記憶の改竄・・・辺野古問題


ノーベル文学賞受賞者カズオ・イシグロ著の「
忘れられた巨人」があります。最初の数ページを立ち読みして、すぐにもとにもどしました。寂しさを感じたからです。その寂しさとは読後感ではありません。さぞかし美しい日本語が並んでいるにちがいないという予想がうらぎられたからです。何故、その本を店頭で手にとったのかといえば、ノーベル文学賞を受賞した理由のようなものを知りたかったからです。翻訳本を読みたくないのなら原本を読むしかありません。幸いに図書館に蔵書がありました。以下は簡単な読後感です。
ファンタジー仕立て、しかもイギリスの歴史や文化を背景に展開するストーリーは、正直言って、理解しがたいところもあり、あまり面白くありませんでした。それでもイシグロ氏が言いたかった何か――彼の本意にはそわないかもしれませんが――は掴めたような気がします。その何かですが、イシグロ氏がつけたタイトル「Buried Giant/葬られた巨人」が示唆していると思います。巨人が象徴するものは記憶です。大きなものでは、たとえば国家間の戦争の記憶、民族間の紛争あるいは和解や友愛の記憶、小さなものでは、たとえば個人間の愛憎の記憶です。
日本人は忘れっぽい性格だと言われます。政治家や官僚等が犯した悪さはすぐ忘れます。戦争や原爆投下等の負の歴史も薄れてきています。忘却して遺恨を残さず前にすすむ。これは平和と繁栄へと導きますから良いことです。しかし、反省と後悔の記憶も消えますから、同じことがくりかえされる危険をともないます。したがって、忘れなければならない記憶と、けして忘れてはならない記憶と、同じ記憶でも二通りあるということです。
翻訳に関して、ここで考えなければならないのは、
「葬られた」が何故に「忘れられた」と翻訳された理由のようなものです。両者のあいだには天地ほどの違いがあります。「忘れる」は単に記憶が時の経過とともに自然に消滅していくという意味ですが、「葬る」は「埋める」つまり「覆い隠す」であり、そこには埋める者の「無い物にしたい」という意図が存在します。「葬られた巨人」が「忘れられた巨人」と翻訳された本当の理由は知りませんが、日本社会がかかえる闇が介在するとしたら、どうでしょうか? 報道するものと、報道しないものを選んでいる、昨今のメディアの様相もこれにあてはまります。
平和憲法である日本国憲法の改正が策略されている昨今ですが、今、何が施政者によって意図的に葬られようとしているのか、よくよく考えるべきだと思います。

そして、今、沖縄辺野古の海が完全に埋められようとしています。国は何を覆い隠し亡きものにしたいのでしょうか? 一部の日本人にとって都合の悪い記憶です。沖縄を犠牲にしてきた記憶。そして未だに犠牲にしていること。この記憶は日本人全体がけして忘れてはならない記憶なのです。平和な未来のために絶対不可欠な記憶なのです。イシグロ氏の言葉を借りれば、けして葬られてはならない記憶(巨人)なのです。しかし、国はこの巨人を辺野古の海深くに沈め、亡きものとしようとしている。これが国の狙いです。新しく辺野古米軍基地を完成させ、「はい、終わり」と人々に諦めさせたいのです。記憶が消されて無思考・無関心になった市民ほど統治(コントロール)しやすいですから。改竄を得意技とする国です。歴史や記憶までも改竄されようとしていることに、私たちは気づかなければなりません。辺野古問題はけして沖縄だけの問題ではありません。国民全体の問題です。歴史や記憶を改竄してしまえば、どんな改竄も容易になります。