2009年センター試験・国語出題文の検証
今回の出題文は――段落四の些細な問題をのぞいて――段落九まで難なく読めたが、残念ながら、全体的には論文の体をなしていないことが判明した。最終段落(結論部分)と段落一(導入部分)の関連性において齟齬があったからである。
検証の仕方としては、出題文(斜体文)を段落ごとに記し、そして間違いを指摘していく。間違いがありとされる言葉や文には下線を引く。
検証を始めるまえに一つの大前提を確認しておく。それは、たとえこの出題文が作品全体の一部であろうと、試験場で初めて読まされる受験者にとっては、首尾一貫性をもった完成論文でなければならないということである。したがって、出題文は作品の一部であるゆえに支離滅裂であってもしかたがないという弁明はなりたたない。
段落一
私の住む東京都品川区の旗の台の近辺では子どもたちが普通の隠れん坊をすることはほとんどない。そのかわりに変形した隠れん坊はしばしばおこなわれている。商店街の裏手の入り組んだ路地や、整地中の小工場の跡地や、まだ人の入っていない建て売り住宅の周りや、周囲のビルに押しつぶされそうな小公園で、子どもたちの呼び方では「複数オニ」とか「陣オニ」といった隠れん坊の変り種が生き延びている。その変り種のなかでも、かんけりは子どもたちに好まれている。
段落二
「複数オニ」とは、その呼び名のとおり、見つかった者すべてが見つかった時点にオニに転じて、複数のオニが残りの隠れている子どもを探す隠れん坊である。
段落三
「陣オニ」の場合は、立木でも塀の一部でもよい、オニが決めた「陣」にオニより早くタッチすればオニになることから免れる。ただし、かんけりと違って、助かるのは陣にタッチした本人だけである。
段落四
子どもたちが集まって何かして遊ぼうとするときに、隠れん坊をしないで「複数オニ」や「陣オニ」をすることには見過ごし難い意味がありそうだ。隠れん坊は、藤田省三が「或る喪失の経験―隠れん坊の精神史―」という論文(『精神史的考察』平凡社、一九八二年、所収)で述べたように、人生の旅を凝縮して型取りした身体ゲームである。オニはひとり荒野を彷徨し、隠れる側はどこかに「籠る」という対照的な構図はあるけれども、いずれも同じ社会から引き離される経験であり、オニは隠れていた者を見つけることによって仲間のいる社会に復帰し、隠れた者もオニに見つけてもらうことによって擬似的な死の世界から蘇生して社会に戻ることができる。隠れん坊が子どもの遊びの世界から消えることは、子どもたちが相互に役割を演じ遊ぶことによって自他を再生させつつ社会に復帰する演習の経験を失うということである。たしかに「複数オニ」や「陣オニ」はおこなわれているけれども、それらはもはや普通の隠れん坊の退屈さを救うためにアクセントをつけた、といったていどのことではない。
書き手は段落一において、「隠れん坊には《普通の隠れん坊》と《変形した隠れん坊》があり、《複数オニ》と《陣オニ》と《かんけり》は《隠れん坊の変わり種》つまり《変形した隠れん坊》である」と述べている。したがって、読み手は「段落四」に入ってすぐの「隠れん坊をしないで、《複数オニ》や《陣オニ》をする」という文言に困惑させられる。これは「隠れん坊をしないで隠れん坊をする」と言っていることと同じである。隠れん坊には2種類あると明言されているのであるから、「普通の隠れん坊」と特定されて書かれていなければならない。実際、この段落の末尾文においては、「...普通の隠れん坊の退屈さを...」と、「普通」という言葉が付けられている。段落の末尾で特定すればよく、途中では省略してもかまわないという筆記作法は、文章というものが前から読み進めるものである以上は通じない。
他の間違いは「述べたように」である。結論を先に言えば、「述べているように」と接続助詞〈て〉に補助動詞〈いる〉がついた連語の使用が正しい。何故なら、藤田省三が論文のなかで述べたことがらは、彼の作品のなかに現在にまで保たれているからである。しかし、「述べた」と表現されると、藤田省三の考え方は過去に属していて、現在には属していないことになる。現在に属していない他者の説を自分の説のよりどころにすることは書き手の自由だが、おのずと説得力は小さい。
段落五
