2010年センター試験国語出題文の検証


 国語第1問の出題文(岩井克人「資本主義と〈人間〉」による)をざっと読んだ。読み手を迷路へと引きずりこむような重大な間違いはなかったとはいえ、些細な間違いがいくつか見られた。些細な間違いは検証する必要なしとする考え方もあろうが、出題文をもって受験生の国語力が判定される以上、たとえ些細であっても見逃されてはならないと考える。
 読解しやすいように出題文を段落ごとに記し、そして、間違った箇所あるいは言語学的に機能しがたい表現には下線を付し、それぞれ、添削あるいはその理由を記してゆく。
 作業に入る前に、次のことを確認しておく。たとえ出題文が作品全体の一部であろうとも、試験場で初めて読まされる受験者のために、その出題文は首尾一貫性をもった完成論文としての体裁が整えられていなければならない。このことは、私が初めて検証を始めた2003年当初から述べている原則である。

 段落1
    フロイトによれば、人間の自己愛は過去に三度ほど大きな痛手をこうむったことがあるという。一度目は、コペルニクスの地動説によって地球が天体宇宙の中心から追放されたときに、二度目は、ダーウィンの進化論によって人類が動物世界の中心から追放されたときに、そして三度目は、フロイト自身の無意識の発見によって自己意識が人間の心的世界の中心から追放されたときに。
 
 段落2

 しかしながら実は、人間の自己愛には、すくなくとももうひとつ、フロイトが語らなかった傷が秘められている。だが、それがどのような傷であるかを語るためには、ここでいささか回り道をして、まずは「ヴェニスの商人」について語らなければならない。

 接続詞の「だが」が不適切に使用されている。「だが」は、先行の事柄に対し、後続の事柄が反対・対立の関係にあることを示す逆説の接続詞である。したがって、「だが」に続く後文の内容は前文の内容との対照、対比、差異(ずれ)のいずれかが示されていなければならない。しかし、先行文と後文との関係はこれらではない。後文は先行文の状況を説明するために生じた新状況の言及である。このような場合の接続詞は何を使用したらよいのだろうか? 前文と後文とのあいだに接続詞がなくても、読解作業は中断されないので、接続詞をあえて置く必要はないのだが、そこをあえて接続詞を使いたいのであれば、「それで」ともしておこうか。

 段落3
 ヴェニスの商人――それは、人類の歴史の中で「ノアの洪水以前」から存在していた商業資本主義の体現者のことである。海をはるかへだてた中国やインドやペルシャまで航海をして絹やコショウや絨毯を安く買い、ヨーロッパに持ちかえって高く売りさばく。遠隔地とヨーロッパとのあいだに存在する価格の差異が、莫大な利潤としてかれの手元に残ることになる。すなわち、ヴェニスの商人が体現している商業資本主義とは、地理的に離れたふたつの国のあいだの価格の差異を媒介して利潤を生み出す方法である。そこでは、利潤は差異から生まれている。
  
 段落4
   だが、経済学という学問は、まさに、このヴェニスの商人を抹殺することから出発した
  
 段落5
     年々の労働こそ、いずれの国においても、年々の生活のために消費されるあらゆる必需品と有用な物資を本源的に供給する基金であり、この必需品と有用な物資は、つねに国民の労働の直接の生産物であるか、またはそれと交換に他の国から輸入したものである。
「国富論」の冒頭にあるこのアダム・スミスの言葉は、一国の富の増大のためには外国貿易からの利潤を貨幣のかたちでチクセキしなければならないとする、重商主義者に対する挑戦状にほかならない。スミスは、一国の富の真の創造者を、遠隔地との価格の差異を媒介して利潤をかせぐ商業資本的活動にではなく、勃興しつつある産業資本主義のもとで汗水たらして労働する人間に見いだしたのである。それは、経済学における「人間主義宣言」であり、これ以後、経済学は「人間」を中心として展開されることになった。

 
 段落6
 たとえば、リカードやマルクスは、スミスのこの人間主義宣言を、あらゆる商品の交換価値はその生産に必要な労働量によって規定されるという労働価値説として定式化した。
 
 段落7  
 実際、リカードやマルクスの眼前で進行しつつあった産業革命は、工場制度による大量生産を可能にし、一人の労働者が生産しうる商品の価値(労働生産性)はその労働者がみずからの生活を維持していくのに必要な消費財の価値(実質賃金率)を大きく上回るようになったのである。労働者が生産するこの剰余価値――それが、かれらが見いだした産業資本主義における利潤の源泉なのであった。もちろん、この利潤は産業資本家によって搾取されてしまうものではあるが、リカードやマルクスはその源泉をあくまでも労働する主体としての人間にもとめていたのである。
 
