二〇〇八年センター試験国語文の検証
文章の書き方を言語学的体系下で学ばされていない日本人である。日本語論文を完璧に書きあげることは容易ではない。私も気がつかないままに、ちぐはぐな日本語を書いてしまっているかもしれない。だから、他者の文章を検証するなんてことは避けたい。しかし、その文章で読解問題を課す場合は別である。その文章そのものに間違いがあってはならないからである。
国語出題文(狩野敏次「住居空間の心身論――『奥』の日本文化」による。ただし、本文の一部を改変した)を読んだところ、文法的に間違った一文が第五段落に、そして読解を妨げる邪魔〈饒舌〉な一文が最終段落にあった。たった二つとはいえ、放置するわけにもいかず、検証していくことにする。
段落一
私たちは昼と夜を全く別の空間として体験する。特に夜の闇のなかにいると、空間のなかに闇が溶けているのではなく、逆に闇そのものが空間を形成しているのではないかと思えてくる。闇と空間は一体となって私たちにはたらきかける。ミンコフスキーは、夜の闇を昼の「明るい空間」に対立させたうえで、その積極的な価値に注目する。
......夜は死せるなにものかでもない。ただそれはそれに固有の生命をもっている。夜に於いても、私は梟の鳴き声や仲間の呼び声を聞いたり、はるか遠くに微かな光が尾をひくのを認めたりすることがある。しかしこれらすべての印象は、明るい空間が形成するのとは全然異なった基盤の上に、繰り広げられるのであろう。この基盤は、生ける自我と一種特別な関係にあり、明るい空間の場合とはまったく異なった仕方で、自我に与えられるであろう。
段落二
明るい空間のなかでは、私たちは視覚によってものをとらえることができる。私たちともののあいだを距離がへだてている。距離は物差しで測定できる量的なもので、この距離を媒介にして、私たちは空間と間接的な関係を結ぶ。私たちと空間の間を「距離」がへだてているため、空間が私たちに直接触れることはない。
段落三
一方、闇は「明るい空間」とはまったく別の方法で私たちにはたらきかける。明るい空間のなかでは視覚が優先し、その結果、他の身体感覚が抑制される。ところが闇のなかでは、視覚にかわって、明るい空間のなかでは抑制されていた身体感覚が呼びさまされ、その身体感覚による空間把握が活発化する。私たちの身体は空間に直接触れあい、空間が私たちの身体に浸透するように感じられる。空間と私たちはひとつに溶けあう。それは「物質的」で、「手触りの」のあるものだ。明るい空間はよそよそしいが、暗い空間はなれなれしい。恋人たちの愛のささやきは、明るい空間よりも暗い空間のなかでこそふさわしい。
段落四
闇のなかでは、私たちと空間はある共通の雰囲気に参与している。私たちを支配するのは、ミンコフスキーが指摘するように、あらゆる方向から私たちを包みこむ「深さ」の次元である。それは気配に満ち、神秘性を帯びている。
段落五
「深さ」は私たちの前にあるのではない。私たちのまわりにあって、私たちを包みこむ。しかも私たちの五感全体をつらぬき、身体全体に浸透する共感覚的な体験である。
下線文(以後、検証の対象である文を指す)の意味が明白でない。読点によって前節と後節とに分かれた一文になっているが、両節ともに主語がない。それぞれの主語が判らなければ、文の意味も判らない。ということで、明記されていない主語を推察すると、前節の主語は二つ前の文と同じ「深さ」であり、そして後節の主語も、これも特別に明記されていない以上、前節と同じであると考えるのが文法に則っている。では、主語を挿入して再び下線文を読んでみよう。
しかも(深さは)私たちの五感全体をつらぬき、身体全体に浸透する共感覚的な体験である。
一見して、どこも悪くなさそうな文ではあるが、意味がつかめない奇妙な文である。こういう文が一番始末が悪い。なにせ、原因が深〜いところに隠れているからである。しかも原因は二つもある。
一つめの原因
前節の述語「つらぬき」は動詞の連用形である。連用形は、たとえば「つらぬきとおす」のように、「とおす」という用言に連なるときの形である。この連用形が連なる用言を後節に探すと「浸透する」があるが、読点があるために、「つらぬき」は「浸透する」に連結できないでいる。つまり、連用形「つらぬき」は後節の用言に連なりたくてしかたがないのだが、用言のほうとしてば下に続く「共感覚的な体験」の修飾句の役目を果たすことに夢中で、そんな遠いところから連なろうとしている連用形の存在などには目もくれないという状態になってしまっているのである。
では、連用形が用言に連なるためにはどうしたらいいのか? 次のように、読点を削除すればいいのである。
しかも(深さは)私たちの五感全体をつらぬき身体全体に浸透する共感覚的な体験である。
二つめの原因
気になるのが接続詞「しかも」の存在である。「しかも」は「なおその上に」という意味をもつ接続詞であるゆえに、これを頭に置く文は前文の意味に必ず呼応しなければならない。つまり、意味上では前文に付属しているゆえに、前文とともに点検されてはじめて、正当文か否かが明らかになるのである。では見ていこう。