小学六年生の男の子から聞いた話を翻案すれば、「複数オニ」の演習の主題は裏切りである。オニが目をつぶってかぞえている間に子どもたちはいっせいに逃げる。それぞれ隠れ場所を工夫しても、同じ方向に逃げれば、近くにいる者同士は互いにどの辺に隠れているかを知っている。そのとき一方が見つかれば即座にオニという名のスパイに変じて、寸秒前に仲間だった者の隠れ家をあばくことになる。近くに隠れた者との仲間意識は裏切り・裏切られるコウジョウ的な不安によって脅かされている。連帯と裏切りとの相互ヘンカンが半所属の不安を産み出し、その不安を抑えこもうとして、裏切り者の残党狩りはいっそう苛酷なものになる。オニは聖なる媒介者であることをやめて秘密警察に転じ、隠れる側も一人ひとりが癒し難い離隔を深めつつ、仲間にスパイを抱えた逃亡者集団と化す。
段落六
「陣オニ」について、さきほどの少年は「自分だけ助かればよい」ゲームだという。「陣オニ」の本質をいいつくした説明であろう。「陣」になる木や石は、元来呪的な意味をもち、集団を成り立たせる中心であった。だが今日子どもたちのおこなう「陣オニ」では、「陣」は社会秩序そのものであり、「陣」に触れることは、自分を守ってくれる秩序へのコミットメントを競争場裡で獲得すること、選良の資格を手にすることである。社会秩序の中心と私的エゴイズムとを結びつけるための単独行的な冒険ということが、「陣オニ」の演習の本義なのだ。
段落七
隠れん坊の系譜をはずれた身体ゲームのなかで子どもたちに好まれている遊びは「高オニ」である。「高オニ」は、土の盛り上がったところ、石段の上部、ブロック塀の上など、オニの立った平面よりもより高い位置に立つことによってオニになることを免れる遊びで、鬼ごっこの一種と考えられる。この遊びの演習課題は、人より高い位置に立つこと、より高みをめざすことがポイントである。
段落八
「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」のような戸外の遊びに飽きた子どもたちは、子ども部屋に閉じこもって「人生ゲーム」に興じる。「人生ゲーム」は、周知のように、金を操作することによって人生の階段を上昇することを争うゲームである。ルーレットをまわすたびに金が動く。人生の修羅場をくぐって他人を蹴落としながら、自動車を買い、会社に入り、結婚し、土地を買い、家を建て、株を売買する。こうして最終的に獲得した財産のタカに応じて、その人の人生の到達度が量られる。成功の頂点は億万長者、ついで社長で、最低辺は浮浪者である。その間に万年課長とか平社員とかレーサーといった地位・職業が位階づけられて配列されている。
段落九
「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」の行き着く先が「人生ゲーム」といえるのではないか。これらのすべての身体ゲームが共通のコスモロジーをもっている。それは、私生活主義と競争民主主義に主導された市民社会の模型としてのコスモロジーであり、また、産業社会型の管理社会の透視図法を骨格にもつコスモロジーでもある。これらの身体ゲームを通して、子どもたちは現実の社会への適応訓練をおこない、おとなの人生の写し絵を身体に埋め込むのである。
「段落九までの確認事項」として、ここに至るまでの内容の整理をすると、次のようになる。
*「複数オニ」「陣オニ」「高オニ」という身体ゲームは「人生ゲーム」と同じコスモロジー(世界観)をもっている。換言すると、この同じコスモロジ―とは管理社会の世界観のことである。それぞれの特徴は、「複数オニ」は裏切りの演習経験、「陣オニ」は自分だけ助かればよい演習経験、「高オニ」は人より高い位置に立つ演習経験である。すなわち、「管理社会のコスモロジ―」とは他者をけおとしてでも競争社会の高みに立つという世界観である。
段落十