 段落8
     だが、産業革命から二百五十年を経た今日、ポスト産業資本主義の名のもとに、旧来の産業資本主義の急速な変貌が伝えられている。ポスト産業資本主義――それは、加工食品や繊維製品や機械製品や化学製品のような実体的な工業生産物にかわって、技術、通信、文化、広告、教育、娯楽といったいわば情報そのものを商品化する新たな資本主義の形態であるという。そして、このポスト産業資本主義といわれる事態の喧噪のなかに、われわれは、ふたたびヴェニスの商人の影を見いだすのである。
  
 段落9
     なぜならば、商品としての情報の価値とは、まさに差異そのものが生み出す価値のことだからである。事実、すべての人間が共有している情報とは、その獲得のためにどれだけ労力がかかったとしても、商品としては無価値である。逆に、ある情報が商品として高価に売れるのは、それを利用するひとが他のひととは異なったことが出来るようになるからであり、それはその情報の開発のためにどれほど多くの労働が投入されたかには無関係なのである。
 
 段落九には二つの間違いがある。下線を付した「とは」と「それ」である。まず、「とは」を説明する。「とは」は格助詞の「と」に係助詞の「は」が付いたもので、定義は次の三通りある。

1、 《定義や命題などの主題を示す》・・・・・例文「鼠小僧とは俺のことだ」
2、《強調》・・・・・・・・・・・・・・・・例文「君とは絶交だ」
3、 《驚き・怒り・感動などの気持を表す》・・・例文「まさか受かるとは思ってもいなかった」

下線の「とは」は、これら定義のどれにもあたらず、次のように、係助詞「は」が妥当である。

 事実、すべての人間が共有している情報、その獲得のためにどれだけ労力がかかったとしても、商品としては無価値である。
 
 次に無用な指示詞の「それ」に関して述べる。説明しやすいように、一文のなかに「それ」を2つ使用している段落九内の3番目の文を再度記す。
 
  逆に、ある情報が商品として高価に売れるのは、それを利用するひとが他のひととは異なったことが出来るようになるからであり、それはその情報の開発のためにどれほど多くの労働が投入されたかには無関係なのである。
 
 論文形式文とは書き手自身の意思や説を一方通行的に読み手に伝えなければならない文章である。読み手が経験や心情を書き手と共有できる小説や文学とは違い、想像的空間を異にするのが論文である。別空間で受信する読み手のために、「それ」とは何なのか先行詞として文中に明確に記す義務が、書き手にはあるのである。したがって、論文形式文における指示詞の基本的機能は、先行詞の明記が必要とされる代名詞でなければならない。[代名詞イコール先行詞]という厳格な指示詞使用をもって明確な文を作成することは書き手の義務である。
 以上の理をもって、二つの「それ」は代名詞でなければならない。先行詞は代名詞に先行して必ず存在する、これが代名詞使用の原則である。この原則に則って先行詞をさがすと、前者の先行詞は「ある情報」だと判る。しかし後者の先行詞は見あたらない。しかも、同一文のなかに先行詞がそれぞれ違う同じ代名詞の存在は許されないということも原則である。この原則に則れば、後者の先行詞も「ある情報」でなければならない。しかし、それでは文の意味は通らない。
 では、後者の先行詞は何なのか? 文中に見つからないのであれば、書き手の頭のなかまで探しに行かなければならないが、行けるわけがない。こういう指示詞がいわゆる私が名づけるところの疑似代名詞、つまり書き手の頭のなかにある概念を先行詞とする代名詞である。
 読み手に書き手の頭のなかにある概念が分かるわけもなく、厚意的に推し量って読む義務もない。このドラフト(draft/草案)にはまだ及第点はあげられないと、ここの時点で書き直しなさいとおしかえすのが本来の日本語教育のすがたなのだが、こういう日本語教育のシステムが日本にはない。しかも、センター試験を受験した生徒たちは、この文章は間違っているからと、試験官におしかえすわけにもいかない。不条理である。権威主義社会の不条理さである。この不条理を少しでも糾弾するのが、私が検証作業をする目的であるゆえに、ああ七面倒臭いと、ここで検証作業を放り出すわけにもいかない。
 そこで、最大限の厚意をもって推量すると、後者の「それ」が指し示していることがらは主部の「ある情報が商品として高価に売れるのは」となる。私の推量が正しいと仮定すれば、同一文内に存在する「それ」が指し示している先行詞の一方は「ある情報」で、片方は「ある情報が...売れるのは」ということになるが、こんな書き手の恣意的作文作法が言語学的に通るわけがない。では、どのように添削したらよいのか? 後者の「それ」を削除すればいいだけである。
 指示詞は先行詞が明記された代名詞か否かということを認識しながら書く。これが論文形式文を書く書き手の義務である。――論文形式文における指示詞使用指針は拙本「日本語を教えない国日本」53〜54頁参照-――
 