「深さ」は私たちの前にあるのではない。私たちのまわりにあって、私たちを包みこむ。しかも私たちの五感全体をつらぬき身体全体に浸透する共感覚的な体験である。
どうだろうか、上記はあなたの言語脳にすんなりと入ってくるだろうか? 少なくとも私の言語脳にはそうではない。原因は「しかも」という接続詞が前文と後文を連結する役目を成していないからである。このことを考えるまえに、それぞれの文の主語と述語との関係を見ていこう。
深さは私たちのまわりにあって、私たちを包みこむ。・・・・・・「深さは・・・まわりにあり、包みこむ」・・・主体と動作
(深さは)私たちの五感全体をつらぬき身体全体に浸透する共感覚的な体験である。・・・・・・「深さは・・・である」・・・主体と指定
具体的にいえば、接続詞「しかも」を受ける述語は前文と同じ動作でなければならないが、指定の「である」になっているから、奇妙な文になってしまっているのである。
添削方法は、指定を動作に修正してもいいし、接続詞「しかも」の削除でも、適切な接続詞への変更でもよい。添削方法はいろいろあり、どのような添削方法をとるかは書き手の意思である。しかし、そこをあえて僭越ながら、次のように行っておく。
[添削例]・・・「深さ」は私たちの前にあるのではない。私たちのまわりにあって、私たちを包みこみ、しかも私たちの五感全体をつらぬく。この「深さ」は身体全体に浸透する共感覚的な体験である。
連用形「つらぬき」を終止形「つらぬく」にして、傍線文の前節を前文の最終節として入れこめば、前文の意味を損なわずに、接続詞「しかも」の意味も生かすことができる。そして、[段落五]が意図する内容を明確にするために、段落最終文の主語は省略するどころか、連体詞「この」を付して逆に特定する。
連体詞を付してまでして主語を特定する理由はこうである。書き手が意図する「深さ」とは、たとえば「容器の深さ」というような誰の目にも見える具象的な意味ではなく、闇のなかで身体が覚えるかもしれない主観的かつ感覚的な気配のことである。このような書き手による概念の把握や理解が常に読み手と百パーセント共有されるとは限らない。だからこそ、書き手は「自分が伝えたい概念の(深さ)はこの概念(この深さ)ですよ」と特定しなければならないのである。掴みどころのない「深さ」という表象的な言葉を確実な意味のある言葉として固定し、そこを焦点とし、読み手の読解の視線を集める凸レンズの役目をするのが連体詞である。
段落六
近代の空間が失ってきたのは、実は深さの次元である。近代建築がめざしてきたのは明るい空間の実現であった。ピロティ、連続窓、ガラスの壁、陸屋根は、近代建築が明るい空間を実現するために開発したソウチである。人工照明の発達がそれにハクシャをかける。明るい空間が実現するにつれ、視覚を中心にした身体感覚の制度化がすすんだ。視覚はものと空間を対象化する。空間は測定可能な量に還元され、空間を支配するのは距離であり、ひろがりであると考えられるようになった。それと同時に、たがいに異なる意味や価値を帯びた「場所性」が空間からハイジョされ、空間のあらゆる場所は人工的に均質化されることになった。こうして、場所における違いをもたないユークリッド的な均質空間ができあがる。
段落七
深さは、空間的には水平方向における深さをあらわしている。幅に対する奥行きである。しかし、均質化された近代の空間にはこの奥行きが存在しない。なぜなら、均質空間はどの場所も無性格で取り換え可能だから、奥行きは横から見られた幅であり、奥行きと幅は相対化された距離に還元されてしまうからだ。均質空間では、幅も奥行も「距離」という次元に置き換えられる。したがって、そこにあるのは空間のひろがりだけであり、深さがない。
段落八
ミンコフスキーが深さについて語っているのは、もっぱら空間的な意味においてである。一般に西洋では、深さは水平方向における深さであり、純粋に空間的な意味しかもっていないようである。それに対して、わが国では深さは水平方向における深さであると同時に、時間的な長さをも意味する。深さは空間的であるとともに時間的な意味を持つ。それを端的に表したことばが「奥」である。奥は日常的にもよく使われることばだ。
段落九
たとえば来客を家のなかに案内するさい、よく「奥へどうぞ」などという。具体的に座敷とか応接間といわずに「奥」という。この場合の「奥」とはいったい何を指しているのだろうか。それが具体的な部屋を指しているのでないことは明らかである。「座敷へどうぞ」「応接間へどうぞ」といわれれば、部屋のイメージを頭に思い描くこともできる。だが奥といわれると、少し大げさにいえば、いったいどこへつれて行かれるのだろうという一抹の不安が心をよぎる。奥は漠然として、つかみどころがない。奥は具体的な対象物を指すことばではなく、漠然とあるなにものかを暗示することばである。このあたりに、日本語に固有な奥ということばの深い意味がかくされているように思われる。こころみに辞書を引いてみると、奥には次のような意味がある
