2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2542)

(先月の続き)
 唯識という仏教の学派によると我々の心の深層には恒審思量(ごうしんしりょう)といって、恒(つね)につまびらかに思い量(はか)るということを特徴とする末那識(まなしき)という深層意識があり、そこは我執(我痴、我慢、我見、我愛)と言われるところをつかさどり24時間、寝ずの番をして自分という妄念(我執・自我)を維持しようとする働きがあるあると分析されています。
 我執の都合の良いものだけ受取り、耳の痛い内容や、自分の存在を危うくする事は拒否するのです。まさに性能のすぐれたフィルターとして働いているのです。
多くの人は仏法は素晴らしいと聞いてはいるのです。そして教養として仏教を理解することは悪くはないと思っているのです。参考意見として聞いておこうという姿勢をとろうとします。そしてその結果、仏法の教えの表面的な内容は知識として理解していくようになるのです。
私(自我・基本として変わらないと思う私)が仏法を理解しようとする。私の外側に化粧したり、服を着せたりするように知識を増やしていく、しかし、これでは仏法に聞くとか仏法を学ぶことになりません。
 変わらない私・自我に問題ありとするのが仏教です。自我の奥底に(阿頼耶識、第8意識)ある仏性という種子(自分では持っているとは肯定出来ませんが)が教えに照らし育てられることによってまさに発芽するまでに成熟し自我を圧倒し自分の主のようになることで、今まで自分としていた分別(自我)がわき役に転じて行く(照らし破られる)。これがお育てをいただくという表現になるのです。ただ表面的に化粧したり着飾ったりするのではなく根本から大きく変化させられるのです。
 お育てをいただいた結果(発芽)の自覚は自分が今まで暗闇(無明)にいたという自分の心・姿を明かにしてもらうことです。また自分ではないものを自分としていたという気づきでしょう。
信心とは夜明けのようなものです。夜が明けていないと暗闇です。お育てを頂き智慧の眼をいただく(信心をいただく、仏の精神に眼が覚める)と明るく見えるようになるのです。それは夜が明けて明るくなるようなものです。夜が明けても雲がある(煩悩がすたってないということ)とほの暗さは残りますが暗闇とは画然とした違いがあります。夜が明けるか明けないかが大問題です。
夜が明けることを廻心・廻向(自分の思いをひるがえして仏道に向かう)とも表現します。
 私たちは自分という意識を持って以来自分(理知・分別の自分)を主人にしています。そして現実の生活の中で右往左往して、分別に煩悩が絡み悩み苦しむ、そのうろうろするのが自分だと思っていました。
仏法にお育てを頂き、よき師・よき友を通して仏の心(精神)に触れれば、共鳴するように感動(こちらの方に仏の心が響いて来るのが念仏)するようになります。その感動こそ仏の方が我々の方に来て下さって働いている姿(念仏が仏様です)であり、信心ともいえるのです。
頭がよいと内心誇っている人はついまちがえ易いのです。頭で信心を翻訳してしまい、智慧にならずに知識になってしまうのです。頭のよい人でも仏のさとりの智慧はなかなかわからない。だから仏の方が我々にわかるようになって下されたのが念仏(南無阿弥陀仏)。誰にでもわかるようになったのが念仏です。
今まで自分だと思っていた分別が自分ではなく、我々の心が翻されて仏の心をたまわれば仏の心が主人となります。我々の心はお客さんになるのです。
分別を持った自分を主人にしていたのが夜(夜明けでない)であったということです。信の一念で、夜が明けてみれば信心が本当の主人、そこに本当の私が成り立つのです。この世でいろいろ苦労するのは本当の私に成るため、本当の私に出遇うためであるというのもこのことです。
 仏法の世界は世間の世界と対立すると思っていたが、そうではなく仏法は世間の世界を包み込み対立を越えた世界であったのです。

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