2006年センター試験・国語第一問出題文の検証

はじめに

・・・・・・〈時の経過〉表現の検証・・・・・・

今回(2019年5月)、2006年に書いた検証文を、新HPにあらためて載せるために、過去のデーターを見直したところ、「一貫性原則から外れた〈時の経過〉表現」というタイトルのプリントアウトされた検証文のみで、出題文の原文(朝日新聞)もそのコピーもそして保存済みメモリーもありませんでした。13年前のことで、私自身にも明確な記憶はありません。おそらく、データー紛失は何世代かコンピューターを買い替えていることから発生しているのでしょうが、本質的には私の不注意です。 思い返せば、初代コンピューターのメモリー装置はフロッピーディスクでした。それらフロッピーディスクもコンピューター本体が変われば使えません。おそらく始末したのでしょう、どこにもみあたりません。ですから、2006年の出題文の記載は、〈時の経過〉表現に関連した「1~3」段落のみで、全文は載せられません。モデルチェンジの速さは、まさに「光陰矢のごとく」です。アナログの時代に生きてきた私は、もう少しゆっくりでいいのではと思います。アナログのほうが便利なことが多いし、なにせ人間味があります。ここで言う人間味とは、機械よりも人間が優先されていたということです。決定や行動そして思考において人間の脳にまかされる部分が多かったということです。おかげで、私は思考することを学びました。思考することは楽しいことです。


 もちろん「演劇」もしくは「お芝居」といわれるものが、非演劇的なるもの、つまり「実生活」と言われているものから、確固たる距離をヘダてて一つの緊張状態を保ち得ていた時代においては、そんなことはなかった。「演劇」は「実生活」と呼ばれる安定して不動なる大地からの飛翔力のみが試されたのであり、舞台における役者のトチリは、その失速を物語るものに他ならなかったからである。

 時の経過を示す言葉は「~いた時代(下線」「)である。
 この時代がどういう時代なのか、そして時の経過表現として適切なのか検証する前に、「もちろん」と「そんなこと」という二つの書き手本位前提表現を解明しなければならない。
 「もちろん」という言葉の意味は「言うまでもなく、おまえはすでに知っている」である。したがって、段落一を読み終えたばかりで、読み手の頭の中にはまだ確固としたものがあるわけではないのに、書き手から「おまえはすでに知っている」と言われたということである。
 そして、もう一つの書き手本位前提表現は「そんなこと」である。「そんなこと」とは「そのようなこと」であり、空間的、心理的に聞き手(文章の場合は読み手)の近くにある事柄を指す言葉である。書き手が自身の理論を一方的に展開する論文形式文においての書き手が主張する事柄は、どんな内容であれ、読み手側にはない。したがって中称指示詞を使用すること自体が間違っているのである。
 3段落前に、「二つの書き手本位前提表現」を解明うんぬんと書いた私だが、書き手の頭の中を透視する超能力を持っていないことに気づかされた。気づかされたことは、一つの文に「書き手本位前提表現」が二つもある文面からは「~いた時代」を特定することは無理だということである。こういう文を、私は寝言文と呼ぶ。寝言だから、「かつて」と「~いた時代」との前後関係が曖昧だというのにも頷ける。
 現在(過去)完了形という表現方法がない日本語には過去、現在、未来という形しかないが、時の経過の前後関係を表現する方法がないわけではない。この表現方法を説明するための例文を次に二つ書く。

 例文1
  Ⓐ かつて、Aさんが40歳代のころは就職難だった。
   Ⓑ Aさんが20歳代だった時代においては、そんなことはなかった。


 例文2
  Ⓒ かつて、日本社会は男尊女卑であった。
   Ⓓ 女性が主要な働き手であった時代においては、そんなことはなかった。


 現在/過去完了形のない日本語圏においては、〈かつて〉と〈~いた時代〉という言葉が示す時代的範疇は同じ一つの過去である。一つの過去を時代的にいくつかに区分けしたいのなら、書き手による何らかの明記が必要である。明記されているのが「例文1」である。ⒶとⒷとの時代的前後関係はAさんの年齢変化で判るからである。
 反対に、「例文2」の時代的前後関係は明確ではない。「男尊女卑の時代」と「女性が主要な働き手であった時代」とのあいだには、読み手の認知・心理事象と合致する集合的な関わりがいっさい無いからである。このような関わりを数理的に表すと空(ファイ)集合である。空集合の関係にある二文の時代的関係を特定するためには、二文のあいだに、「それ以後」「それ以前」というような接続句を挿入するしかない。


 とはいえ、これら接続句のどちらかを挿入するにしても、「(かつて)段落1」と「(~いた時代)段落2」との時代的前後関係がはっきりしないかぎり、無理である。そこで、各段落の内容を明確にさせるために、要点をピックアップして次のように列記する。