 段落10
 まさに、ここでも差異が価格を作り出し、したがって、差異が利潤を生み出す。それは、あのヴェニスの商人の資本主義とまったく同じ原理にほかならない。すなわち、このポスト産業資本主義のなかでも、労働する主体としての人間は、商品の価値の創造者としても、一国の富の創造者としても、もはやその場所をもっていないのである。
 
 ここにおける問題も指示詞の恣意的使用である。当然ながら、代名詞は書き手の考えや前文内容の概括をあいまいに指し示すことはできない。ゆえに、読み手が推察しえる「それ」の先行詞は前文全体である。前文の「まさに、...差異が利潤を生み出す」は書き手自身の説である。書き手自身の説は書き手の領域に存するのであり、読み手と心理的に共有できる想像的空間に漂っているわけではない。したがって、ここで書き手が使用できる代名詞は、中称代名詞の「それ」ではなく、近称代名詞の「これ」である。ちなみに、このような前文全体を指し示すことができる「これ」を格別代名詞と、私は名付けている。
 次は「この」の検証である。まず解決しなければならないことは、「この」は連体詞なのか、それとも近称代名詞「これ」の属格なのかという疑問である。そこで次に、指示詞「この」に関して論じている箇所を拙本「日本語を教えない国日本」から抜粋する。
 
 読み手と同じ空間を共有しない書き手が使用する指示詞は、会話体のように表現されている場合をのぞいて、連体詞ではありえない。「この香りは何の香りだろう」と読んだ読み手は当然、この香りとは何なのか文脈から探す。執筆中の書き手がふと頭をあげて、窓からの木犀の香りを、はて何の香りなのだろうと独りごちた言葉とは、読み手は決して思わない。つまり連体詞ではないということである。例外として、同じ空間を共有していない書き手と読み手であっても、共有できる「この」の連体詞使用があることを述べておかなければならない。たとえば、「この地球」「この世界」「この国」「この社会」等である。...中略...しかし、例えば「この社会」は「日本社会」のように、文脈にそって特定する表現はいくらでもある。だから、連体詞「この」の使用を、論文形式文においては、私はあえて禁止する。指示詞を安易に使用する書き手の擁護よりも、曖昧な文章に困惑させられる読み手のほうを擁護するからである。読み手の読解を助ける特定した書き方を、書き手に望むからである(p34)。
 
 よって、論文形式文における「この」は連体詞ではなく、近称代名詞「これ」の属格(英文法でいうところの所有格)と考えるのが妥当である。では、代名詞の属格である「この」が指し示している先行詞は何なのか? 同段落中に先行詞は無い。あえて言えば、「この」は「それ(これと修正済み)」の属格かもしれないという推察はできる。しかし、「この」に[段落10の@文全体を当てても、文の意味は通らない。かえって読解を妨害してくるだけである。
 そこで、先行詞捜索のために「ポスト産業資本主義」という言葉を探して読みもどすと、段落八にあることが判明し、書き手が「この」を使用した理由を理解する。どういうことかというと、「ポスト産業資本主義」については前・前段落の「八」においてすでに述べているので、書き手の頭のなかにある「ポスト産業資本主義」を指して連体詞「この」を付けてしまったのかもしれないと考えられる。ところで、「ポスト産業資本主義」という言葉は定着的に使用されている固有名詞である。話し言葉等の特別な場合をのぞいて固有名詞に連体詞は無用である。よって、「この」は削除が妥当である。
 
   段落11
 いや、さらに言うならば、伝統的な経済学の独壇場であるべきあの産業資本主義社会のなかにおいても、われわれは、抹殺されていたはずのヴェニスの商人の巨大な亡霊を発見しうるのである。
 
 「段落11」における間違いは連体詞「あの」使用である。自分からも相手からも遠い場所にある事柄を指し示す遠称指示詞の「あれ・あの」は、基本的には経験的空間を相互的に共有する者どうしが使用できる話し言葉である。したがって、経験的空間はもとより想像的空間さえ共有しえない論文形式文においては基本的に使用されてはならないのである。
 紙上の言葉を追いかけている読み手にとっては、「段落5」で初めて登場した「産業資本主義」という言葉/概念は、そのものずばりの「産業資本主義」であり、「あの」や「この」や「その」が付加されなければ意味が通じない格別な「産業資本主義」ではない。ところが、書き手にとっては違うらしく、「産業資本主義」には「あの」を付け、「ポスト産業資本主義」には「この」を付けている。おそらく、前者は昔、後者は最近という時の経過をもって、なんとなく遠称や近称の連体詞つけてしまったのであろうが、連体詞にはそういう役目はない。ということで、ここでの添削も、読解を妨害する連体詞を削除するのみである。