もとより玩具産業が次から次へと繰り出して見せる新しいゲームの魅力に子どもたちは抗し難い。ひとり遊びに子どもを引き入れるゲーム・ウオッチ、列強に分かれて太平洋戦争を再演してみせるシミュレーション・ゲームに子どもたちの関心が移れば、「人生ゲーム」は「クラシック」なゲーム、「ダサイ」遊びになってしまう。だが、たび重なるモデル・チェンジにもかかわらず、幻想的に上演されるゲームは、限定された同じコスモロジーを浮かび上がらせる。子どもたちに目先の関心を変えさせ、次から次へと飽きさせることもまたこの商業主義のコスモロジーの特徴である。子どもたちは飽きることの中毒症にかかったようなものだ。しかし、とことんまで飽きたとき、ふと、飽きることに飽きてしまう一瞬が子どもたちを訪れる。密室で、とにかく他人を打ち負かすありとあらゆるゲームに熱中していた子どもたちが、思い出したように外へ出てくることがある。そのときボールがあれば、三角ベースやサッカーが始まることもあるだろう。何もなくからだだけあるとき、「陣オニ」や「高オニ」が思い出されるだろう。だが、飽きることの煉獄から戻ってくるとき、子どもたちは管理社会のコスモロジーそれ自体に飽きているのだ。「陣オニ」や「高オニ」に同構造のコスモロジーを感じ取れば、子どもたちのからだは急速に熱中度を失う。
段落十には読解を頓挫させる言葉が二つある。前文との相関性が曖昧な接続詞「だが」と「限定された同じ」である。ついでに指摘すれば、二つとも一つの文のなかで使用されている。
そこで最初に、「限定された同じ」について考察する。先に述べたように、言語の基本は意味である。したがって、この言葉の意味が解明されなければ、文全体の意味も解明されない。文全体の意味が解明されなければ、接続詞「だが」の使用が適切であるかどうかも解明されないからである。
さて、唐突に「限定された」なんて言われたって、読み手にはどのように限られていて、どのように定められているのか分かるわけがない。このことはどんな場面でもいいから想像してみたら分かる。たとえば、あなたがバスに乗ろうとしたとき、唐突に「限定されています」と言われたらどうだろうか。あるいは、あなたが映画館に入ろうとしたとき、唐突に「限定されています」と言われたらどうだろうか。意味が分からないと面食らうであろう。「乗車あるいは観劇は会員に限定されています」というように限定事と限定範囲の明言が必要なのである。執筆作法も同じである。
しかし、書き手はこの執筆作法を実践していない。そこで、読み手は、限定事と限定範囲を捜索するためにさかのぼって読み直さなければならない。読解の二重手間、読み手にとっては迷惑なはなしである。では来た道をもどるとしよう。
限定事と限定範囲に関する記述は同段落内にはない。そこで探索を前段落の「段落九」にまで伸ばす。するとコスモロジーという言葉が二つ含まれている長い一文「それは、私生活主義と競争民主主義に主導された市民社会の模型としてのコスモロジーであり、また、産業社会型の管理社会の透視図法を骨格にもつコスモロジーでもある」にゆきあたる。この長い一文によって、コスモロジーの内容つまり「限定されたコスモロジー」の限定範囲は解明されたことになる。しかし、限定事が「何」なのかはまだ不明である。
こういう悪文に出会ったのが運のつきである。探索作業はなかなか終わらない。限定事を捜してさらにさかのぼると、さきほどの長い一文の前に「これらすべての身体ゲームが共通のコスモロジーをもっている」という文にゆきあたる。この文から、おそらく限定事は「これらすべての身体ゲーム」であろうとは推量することができる。そして、さらに一つ前に「これら身体ゲームの行き着く先が『人生ゲーム』と言えるのではないか」という文があるので、究極的な限定事は「人生ゲーム」であろうということで決着がつく。次に、「限定された」という言葉に「人生ゲーム(斜体)」という言葉を置きかえて、読みやすいように並べる。
前文...ひとり遊びに子どもを引き入れるゲーム・ウオッチ、列強に分かれて太平洋戦争を再演してみせるシミュレーション・ゲームに子どもたちの関心が移れば、「人生ゲーム」は「クラッシク」なゲーム、「ダサイ」遊びになってしまう。
接続詞...だが
後文...たび重なるモデル・チェンジにもかかわらず、幻想的に上演されるゲームは、人生ゲームと同じコスモロジーを浮かび上がらせる。
「限定された」という曖昧表現によって、前文と後文との相関性が明確でなかったのが、「人生ゲーム」と特定されることによって、文の意味がある程度は明らかになった。そこで、接続詞「だが」使用が適切であることが判明したのである。しかし、検証作業はまだ終わってはいない。文を更に明確にしなければならない。そこで、次のように、助詞「は」を、「〜だって」という意味の助詞「とて」に替える。これで、前文と後文との関係が明確になるはずである。