 〈かつて〉、演劇は非演劇なるものと交叉した。
   ↓
 時の経過表現・・・〈それ以後〉or〈それ以前〉
   ↓
 演劇が非演劇なるものから隔たって〈いた時代〉においては、そんなことはなかった。


 さて、上記における接続句は〈それ以後〉それとも〈それ以前〉のどちらだろうか? 読み手に判るわけがない。何故なら、「演劇は非演劇なるものと交叉する」と「演劇が非演劇なるものと隔たる」との集合的関係は「例文2」と同じように空集合だからである。どちらかを決めるのはもちろろ~ろん書き手である。概念的な事柄を論証するのであればあるほど、認知・心理事象に合致した適切な言葉使用をもって明確に書く義務が書き手にはあるのである。

段落3

 しかしその後、「実生活」であるところの「実」と呼ばれるものの根拠が疑われ始めた時、事情は大きく変わったのである。「演劇」の飛翔力を確かめるための前提であった「実生活」が、その安定性を失ったとすれば、当然「演劇」も「実生活」も、それぞれに主であり従であることをやめて、これはあれでなく、あれはこれでないという、単なる関係に過ぎなくなる。「演劇」と「実生活」との間にカイザイした健康な緊張状態は失われ、それぞれが顔つき合わせてそれぞれを疑い始めたのだといえよう。

 この「段落3」における時の経過を示す言葉は「その後(下線)」である。
 〈かつての時代〉と〈いた時代〉との時代的前後関係が未解決のままの状態で、読み手は再び「その後」と読まされる。では、「その後」とは、いったい、どういうことがあった後なのかと読み進めれば、後に続く「実生活であるところの実と呼ばれるものの根拠が疑われ始めた時」の後ということが判る。つまり二重表現である。したがって、この時の経過表現は無用ということが判明する。
 ところで、無用である理由は、すでに述べた二重表現の他にもう一つある。
 この「もう一つ」を解ってもらうために、段落変更の役目を述べておく。段落の変更は書き手の判断にまかせられているとはいえ、読み手としては、この変更を文脈(文と文との続きぐあい)の変更として受け取るのが一般的である。論文形式文なら尚更である。
 読み手が「段落3」に入ってすぐ出会う文句は、「しかしその後」である。「しかし」は、前に述べたことに相反することを述べるときに用いる接続詞である。感動をこめて話題をもちだすときに使うこともなくはないが、論文形式文においては、この意味での使用は控えたい。したがって、「しかしその後」という文句が読み手に与える認知・心理事象は、「〈段落2〉における時代はAだったけれど、Aに反して、Aだった時代の次の時代は・・・・・・」であり、「段落3」の内容によれば、この「・・・・・・」の箇所は「事情は大きく変わった」である。ところが、読み進めても、「事情」そのものについては何ら述べられておらず、変わった理由が述べられているだけである。

 書き手が言う「事情」とは何なのか読み手には判りようがなく、よって、ここからは推量作業である。
 おそらく、「事情」とは「段落2」で言う「トチリは失速だった」という事柄であろう。この推量が正しいと仮定すると、「事情は変わった」ということは、「トチリは失速でなくなった」ということになり、「段落1」で言うところの「トチリは雄弁」と同じ意味合いということになる。すなわち、次の等式が成り立つ。
  
   「事情は変わった」=「トチリは失速でなくなった」=「トチリは雄弁になった」

 したがって、「事情は大きく変わった」箇所に「トチリは雄弁になった」を置き換えると、次のようになる。
 しかしその後、「実生活」であるところの「実」と呼ばれるものの根拠が疑われ始めた時、トチリは雄弁になったのである。

 要するに、「トチリが雄弁」だった時代は「段落1」で述べられていた「かつて」である。ここで、ようやく、「その後」の時代は「かつて」の時代と同じであることがはっきりしたのである。これが、「その後」という言葉が無用、というよりもむしろ邪魔だった二つめの理由である。

