報道の自由を放棄し、国民の知る権利を侵すテレビメディアの罪は、名付けてテレビ作為罪
君、分っていると思うが、視聴者の意識を選挙から逸らせるための手段は?
スポーツ報道をフェスティバル的に何回も放映する・・・
それから?
半導体材料輸出規制等の日韓問題放映を毎日繰り返す・・・
それから?
それからって? 権力に不利になる選挙情報以外で視聴者の情に訴えるものです…
そうだよ。でなければ、飛ばすからな。
テレビ局トップと報道番組ディレクターとの会話内容はこんなふうにでもなるかな?
さて、テレビメディアの傲慢な作為行為は今にはじまったことではないが、参院選がはじまって以来の報道姿勢は「国民の知る権利」に抵触しているとしか言いようがない。
今、山本太郎氏が立ち上げた「れいわ新選組」があつい。彼の街頭演説には多くの聴衆が集まり、彼の演説に耳をかしている。彼の政見放送の内容も濃い。数が集まらなければ実現しない政策だが理にかなっている。彼のあつい行動を私が知ったのはネット情報からである。テレビの情報番組からではない。気をつけて、あちらこちらの情報番組をまわし見しているが、いまだに「れいわ新選組」について報道している情報番組はあらわれていない。ジャニーズがどうのこうのとか、クマ出没がどうのこうのとか、民主主義とは関係ないところで終始させている。
テレビ画面に映るのは目に見える映像であるから、真実だと視聴者は騙される。しかも、真実を隠したいなら放映しなければいい。したがって、テレビほど視聴者を簡単に騙せるメディアはない。これがテレビが行う作為である。
メディアクラシー(mediacracy)という言葉がある。(−cracy)とは「政治・支配(力)」という意味であり、マス・メディアの影響力の大きさを表した言葉である。よって、本来は、マスメディアがもつ権力に対する政治・支配力のことであるが、日本におけるマスメディアは世論をコントロール(支配)するがわになっている。
ところで、報道の自由を放棄し、権力と戦わず、国民を裏切るテレビメディアの行く末はどうなるのか?
メディアといえども、組織細胞の一つ一つは一人の人間である。つまり国民の一人である。家族もいるはずである。自ら「知る権利」を放棄していたら、いずれ、大切な家族もふくめて言論弾圧を受ける側になる。いや、もう受けているのかもしれない。だから、ほんとうのことは放映できないということ、かな?