選挙が出した「国民の審判」は改憲反対

参院選の結果を受けて、安倍(敬称略)が「〈改憲〉議論すべきと国民の審判下った」と言ったというニュースを聞いたとき、ニュースから流れてきた数値(自公維あわせても改憲要件の3分の2に満たない)は私の聞き間違いだったのかと思った。


ところが、聞き間違いではなかった。4議席足りないというのが真実である。


子どもたちが学校で分数計算のテストを受けたとき、4ツ足りなければ不正解である。子どもたちがもらうのは〇ではなく、×である。ところが、安倍は〇だという。安倍は強権をもって算数科学さえ覆すことができるのか、それとも基本的な数の概念さえないのか。


たとえ、市井に流れている不正選挙の噂が本当だとしても、選挙の結果、出た数値が表明している国民の意思は改憲反対である。


したがって、改悪するための議論はいっさい必要ない。あえて言えば、そんな議論を施政者にさせてはならない。何故なら、昨今のマスメディア自体が、議論の内容に関する仔細情報を報道するような体質ではないからである。彼らに正義と公平の精神など望みようがないからである。


その証拠が吉本興業の経営陣とお笑い芸人たちとのバトル模様の垂れ流しである。たしかに、吉本興行はコンプライアンスの面で大きな問題をかかえているとしても、地上波を何日も占領するほどの大きな問題ではないだろう。ただし、公的資金によるクールジャパン機構と吉本興行との関係や反社会勢力の問題がとりあげられるのであれば、国民にとって大きな問題だから報道される価値はある。しかし、テレビメディアはあくまでも(お涙頂戴の)単なる内輪もめとして処理している。そうしなければならない癒着的な何かがあるのだろう。

両サイドともに、テレビカメラの前で涙を流せば、すべてチャラと思っているのであろうが、冗談じゃあない。テレビカメラの前ですべてをお笑いにすりかえているものたちは、地上波はおれたちのものと思いあがっているふしがある。利潤ファーストのスポンサー企業も「視聴者イコール消費者」ということを忘れている。

平和あっての「お笑い」! 
平和あっての「経済」! 


つまり、こういうことだ。国民が知らなければならない情報は、どうでもいい低俗情報にすり替えられる恐れがおおいにあるということである。そのまに、改憲派は好き勝手に国民の宝である現行憲法をいじくりほうだいというわけだ。


負けると分かっていた戦争を始めさせられ、原爆を二発も落とされ、沖縄の人々を犠牲にして、他国・自国の人を殺して、殺されて、そんな悲劇の末に、後悔と懺悔の末に、やっとの思いで、日本人がつかんだ日本国憲法である。いまでこそ基本的人権という概念は普通だが、現行憲法以前の日本人には基本的人権さえなかったということを忘れてはならない。