後文・・・・・・だが、たび重なるモデルチェンジにもかかわらず、幻想的に上演されるゲームとて、人生ゲームと同じコスモロジーを浮かび上がらせる。
段落十一
子どもたちのからだの慣性が、意図しないで管理社会のコスモロジーを引き寄せてしまう。累々たる管理社会のコスモロジーの山だ。だが、その間隙をぬうようにして、同じからだの慣性がもう一つのコスモロジーに出会う場合がある。もう一つのコスモロジーが憑きやすい遊びは、からだの集まりが相互性を帯びるときに思い出される。かんけりはそのような身体ゲームの一つである。
たとえ段落が変わっても、前段落の末尾文の意味は、その後にくる段落の初文と相関的につながっていなければならない。ところが段落十一の初文はこの鉄則に則っていない。段落十末尾において書き手は「子どもたちは管理社会のコスモロジーそれ自体に飽きているのだ。...子どもたちのからだは急速に熱中度を失う」と書いているにもかかわらず、そのすぐ後の段落十一に入ったところで「子どもたちのからだの慣性が、意図しないで管理社会のコスモロジーを引き寄せてしまう」と書いている。つまり、「子どもたちはAに飽きている」と言ったその後すぐに「子どもたちはAを引き寄せる」と言っているのである。飽きているのなら引き寄せるわけがない。〈飽きる〉ということは磁石の世界でいうところの〈しりぞける〉であり、〈引き寄せる〉ということは〈引き合う〉である。〈しりぞけあい〉と〈引き合い〉が同時発生することはありえず、飽きているのなら引き寄せるわけがないのである。
言語だから曖昧でいい、言語の世界では〈しりぞけあい〉と〈引き合い〉は同時発生するなどという執筆作法を許していたら、日本の科学は発展しえない。何故なら、「すべての原理原則の説明を実行するのは言語であるからして、言語の世界こそ何よりも先立って論理的つまり数理的原理原則に則って存在しなければならないからである(拙著『日本語を教えない国日本』P83)」
ではどうしたらよいのか? こういう場合は二つの文のあいだに逆接の接続詞が必要なのである。段落を変えたから必要ないと書き手が考えたかもしれないが、読解作業というのは入力順による脳への意味伝達である。つまり、すでに先入力の意味に占拠されている言語脳に先入力とは逆の意味を受け入れてもらうためには、「でもねえ」という逆説接続詞によることわりが必要なのである。書き手がこのことわりを怠ると、読み手の言語脳の伝達回線はショートし、その場で読解作業は頓挫する。だからこそ、文章というものは論文にかぎらず首尾一貫性が求められるのである。
そこで、私なりに逆説接続詞「しかし」を挿入し、次のように添削してみた。
段落十の末尾文
「陣オニ」や「高オニ」に同構造のコスモロジーを感じ取れば、子どもたちのからだは急速に熱中度を失う。
段十一の初文の添削…… しかし、子どもたちの環境は累々たる管理社会のコスモロジーの山だ。子どもたちのからだの慣性が、意図しないで管理社会のコスモロジーを引き寄せてしまう。
書き手は唐突に「累々たる管理社会のコスモロジーの山だ」と書いているが、その山はいったい何処にあるのか、示されなければ読み手には判りようがない。そこで、子どもたちの環境という主語を挿入しておいた。
次の問題は、「もう一つ」という言葉である。「もう一つ」という言葉の意味は、@「その上に一つ加えること・さらに一つ追加すること」とA「もう少し・もうちょっと・いま少し」である。書き手が意図している意味は@のほうであろうから、「もう一つのコスモロジー」とは「管理社会のコスモロジーにさらに一つ追加したコスモロジー」ということになる。つまり、「お菓子をもう一つどうぞ」と同じように、同じものの追加という意味なのである。したがって、その追加された「もう一つのコスモロジー」とは管理社会のコスモロジーと同類ということになる。
