1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2542)

 仏法の世界への理解が深まる自覚的な思いを「仏法にお育てをいただく」という表現をします。教えに照らし育てられ(照育)、自我(我執)の思いが照らし破られていく(照破)のです。自分が悟ったとか、信心を確立したとか、自分が極めたというような表現を仏法はとらないようです。 仏法の素養のない人はつい「あなたは悟っていますか?」「あなたは信心を持っているのですか?」というような質問を仏法者にしてしまいがちです。そしてその質問に対して仏法の解っている人は「私は悟っています」「私は信心があります」とは多分答えないであろう。そうすると質問者は吾が意を得たりと「あの人でさえ仏法が解っていない、…………………」と変な方向に話が展開する事になります。
 仏法の理論は理知的な人にはその骨格を把握できるであろう。しかし、それは必ずしも仏法が分かったことにはならないのです。ある念仏者が若い頃よき師より「君は本を読めば大体すぐ解るだろう、けれどもそれが君にとっては不幸せかもしれんなあ」と言われたということを聞いたことがあります。わかるとか理解するという意味の定義付けのなんと難しいことかを思わずにはいられません。
 理解する、分かるということに関して以前「一人称的理解」「2人称的理解「3人称的理解」ということを説明したことがありますが、我々の根強い思考方法は物事を対象化し分析的に見ていくという3人称的な把握・理解の訓練によって出来上がっているように思われます。人の痛みを知るとか死の理解がどうしても対象的(他人事)になりがちです。
 同じように自分の姿、実態を知ることのなんと難しいことか。人から指摘されたり、本を読んだり、法話を聞いたりしながら教えられるのですが、指摘されてもすぐには解るものではありません。ある軍人の言葉に「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、誉めてやらねば、人は動かじ」というのがありますが。これに似た手厚い手回しの配慮がなければ我々は自分の姿を解ることは難しいというのが私の実感です。
 理知・分別で3人称的に分かったつもりになり易いのですが、本当に分かるとは1人称的な理解で、そのものと一体となり分かるということになるのです。秋と言うものを本当に分かるのは気温、湿度、田圃の黄色の稲穂、木々の紅葉、空の青さ等の秋と一体となるというかその場に身を置くことによって秋を感得する分かり方を一人称的な理解というのです。
 自分のことだから一体となるということはすでに実現できているではないかと思いがちですが、頭(脳)で分かったつもりになっているのです。知性を一番の拠り所に今の自分を築いて来たという思いの強い人、自信のある人ほどこの思いは強いでしょう。痛い目に合わないと分からないというのは、身につまされて体で分かるわけで、より1人称的理解に近づいていることを示します。 
 たとえば、我々のことを安易に凡夫と言いますが凡夫とは悟りの言葉だそうです。自分のことを凡夫といった時、概念的には少し理解しているのでしょうけど「悟り」「信心を得た」という感じがありますか。自分のことを凡夫といいながら本当の自覚になってないからです。自覚にも「自ら目覚める」と「自らに目覚める」との使い分けが必要です。
 煩悩具足の凡夫ということは、仏からこの私の生きざまを言い当てられた言葉なのです。光に照らされ鏡(経は鏡なり、経はお経、教えです)を見ることによって自分の姿を知り、そして生活の場でその知らされた自分の姿を実感(このことだったのかと)する。そのことが自らに目覚める自覚です。
 その時、教え(経)が専門家の意見を参考に聞くといった程度の受取になるのか、教えに参りましたといって頭を下げざるを得ないという受取りになるのかです。なかなか頭が下がらないのがインテリという人達の長所であり弱点です。 教え(凡夫との指摘)は何度となく耳や目にしているでしょう。しかし、それが身についていないのです。深層の意識の所でこれだけはゆずれないと言う根強い我執が殿(でん)と構えています。そして表面的な無難な所の修正には物わかりが良いように応じるのです。 (続く)

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