   段落12
 産業資本主義――それも、実は、ひとつの遠隔地貿易によって成立している経済機構であったのである。ただし、産業資本主義にとっての遠隔地とは、海のかなたの異国ではなく、一国の内側にある農村のことなのである。
 
 「ひとつ(下線)」が修飾している言葉は「遠隔地貿易」ではなく「経済機構」である。したがって、適切な位置は「経済機構」の前である。あるいは「...経済機構のひとつであった」と後ろに置く表現方法でもよい。
 時制表現の恣意さにも問題がある。「段落12」は産業資本主義時代における過去の出来事の言及であり、「段落12」を構成する二つの文はともに論説文である。過去の出来事の言及であっても、自分の解釈を説明する論説文は、単なる出来事の描写文とは違い、必ずしも過去形でならなければならないというわけではない。とはいえ、文章を構成する文の時制がまちまちでよいはずはなく、統一されていなければならない。
 そこで、どちらに統一されるべきか決定するために、「段落12」のテーマである「産業資本主義」という言葉に注目する。書き手は、産業革命を機に出現した経済活動が「産業資本主義」で、産業革命から250年を経た今日の経済活動が「ポスト産業資本主義」と、述べているので、前者を語るときは過去形で、後者を語るときは現在形で表現するのが適切と考えられる。事実、「ポスト産業資本主義」が語られている「段落8」の文はすべて現在形表現がなされている。というわけで、ここ「段落12」における時制表現は過去形が適切と考える。

  段落13
 産業資本主義の時代、国内の農村にはいまだに共同体的な相互フジョの原理によって維持されている多数の人口がタイリュウしていた。そして、この農村における過剰人口の存在が、工場労働者の生産性の飛躍的な上昇にもかかわらず、彼らが受け取る実質賃金率の水準を低く抑えることになったのである。たとえ工場労働者の不足によってその実質賃金率が上昇しはじめても、農村からただちに人口が都市に流れだし、そこでの賃金率を引き下げてしまうのである。

 修飾語「いまだに(未だに」は[今になっても〜]という意味であるゆえに、[今]はどこの時点に設定されているのだろうかという問題が発生する。「農村に多数の人口がタイリュウしていた」時点は産業資本主義の時代に《なっても》であるので、次のように添削する。

 産業資本主義の時代に《なっても》いまだに、国内の農村には・・・・・・タイリュウしていた。

 接続詞「そして」という言葉の意味は(AそしてB)というような並置の意味もあるが、ここでは文頭についているゆえに接続詞使用である。接続詞「そして」の意味は「そのうえ」である。つまり、前述の事柄を受けてそれに引き続いて起こる事柄を述べるときに用いられる接続詞である。ところが、前文との関連性はそうはなっていない。前文の内容は「農村には多数の人口がいた」であり、後文の内容は「この多数の人口が実質賃金率を低く抑えていた」である。つまり二文の関連性は原因と結果である。原因と結果をつなげる接続詞としては「だから・それゆえ・ゆえに・すなわち・したがって」等がある。
 加えて、ここ「段落13」でも時制表現の間違いがある。「産業資本主義」に関して述べているので、過去形表現とするべきである。添削は、農村の過剰人口が実質賃金率を下げる理由を述べているので、《から》を挿入して、「...引き下げてしまった《から》である」とする。
 
  段落14
  それゆえ、都市の産業資本家は、都市にいながらにして、あたかも遠隔地交易にジュウジしている商業資本家のように、労働生産性と実質賃金率という二つの異なった価値体系の差異を媒介できることになる。もちろん、そのあいだの差異が、利潤として彼らの手元に残ることになる。これが産業資本主義の利潤創出の秘密であり、それはいかに異質に見えようとも、利潤は差異から生まれてくるというあのヴェニスの商人の資本主義とまったく同じ原理にもとづくもののである。