そこで検証するべきは、書き手が意図したい「もう一つのコスモロジー」の意味である。書き手は「もう一つのコスモロジーが憑きやすい遊びは、からだの集まりが相互性を帯びるときに思い出される」と述べているので、「からだの集まりが相互性を帯びる」とはどういう意味なのか考えなければならないが、こういう曖昧表現から書き手の意図する意味を明確に理解することは無理だが、明確な意味が判明されないかぎり私の検証作業は前に進まないので、「読解における脳への意味伝達は入力順」という原則にしたがって、逆思考法をとり、「からだの集まりが相互性を帯びない」コスモロジーとは何なのかを推量してみる。相互性を帯びないコスモロジーが判明すれば、帯びるコスモロジーも判明するというものである。 そこで、「段落九までの確認事項」にさかのぼり、「相互性を帯びない」コスモロジーの意味を解明していくことにする。
この確認事項によると、他者をけおとしてでも競争社会の高みに立つという世界観が「管理社会のコスモロジー」とある。この自分だけ助かればいいという世界観は「からだの集まりが相互性を帯びない」と考えるのが妥当である。したがって、この逆の「からだの集まりが相互性を帯びる世界観」とは、他者をけおとさない他者とともに助かる世界観だと考えるのが妥当である。
すなわち、書き手が「もう一つのコスモロジー」と表現するコスモロジーとは、「管理社会のコスモロジー」とはまったく逆の相互扶助的コスモロジーだということになる。逆意味の追加事や物を「もう一つ」という言葉で表現することができるだろうか? できるわけがない。
たとえば、コーヒーを飲んでいる客に、あなたは二杯目の飲み物として紅茶をすすめたい。そのとき、あなたはけして「もう一つ(一杯)いかがですか」とは言わないはずである。もし言ったとしたら、客は当然にコーヒーが出て来ることを予想しているわけであるから、コーヒーを飲みたい客の返答はイエスである。ところが、イエスと答えた客に出された飲み物は、客が飲みたくなかった紅茶である。逆に、コーヒーは飲みたくないが紅茶が飲みたいときはどうだろうか。客の返答は、イエスと言ったらコーヒーが出てくると思っているから、ノーである。イエスと答えていれば、飲みたい紅茶が飲めたのに。どちらにしても、会話はなりたたない。
では、どういう言葉で表現すればよかったのか? 私なら「別」という言葉を使用する。「からだの集まりが相互性を帯びるコスモロジー」は、管理社会のコスモロジーとは別物だからである。まさに相互扶助的コスモロジーは「別のコスモロジー」なのである。
段落十二
かんけりはね、かんを思いっきりけっとばすときが気持ちいいんだよ、と小六の男の子はいう。輪の中心に置かれたあきかんに吸い寄せられるようにして、物陰から物陰へと忍び寄っていく。背を見せたオニとの距離を見切ったとき、もうからだは物陰からとび出している。オニがモウゼンと迫ってくる。オニのからだとほとんどコウサクするようにしながら、一瞬早くあきかんの横腹を蹴る。あきかんが空中をゆっくり弧を描いてくるりくるりと舞うとき、時よとまれ、とでも叫んでしまいそうな快感が押し寄せ、同時に「私」という名の何ものかが音もなく抜け出していき、とても身軽になったからだだけが残される。もっとも、いつもそんなにうまく蹴れるわけではない。しばしばかんはさわがしい音をたてながら舗道を転がっていったり、二、三メートル先の芝生にぽとんと落ちてとまったりする。それでもかんを蹴った喜びには変わりない。
段落十三
かんを蹴るとき、人は市民社会の「真の御柱」を蹴る身振りを上演している。輪が市民社会を示すとすれば、かんは秩序の中心であり、管理塔でもある。子どもたちはかんを蹴ることによって、家、学校、塾、地域、社会一般、そして自己内面の管理社会のコスモロジーに蹴りを入れているのだ。
かんを蹴るのはあくまでも「子どもたち」である。もちろん、「子どもたち」だって「人」の範疇に入る。とはいえ、「人」が示す対象は大人まで含んでしまう。「段落一」からこの段落にいたるまでどこにも、子どもを意味する「人」という言葉は使われていない。したがって、ここ段落十三にいたるまでの論旨の対象はあくまでも「子どもたち」である。
段落十四
