的に呑みこまないで、よく考えてほしい。ときの施政者に騙されないで、国民が子子孫孫幸せであるために。
加えて、色に暖色と寒色があるように、言葉の音にも暖音素系と寒音素系がある。どう考えても、「ら」行の音は耳に冷たく響く寒音素系である。 言葉は使われていろいろの意味をもってくる。そのときどきに、使用者である人間がいままで使われていなかった特別の意味をその言葉にこめるからである。しかし、日本語はひろく日本人全員のものであり、一部の人間の所有物ではない。
私が論じているのは元号名であり、個人的な名前ではないということを、最後に確認しておく。