3月のご案内(B.E.
Buddhist era 仏暦2542)
「生老病死」の課題に取り組むものとして医療と仏教があります。取り組み方の違いについて考えてみたいと思います。まず自分(我々)の現実と自分の思いえがく(こうありたい私)自分の状態が一致すれば私は私でよかったと喜べます。「現実」と「自分の思い」の差があるから苦しみ悩みとなるのでしょう。我々の現実での色々な取り組みはこの差を小さくしようとする努力と見る事が出来ます。
病気の人が本来の元気な状態へ戻りたいという事は自分の現実(病気)を自分の思い(健康な状態)へ戻して差をなくするという事であります。医療とは、まさに病気の状態を万人の願う健康な状態へ戻すことへの手助け(治療)をする事でしょう。その方法として科学技術の進歩を取り入れ、日進月歩の医療技術の展開になっているところです。
病気を健康の状態に近づける取り組みだけで人間の苦悩を除くことが出来るのはその病気が十分に治癒可能という前提の元に可能なのです。最近話題のバイアグラという薬にしても65歳以上の人が20歳台の元気に戻してくれといっても不可能でしょう。高齢者が老・病・(死)という現実に30歳前後の思いに固執すればその差は大きく苦悩の原因となるでしょう。自分の思いは変化しなくても加齢という身体の現実は、月日の経過と共に変化し、思い(我見)との差は大きくなる一方です。これでは苦悩は大きくなるばかりです。
病気の説明をするとき、病気に関する情報を理解してもらうことと、人間が老い、病気をし、死んでいくということは誰も避けることの出来ない自然なことなのだ、ということを十分にわかってもらうことが大事だと言われています。
看護という仕事は日本では診療の補助という性格が強かったのですが最近、欧米看護の概念が取り入れられ変化しようとしています。診療の補助だけではなく患者さんの病気や健康に関する人間的反応を診断して対応(看護)するという考えです。医者が病気を治療し、人間的な反応を看護婦が看護するというような位置付けでしょうか。病気の治療のみだと技術者としての医者になるかもしれません。しかし「師」という名のつく職業、医師としては医療技術と看護の素養の両方が必要ということでしょう。極端に言うと人間の病気をよくするのか、人間の病気に起因する苦悩を救うのかといことにもなるかもしれません。(上医は国を治し、中医は人を治し、下医は病気を治す等の話にもなりそうですが)
人間の苦悩を少なくするためには悩める人の現実をその人の思いの方に近づける方法と、もう一つその人の思い(自分の執れ、思い過ごし、偏見、間違った見方等)をその人の現実を受容出来る方向に向ける支援をする等の取り組みが大切になるのではないかと思うのです。
宗教で病気を治すということは医学教育受けた者として一部の精神的な影響による病気以外では認めることは出来ません。宗教の方向はその人の「思い」を現実を現実として正しく見る眼を育てるという方向に誘導するということで結果として現実の受容の方向に進むということではないかと考えます。そういう意味では医師と看護婦そして宗教者の協力関係が大事になります。
治癒不可能な老化に関係する病気や癌の末期の状態でも延命治療ということでかなわぬ希望を持たせたり、患者・家族が希望するからと言う理由だけで患者の意に沿って対応して、結果として「思い」と「現実」の差をますます広げて苦しませるような対応をして、こと足れりということをしてないか反省させられることです。
2月の1日、25日(再放送の予定)に NHK のラジオ深夜便(こころの時代)に出させて頂きました、金光さん(NHK)との対談(45分間)「人に会う、法に会う」です。超早朝の4時のニュースの後という事で聞いてくれる人はいるのだろうかと思っていましたら。全国から反響がありました。さすが
NHK とびっくりしています。録音を聞いてみたい方はどうぞ田畑へ連絡下さい。
2月5日「国東ビハーラの会」の研修会を東国東広域国保総合病院で開催しました。日本での唯一のビハーラ病棟のある新潟県の長岡西病院に宗教者として参加されている木曽隆師(浄土真宗の僧侶)の講演をお聞きしました。宗教を抜きにした現代社会の弱点といえる部分への積極的な取り組みに強くこころ打たれました。大分の地にも是非とも光をともしたいという思いを強くし、勇気づけられました。
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