小六の少年はまたいう。かんけりは隠れているとき、とっても幸福なんだよ。なんだか温かい気持ちがする。いつまでも隠れていて、もう絶対に出て来たくなくなるんだ。管理塔からの監視の死角に隠れているとき、一人であっても、あるいは二、三人がいっしょであっても、羊水に包まれたような安堵感が生まれる。いうまでもなくこの「籠り」は、管理社会化した市民社会からのアジール(避難所)創建の身ぶりなのだ。市民社会からの離脱と内閉において、かいこがまゆをつくるように、もう一つのコスモスが姿を現してくる。それは、胎内空間にも似て、根源的な相互的共同性に充ちたコスモスである。おとなも子どもも、そこで、見失った自分の内なる〈子ども〉、〈無垢なる子ども〉に再会するのである。
段落十四には間違いが三つある。その一つの「もう一つ」に関しては論証済みどおり、「別のコスモス」と書くべきである。
二つめの間違いは「出て来たくなくなるんだ」の「来る」である。「来る」という言葉は時間的/空間的に離れたところにいる人や物が、自分の方に向かって近づいてくることを意味する。発語者は動かずに、他者が近づいてくるという状況である。このことを念頭に少年の言葉「いつまででも隠れていて、もう絶対に出て来たくなくなるんだ」を考える。少年が「いつまでも隠れていたい」と言う発語の基点は隠れている「ものかげ」である。したがって、仮に少年がオニに見つかって、この発語の基点から出るとしたら、その行動を表現する言葉は当然に「出て来る」のではなくて、「出て行く」である。「出て来る(来い)」と発語表現できるのは、外にいるオニのほうである。
三つめの間違いは「おとなも子どもも、そこで、見失った自分の内なる〈子ども〉、〈無垢なる子ども〉に再会する」という意味論の原則から外れた文である。おとなが主語なら、過去をふりかえり、「見失った自分の内なる〈子ども〉、〈無垢なる子ども〉に再会する」という表現はできても、子どもを主語にして同じ表現はできない。
僭越ながら、書き手がこの支離滅裂な文を書いてしまった背景を想像してみた。おそらく、「胎内空間」という情動的な言葉の仕業であろう。書き手は、「籠り」という別のコスモスを説明するために「それは、胎内空間にも似て、根源的な相互共同性に充ちたコスモスである」と表現した。書き手の意図はそこまでの記述で十分に読み手に伝達されているから、ここで「段落十四」を終わればよかったのである。ところが、書き手は自分が書いた「胎内空間」という情動的な言葉に陶酔し、「胎内空間」への郷愁につきうごかされてしまい、「そこ(胎内空間)で見失った自分の内なる子どもに再会する」などという情動的一文を思いついたのであろう。 思いついたのはいいが、「子ども」を主語とすると、文の意味が通らないということに、書き手は気がついた。そこで主語を「おとな」とした。「おとな」なら文の意味は通る。しかし、論文全体の論旨からは外れてしまう。そこで、書き手は、主語を「おとなと子ども」にして決着をつけた。これで、文の意味も通るし、論旨からも外れないと安易に考えた。書き手は一石二鳥をねらったわけだが、残念ながら、投げた石(おとなという文字)は二羽の水鳥をつかまえるどころではなく、池に大きな波紋を広げただけであった。つまり、情動的に追加された支離滅裂文は「段落十四」の首尾一貫性をも壊したのである。ちなみに、このような情動的発想は書き手がよくおちいりやすい陥穽である。
段落十五
小六の男の子は最後にもう一つつけ加えていう。かんけりは「陣オニ」と違ってほかの人を救おうとするの。自分も救われたいけれど、つかまった仲間を助けなくちゃって、夢中になるのが楽しい。だけどオニは大変だな。オニは気の毒だから何回かかんを蹴られたら交替するんだ。実際、かんけりでは、隠れた者は誰もオニに見つかって市民社会に復帰したいとは考えない。運悪く捕われても、勇者が忽然と現れて自分を救出してくれることを願っている。隠れた者が囚われた友を奪い返して帰って来ようとするのは、つねにアジールの方、市民社会の制外的領域である。オニが「気の毒」であるのは、オニが最初から市民社会の住人であるかぎり、隠れた者を何人見つけても、そのことで自分が市民社会に復帰するドラマを経験しようがないからである。隠れる者は市民社会では囚われ人以外ではなく、したがって、オニは管理者であることをやめることはできない。