 結論
 「段落1」において、読み手が刷込まされた情報は、「トチリが雄弁だった〈かつて〉という時代があった」である。すなわち、読み手の最大の関心は、読み進むにつれて、この刷込みがどうやって展開されていくかにある。一貫性の原則にしたがって展開されるだろうという期待がある。
 ところが、この期待は、「段落2」を読み始めたとたん、「もちろん~(いた時代)は(そんなこと)はなかった」と書き手本位前提表現で逸らされる。まるで読み手が論点のすべてを知っているかのように、まるで読み手のすぐそばに論点が存在しているかのように、(そんなこと)だよと言われたまま放置される。(いた時代)と(かつて)の時間的前後関係に関しても、読み手が書き手から受ける言葉は「あなたは知っているでしょう」である。〈かつて〉は過去なのか、過去の過去なのか、それとも現在よりの過去なのか、どこともしれない時間的空間に投げ込まれた読み手は、「段落1」で刷り込まれた刷込みさえにも疑念を抱くほどに困惑する。「トチリは雄弁だった〈かつて〉」という時代はいったい過去のどのあたりに位置しているのかと、この疑念は「段落1」の再読を強制する。
「段落1」を再読し、これに続いて「段落2」を再読するが、読み手の困惑は増すばかりである。判らないのは自分の無能のせいと、困惑を抱えたまま「段落3」に入った読み手をすぐさま思考頓挫させるのが、〈その後〉という時の経過表現である。
 どんな言語であろうと、言語使用者の思考は、言葉そのものがもつ認知・心理事象に強く影響を受けているということを忘れてはならない。この認知・心理事象に従えば、「かつて」と「その後」が指し示す時点は、某時点を基準にして互いに離れていて、某時点から見て同方向にはないのであり、まして同時代を指し示しえないのである。したがって、間違っても、読み手は「その後」が「かつて」と同時代だと思うわけがない。
 しかし、ありえないことに、出題文は「かつて」と「その後」とを、同時代を指し示す言葉として使用していたのである。こんな文章を読まされた脳のなかは疑問符だらけとなり、読解どころではなくなる。読解頓挫した頭のなかでは、答えのない三つの疑問が現れては消え、消えたと思ったらまた現れてくるのである。
  ・・・〈かつて〉とはいつのこと?
  ・・・〈いた時代〉とはいつのこと?
  ・・・〈その後〉とはいつのこと?

 添削の一例・・・添削箇所には下線を付しておく
  段落1
  
演劇が演劇として雄弁であるのは、役者が舞台上で思わずトチル瞬間であると、度々言われた時代があった。これは、あながちばかばかしい意見とは思えない。トチッた一瞬、演劇は非演劇的なるものと交叉し、演劇という装置そのものが対象化されるからである。
  段落2
  それ以前、「演劇」もしくは「お芝居」といわれるものが、非演劇的なるもの、つまり「実生活」といわれているものから、確固たる距離をヘダてて一つの緊張状態を保ち得ていた時代においては、トチリは雄弁だなんて言われはしなかった。「演劇」は・・・中略・・・他ならなかったからである。
  段落3
  しかし、「実生活」であるところの「実」と呼ばれるものの根拠が疑われ始めた時、事情は大きく変わり、トチリが雄弁になったのである。

  さいごに
  寝言文が正当文としてまかり通っているのは、学校教育において正当な筆記法が教育されていないからである。読解力を生産するのは筆記力であり、筆記力は思考力との相乗作用であり、筆記して初めて思考が形あるものになる。寝言文を読まされても言語脳は正当な刺激を受けない。したがって思考力は養われない。

段落2

時の経過を示す言葉は「かつて(下線)」である。

初めてこの出題文を読み始めた読み手が最初に頭に描く時代、つまり「演劇が演劇として雄弁なのはトチル瞬間であった時代(以後、トチリが雄弁であった時代と呼ぶ」は、かつてという言葉に導かれ、「今よりも以前」である。すなわち、時代的範囲は読み手の位置つまり今よりも以前ならいつでもよく、一ケ月前でもかつてであり、演劇と呼ばれる表現芸術が初めて出現した時代もかつてである。したがって、読解に入った読み手を最初にとらえる観念は、「トチリが雄弁であった時代が昔あった」である。この「刷込み」を念頭に次の段落にすすむ。

段落1
 演劇が演劇として雄弁であるのは、役者が舞台上で思わずトチル瞬間であると、かつて度々いわれてきた。これは、あながちばかばかしい意見とは思えない。その時、一瞬、演劇は非演劇なるものと交叉し、演劇という装置そのものが対象化されるからである。

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2、書き手が、論証の過程で時の経過を巻き込みながら論文形式文を書くとき、こころしなければならないことは、読み手の時代的位置を考慮にいれて、時の経過を明確に示す必要があるということである。この基本的ルールから外れているのが、段落1から段落3までの時の経過表現である。

3、読解作業にも「刷込み」という現象がおきる。「刷込み」とは、鳥類等において最も顕著に認められる、孵化後まもない雛が初めて見た動くものを親と認識する学習の一形態である。読み手が文章を読み始めたとき初めてもつ認知・心理事象が以後の読解作業においても強く影響を与えてしまうという現象である。

1、出題文は、たとえ完成作品から切り取られた一部分であろうと、試験問題として提示される以上、この出題文と初めて出会う受験生は、これを完成作品の一部分としてではなく、一つの完成された論文であることを大前提として読むのである。したがって、私がこれから行う検証結果に対して、「出題文は全体ではないゆえに意味論の原則から外れてもよい」という弁明はあたらない。

検証作業に入るまえに、検証の前提となる三つの基本的原則を確認しておく。