「外(と)」「端(はし)」「口(くち)」の対。オキ(沖)と同根。空間的には、入り口から深く入った所で、人に見せず大事にする所をいうのが原義。そこにとどくには多くの時間が経過するので、時間の意に転ずると、晩(おそ)いこと。また、最後・行き先・将来の意。(空間的に場所について)入り口から深く入った所。最も深くて人のゆかない、神秘的な所。末尾。〈「道の奥」の意で〉奥州。みちのく。奥まった部屋。〈心理的に大切にする所の意で〉心の底。芸の秘奥。貴人の妻の居室。貴人の妻。奥方。夫人。〈時間に転用して〉晩〈おそ〉いこと。また、最後。将来。行く先。
段落十
要するに、奥は空間的にも時間的にも到達しがたい最終的な場所、時間を指している。それだけではない。奥義、奥伝ということばがあるように、奥には空間的、時間的な意味のほかに、深遠ではかりがたいという心理的な意味もある。奥は空間的、時間的、心理的なさまざまな意味を含みながらひろく日本の文化を支えている。
段落十一
奥を具体的に体験できる場所に日本の古い神社がある。神社の境内は鎮守の森とよばれる深い森につつまれ、その森を分け入るように長い参道が続いている。参道は社殿に向かってまっすぐにのびているのではない。右に左に折れ曲がり、つま先あがりの坂道になったり険しい石段になったり、実に変化に富んでいる。参道の両脇には鳥居や献燈の検討がいくつも並び、うっそうとした木立や苔蒸した庭石などとともに巧みに配されている。そして手水舎、回廊、拝殿、玉垣、正殿へと続くが、神社の中心である正殿には仏教寺院のように偶像が安置されているわけではない。せいぜい神の依代としての鏡があるくらいだ。仏教寺院の中心は仏像とそれが安置してある本堂だが、神社にはそれに相当するものがない。上田篤氏が指摘するように、神社の中心はむしろ参道である。見通しのきかない曲がりくねった参道を一歩一歩フみしめながら歩いて行くと、私たちの精神はしだいに高揚し、聖なるものに近づいて行くような感じをいだく。そのとき、私たちは奥を感じる。奥は最終的な建物ではなく、そこへいたるまでのプロセスを造形化したものだと言える。
段落十二
奥について最初のまとまった論稿を発表したのは槇文彦氏である。槇氏は奥の特性を次のように説明する。
奥性は最後に到達した極点として、そのものにクライマックスはない場合が多い。そこへたどりつくプロセスにドラマと儀式性を求める。つまり高さではなく水平的な深さの演出だからである。多くの寺社に至る道が曲折し、僅かな高低差とか、樹木の存在が、見え隠れの論理に従って利用される。それは時間という次数を含めた空間体験の構築である。
段落十三
奥は時間的なヨウソを含む概念である。その点、「間」との類似性が考えられて興味深い。奥は純粋に空間的な意味での奥行ではなく、目的へ向かうプロセスの演出によって私たちの心のなかに生じる心理的な距離感覚であり、時間感覚である。人間の身体感覚に深くかかわる概念だといえる。また槇氏は、奥は「見る人、つくる人の心のなかでの原点」であり、「見えざる中心」だという。さきほどの「奥へどうぞ」ということばには、案内する側とされる側の両者の心のなかの原点にむかって行くというニュアンスがある。案内された瞬間から、すでに奥の空間体験がはじまっているのである。奥は最終的に到達すべき建物や部屋が目的ではなく、そこへいたるプロセスに儀式と演出を求めるからだ。
「その点、〈間〉との類似性が考えられて興味深い」とあるが、出題文中この最終段落にいたるまで、「間」という言葉は一言たりとも出てきていないから、どういう類似性があるのか、読み手の読解作業はここで頓挫する。くわえて、「間」は「アイダ」なのか、「カン」なのか、それとも「マ」なのか、読み方によって言葉の意味は変わってくるはずだが、それに関しても一切の言及はないから、読み手の困惑はさらに増す。
「間」が何を指しているのか推測すれば、前文にある「時間的な要素」のなかの一文字をひきだしての「間」なのかと考えられなくもないが、まさか、「間」という文字が「時間」という言葉を構成している一つのヨウソだから類似性があるというわけでもあるまい。もしそうであれば、こじつけも甚だしい。
出題文以外のところで「間」に関してことこまかく論じられているかもという推測もありえるが、たとえそうであっても、そして出題文は長い完成作品のほんの一部であったとしても、この出題文をもって読解能力を試験する以上、首尾一貫性は完成作品と同様に求められるのである。
「間」というような普遍的な文字に、自身が信じる概念を表象させるため特定の命をふきこみたいのであれば、書き手は明白にその意味を説明しなければならない。このような饒舌文は読み手を言葉の林のなかに迷わせる間違った道標以外のなにものでもない。こんな道標はただちに取り外す。これが論文制作の原則である。