「段落1」において確認したように、かんけりは「複数オニ」や「陣オニ」と同じ、「変形した隠れん坊」の仲間である。そして、「複数オニ」や「陣オニ」は他者をけおとしてでも競争社会の高みに立つ体現ゲームだということも、確認済みである。したがって、かんけりも、「複数オニ」や「陣オニ」と同様に、「他者をけおとしながら成功の頂点にたつ管理社会のコスモロジー」の体現ゲームのはずである。しかし、どういうわけか、ここ最終段落において、「かんけりは『陣オニ』とは違ってほかの人を救おうとするの」と、書き手は前言をくつがえす。
たしかに、かんけりはほかの人を救い、「陣オニ」は救わないということに関して、両者は違っている。しかし、読解とは先にも述べたように「入力順による脳への意味伝達」である。言語脳はこの原則にしたがいながら読み進めているのである。この状態の言語脳に先入力されている情報事項は「かんけりは『複数オニ』や『陣オニ』と同じ」である。この既存の情報事項に支配されている言語脳に、まったく逆の意味である「かんけりは『陣オニ』とは違う」という文句がすんなりと受け入れられるだろうか? 飛び読みする言語脳はいざしらず、真摯に一字一句と読みすすめている言語脳なら、先入力に反する後入力の情報事項を拒絶してしまうのが道理である。
さて、書き手の言葉を信じれば、かんけりはほかの人を救うわけであるから、自分だけ助かればそれでよいという「陣オニ」とは確かに違っている。事実、書き手は段落十一から最終段落十五にいたるまで、かんけりのことをほかの人を助ける、つまり「からだの集まりが相互性を帯びる」ゲームだと子細に説明している。いったい、かんけりは相互性を帯びるのか、帯びないのか、読み手は迷うところだが、間違っていたのは導入部の段落一だと仮定すれば道理はあう。
では、段落一のどの文が間違っていたのか? 「その変り種のなかでも、かんけりは子どもたちに好まれている」という末文である。からだの集まりが相互性を帯びる「かんけり」を、相互性を帯びない「複数オニ」や「陣オニ」と同じ「変り種」のなかまに入れたことが間違っていたのである。
そもそも論旨の道筋を示す導入部が間違っているなんていう論文は存在しえない。したがって、この出題文は論文もどきであって論文でないということが判明したのである。もともと出題文としての資格さえない論文もどきが、文部科学省とその天下り集団である独立行政法人・大学試験センターの権威・権力によって論文のように装わされていた。というよりも、彼らに言語的能力がないゆえに、「論文もどき」であるということにさえ気づかなかったということが事実なのかもしれない。
ということで、「段落一」末文の添削は、説明文を加えて次のようにしておく。
「段落一」末文の添削
オニと隠れる者とに分かれて遊ぶという形式は同じであるが、普通の隠れん坊とも変形した隠れん坊とも本質的に違うのがかんけりである。かんけりは子どもたちに好かれている。
上記のような一文で、かんけりの存在位置が前もって明記されていれば、「かんけりは陣オニとは違う」という文句に読解を頓挫させられることはない。
さて、最後に二つの下線文をそれぞれ添削して検証作業を終わることにする。説明しやすいように、それぞれの文にA、Bと符号を付す。まずA文の検証である。二つの下線部分に着目して読んでみよう。
A・・・...オニが「気の毒」であるのは、オニが最初から市民社会の住人であるかぎり、隠れた者を何人見つけても、そのことで自分が市民社会に復帰するドラマを経験しようがないからである。
最大限の好意をもって読めば、書き手の言いたいことは解らないでもない。しかし、「言語とは、使用者である人間の認知と心理の影響を非常に受けた、認知・心理事象である(拙著・日本語を教えない国日本P83)」。したがって、読み手の認知・心理が受容できる文は、「市民社会からいったん出た、あるいは追放された者が市民社会に復帰する」ということがらのみである。そもそも一度も外に出たことのない者に対して「復帰」という言葉が正常に機能するわけがない。すなわち、A文は、「某は某である」という文同様に、分かりきったことを長々と述べているだけの存在価値の無い無用文なのである。そこで添削は次のようになる。
A文の添削・・・オニが「気の毒」であるのは、隠れた者を何人見つけても、「普通の隠れん坊」とは違い、そのことで自分が市民社会に復帰するドラマを経験しようがないからである。