 「段落14」の間違いは、時制表現、無用な連体詞と中称代名詞、そして無用な「こと」と、検証済みの間違いばかりなので、添削文のみを記す。
 
 添削文
    それゆえ、都市の産業資本家は都市にいながらにして、あたかも遠隔地交易にジュウジしている商業資本家のように、労働生産性と実質賃金率という二つの異なった価値体系の差異を媒介できていた。もちろん、それらのあいだの差異が、利潤として彼らの手元に残った。これが産業資本主義の利潤創出の秘密であり、いかに異質に見えようとも、利潤は差異から生まれてくるというヴェニスの商人の資本主義とまったく同じ原理にもとづくものだったのである。

  段落15
 この産業資本主義の利潤創出機構を支えてきた労働生産性と実質賃金率とのあいだの差異は、歴史的に長らく安定していた。農村が膨大な過剰人口を抱えていたからである。そして、この差異の歴史的な安定性が、その背後に「人間」という主体の存在を措定してしまう、伝統的な経済学の「錯覚」を許してしまったのである。
 
 「その背後に人間という主体の存在を措定してしまう」の内容は非常に概念的である。概念的な内容をさらに不明瞭にしているのが「その背後に」という言葉である。いったい「その背後」の「その」とは何を指しているのか? まるで、「人間という主体の存在」を隠している何かが読み手の領域に属しているかのような表現に、読み手の困惑はさらに深まる。読み手は困惑をかかえたまま次段落へとすすめるしかない。
 
  段落16
 かつてマルクスは、人間と人間との社会的な関係によってつくりだされる商品の価値が、商品そのものの価値として実体化されてしまう認識論的錯覚を、商品の物神化と名付けた。その意味で、差異性という抽象的な関係の背後にリカードやマルクス自身が措定してきた主体としての「人間」とは、まさに物神化、いや人神化の産物にほかならないのである。
 
 前段落における「その背後」の「その」が何を指しているのか判明しないままに、「段落16」にきたら、再び「背後」という言葉にであう。「差異性という抽象的な関係の背後」の「背後」である。先行する言葉を指し示すのが指示詞だが、特例的に許すと、前段落における「その」が指し示す先行詞は「差異性という抽象的な関係」なのかもしれないとは推測できる。ということで、読解のために、とりあえずそうしておく。
 さて、「段落16」における大きな問題は下線箇所の内容の矛盾である。書き手は「段落6」において、「リカードやマルクスは...あらゆる商品の交換価値はその生産に必要な労働力によって規定されるという労働価値説として定式化した」と述べているし、さらに「段落7」において、「リカードやマルクスは利潤の源泉を労働する主体としての人間にもとめていた」とも述べている。すなわち、リカードやマルクスが「主体としての人間」を措定してきた場所は、差異性という抽象的な関係の背後でも、何か他の背後でもなく、経済の中心つまり表側だと、書き手自身が述べていたのである。しかし、書き手はこの段落において突然、「差異性いう抽象的な関係の背後にリカードやマルクス自身が措定してきた主体としての人間」と逆のことがらを述べてしまっている。つまり論の破壊である。そこで、論が破壊しないように、下線箇所を次のように添削しておく。

 その意味で、リカードやマルクス自身が措定してきた主体としての「人間」は、実は差異性という抽象的な関係の背後に措定されていたのであり、まさに物神化、いや人神化の産物にほかならないのである。

  段落17 
 差異は差異にすぎない。産業革命から250年、多くの先進資本主義国において、無尽蔵に見えた農村における過剰人口もとうとうコカツしてしまった。実質賃金率が上昇しはじめ、もはや労働生産性と実質賃金率とのあいだの差異を媒介する産業資本主義の原理によっては、利潤を生みだすことが困難になってきたのである。あたえられた差異を媒介するのではなく、みずから媒介すべき差異を意識的に創りだしていかなければ、利潤が生み出せなくなってきたのである。その結果が、差異そのものである情報を商品化していく、現在進行中のポスト産業資本主義という喧噪に満ちた事態にほかならない。
 
  段落18
     差異を媒介して利潤を生み出していたヴェニスの商人――あのヴェニスの商人の資本主義こそ、まさに普遍的な資本主義であったのである。そして、「人間」は、この資本主義の歴史のなかで、一度としてその中心にあったことはなかった。
               
 厳密に言えば、「段落11」検証の際、「〈あれ/あの〉は基本的には経験的空間を相互的に共有する者どうしが使用できる話し言葉である」と述べたように、傍線箇所「ハイフン+あの」表現は不適切と指摘されるべきかもしれない。しかし、ここにおける連体詞表現は、読み手の意識を論文の導入部へと戻し、導入部の論旨を結論部へとつなげる役目をはたし、論旨の一貫性を導くための強調表現として効果をあげている。したがって、連体詞使用の基本的ルールが適用されない例外と考えるべきである。
以上で、検証作業を終わる。