2007年センター試験国語文の検証
昨年、文部科学省と独立行政法人大學センターへ意見書兼要望書を送付した効果があったのかどうかは分からないが、今年の出題文には過去文に多くみられた寝言的要素はなかった。ただし、間違った文が二つあった。この間違いは読み手の読解つまり設問解答の過程を妨げない程度であるので、放置してかまわないとも思ったが、この間違いは文の主語と述語が一致しないという基本的な間違いなので、やはり、指摘されるべきであろうと考えた。これらは段落2と段落4のなかにある。ちなみに、全文の記載は省略する。
段落2
私たち日本人の多くは、少なくとも戦後の住宅難からアパート暮らし、団地暮らし、マンション暮らしが一般化するまでは、規模の大小にかかわらず、日本式の庭または庭らしい空間を伴った家に住んでいた。庭らしい空間というのは、庭を持たない家でも、物干し場や張り出しの手摺りや軒下などの僅かな空間を利用しては、鉢植えや盆栽を並べたり、蜜柑箱や石油缶などに土を入れてフラワー・ボックスに仕立てたり、庭の代用物を作ることに熱心するいじましい心根を持っているからである。
傍線文の主部は「庭らしい空間というのは」である。ゆえに、述部は「...である」のように終わらなければならない。ところが、述部は「...からである」と理由で終わっている。これでは主部と述部が関連しておらず、文の意味が通らない。
「庭の代用物を作ることに熱心するいじましい心根を持っているからである」に注目すると、「心根を持つ」のは人であるから、主語はどうやら前文の「私たち日本人の多く」かもしれないとは推測できる。前文の主語が次の文の主語になりえるかであるが、主語が明確に分かりきった文脈にかぎり主語(主部)の省略は認められてもいいと考える。あまりにも分かりきった文脈における主語の反復記載はかえって文を煩雑にするからである。しかし、論文記述に関しては厳格性が求められる。
ということで、傍線文は、前文の「私たち日本人の多く」という主部が省略された文であると推定し、主部もどきの「庭らしい空間」は後ろに移動させ、書き手が意図することを曲げずに添削してみた。
添削例
(私たち日本人の多くは)、庭を持たない家でも、物干し場や張り出しの手摺りや軒下などの僅かな空間を利用しては、鉢植えや盆栽を並べたり、蜜柑箱や石油缶などに土を入れてフラワー・ボックスに仕立てたりと、庭の代用物つまり庭らしい空間を作ることに熱心するいじましい心根を持っているからである。
段落4
ヨーロッパ式の庭園は、左右相称で、幾何学的図形をなしている花壇や、やはり幾何学的図形を石組で作り出し、中央に噴水を出した泉水や、丸く刈り込んだ樹木や大理石その他の彫刻を置いた、良く手入れされた芝生など、人間の造形意志をはっきり示しているところに特色がある。それは最初に設計した人の手を離れた時、一つの完成に達しているのであって、その後手入れさえ施していればそのまま最初の形を保持していくことができると考えた。
この傍線文の場合、主語は文頭の「それ」であり、述語は文末の「考えた」である。指示詞「それ」の先行詞は前文の主語の「ヨーロッパ式の庭園」であろうと推察できるが、この主語は動作「考えた」の主体にはなれない。つまり「考えた」の動作主である主体がどこにもないのである。考える主体を推定すれば可能性の一つとして「最初に設計した人」という言葉があるが、そう特定するには大きな違和感がある。何故なら、「ヨーロッパ式の庭園」は前文で説明されている特色をもったヨーロッパ各地にある庭園の総称であろうから、各庭園の設計者の一人一人を動作主と考えるには無理がある。では、どうしたらいいのか? 能動態である「考えた」を受動態の「考えられた」にすればいいのである。
添削例
それ(ヨーロッパ式の庭園)は、最初に設計した人の手を離れた時、一つの完成に達しているのであって、その後手入れさえ施していればそのまま最初の形を保持していくことができると考えられた。
添削の方法は一つではないし、他者による添削は書き手の意思と離れたものをうみだしてしまう恐れがある。したがって、あくまでも添削は書き手本人が行うべきものである。そこをあえて行うのは、日本人に権威に萎縮して思考力を失ってほしくないからである。ちなみに、私は朝日新聞から出題文の情報をえたので、この文法的に間違った文が山本健吉自身によって書かれたものか、それとも抜粋間違いなのか、私には分からないということを付け加えておく。