「段落四」によれば、オニが隠れた者を見つけることによって自分も市民社会に復帰できる体現ゲームは「普通の隠れん坊」である。市民社会に復帰できないかんけりのオニの特徴を、特別にうきあがらせたいのであれば、「普通の隠れん坊」のオニのそれと対比させるというひと手間つまり説明句が必要なのである。
B文もまた説明不足が原因で意味不明となっている。
B・・・・・・...隠れる者は市民社会では囚われ人以外ではなく、したがって、オニは管理者であることをやめることはできない。
前節の内容と後節のそれとのあいだには明確な相関性がないのに、原因と結果を示す「したがって」という接続詞でつなげているが、「隠れる者は市民社会では囚われ人である」ことが「オニは管理者をやめることはできない」ということの原因となりえているのか? もちろん、書き手の頭のなかではなりえているに違いない。だからこそ書いているのであろう。
しかし、先にも述べたように、言語とは人間の認知・心理事象である。書き手も人間だが、読み手も人間である。どちらの認知・心理が優先されるべきか? もちろん、不特定多数である読み手の認知・心理のほうが優先されなければならない。そうでなければ、書き手は、読み手が理解しようとしまいと、思いついたままに書いてよい、つまり伝達という言語の第一義的役目は果たされなくてもいいということになる。
手紙等ならいざしらず、不特定多数の読み手を対象とした文章においては、読み手の認知・心理事象が書き手のそれと常に共有できるとは限らない。自分の仮説を読み手に理解させる論文の場合、その共有率は特に小さくなる。だからこそ、書き手は誰にでも伝達可能な文を書かねばならないのである。ということで、次のように、いくつかの言葉(下線)を挿入して添削しておく。
B文の添削・・・・・・隠れる者は市民社会では囚われ人以外ではなく、したがって、市民社会の住人であるオニは囚われ人の管理者つまりオニであることをやめることはできない。
私がセンター試験国語第一問の出題文を検証しはじめたのが二〇〇三年からであるから、今回の検証が七回めである。私にはそれ以前の出題文を検証するほどのエネルギーはないから放ってはあるが、それ以前は間違いのない正当文だったなどということは到底ありえない。私がセンター試験の国語出題文を検証しはじめ、文部科学省等に意見書を送付しても依然として、寝言のような書き手中心恣意文が出題文として採択されてきたという事実から、私たちは何を知るべきか?
日本社会においては、特別に権威権力の後ろ盾を得ることができれば、どんな悪文でも高尚な難解文として通用するということである。換言すれば、公平に機能しなければならない言語が「権威権力の論理」で不公平に機能させられているということである。
伝達、会話、思考をつかさどる言語はすべての大本である。「すべて」とは文字通りすべてである。このことは、人類が言語を持ちえていなかったら文明の発展はありえなかったであろうということを想像したら、理解できるはずである。
言語が公平に機能していないことからくる社会の歪は、多くを語らなくても、日本社会の現状を見れば一目瞭然である。最近の現状を見てみると...
...たとえば、自民党支部長なのに完全無所属と称し千葉県知事になってもマスコミから叩かれない不思議な現象が日本社会にはある。
...たとえば、同じ企業献金問題でも、自民党議員たちの疑惑は追及されず、野党民主党代表の秘書は逮捕されたという不思議な現象が日本社会にはある。
これは日本語で書かれた法律等の条文が公平に機能されていない証拠である。言語解釈に権威権力者の恣意が作用していることの証拠である。
しかし残念ながら、このことを多くの日本国民は十分には認識していない。上からおろされた言語を無思考的に信じてしまう傾向が強いからである。
日本国民のこの無思考はどこからきているのか? 寝言のような書き手中心恣意文を高尚な難解文として読まされていることから見ても、教育以外に原因はない。入試制度のもと、記憶作業ばかりをさせられて、自ら思考する教育を受けていないからである。
さて、言語が公平に機能していない日本社会であるが、このことを日本語の使用者である国民はいつまで許容するのか?