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 大分合同新聞より今回の脳死臓器移植についての感想を求められ次の様な文を書いた。
(合同新聞3月7日朝刊掲載)
 「臓器は誰のものか?。重たい課題である。臓器を提供する人もどうぞ使ってくださいと快く提供し、受ける方も大事に使わせて頂きますと頂く。その授受に関わった人たちも名利の心がなく双方に喜んで頂くよう慎重にお世話をさせて頂きます。こんな臓器移植医療の関係であってほしい。技術があるから、経済力があるから欲望を満足させる医療でどうして悪いかというような思いを持たない関係者の間で成り立つ医療であってほしい。自分の生命や臓器は自分で自由に操作できるという考え方は今まで、なじみのない考え・新しい文化であろう。どの生き方をしなけばならないと他から強制されるのではなく、一人一人が充分に考えいろいろな選択ができるメニューがあることが大切だと思う。」
 
 「説明と同意」(informed consent)等の人権意識への高まりから患者さん本人の意思を尊重して自己決定してもらい、その決定したことを尊重しよう、同時に決めたことには本人に責任を持ってもらおうという訳であります。
 今までの医師へのお任せ医療ではしばしば医師の思いと患者・家族の思いが行き違い、いろいろな摩擦が引き起こされてきたのです。
 このパターンは日本の文化的なモノにも根ざしていることの様で専門家、上に立つ者(政治家、経営者、学者等)へのお任せと市民との関係が同じ様な状況であります。ことが順調に進んでいるときはあまり波風は立たないが、いったん、歯車が狂いだすといろいろなきしみが出てきて、現在のマスコミ等に表れている状態であります。
自己決定ということについて考えてみます。
 人間とは、世話をし、世話をされる関係の間柄を持つ存在が人間といわれる所以であると定義した人がいます。私が一人で決定し責任も持つ、私一人の決定で事足りる、ということは自立した人間の姿でしょう。
 周囲との間柄との絡みはどうなるのでしょうか。親子といえども契約関係でなりたつ西洋的(?)な人間関係では、まさに私一人のことでことは済むのでしょう。日本では臓器移植の適合条件に家族の同意を入れたのはせめてもの良識であったいう仏教者がいます。
 仏法を尋ねてみると「我々」から「私」へ、そして「私」から「我々」への展開があります。いつも隣・周り・世間を気にしていて大衆の中に埋没していた「我々」。その我々の中に埋没させて自分を持たなかった存在から仏法の智慧を頂き自覚し、「独立者」としての自律できる私へ展開がおこります。独立者としての誕生に必然的に備わる思いには「生かされている」ことへの自覚、周囲へ感謝、そして周囲への配慮(仏法のいちばん基本の真理「縁起」が日常の生活で展開する表現が「有り難う、お陰様、済みません」です)があります。そして「友よ」という呼びかけ、慈悲の願い(生きる意味への自覚と生きる力を与えてあなたの生を全うさせたい)を持った呼びかけが展開するようになります。そこには深い満足と通じ会う友の世界が展開します。仏教ではその世界を僧伽(サンガ、samgha)といいます。僧伽の世界での「我々」は独立者の集まりであります。間柄を持つとは独立者、自覚者の間に成り立つ間柄を示していると思われます。人間とはそういう独立者の間柄を持つ存在でありたいものです。
 自己決定は、表面的には大衆に埋没した私か、独立者としての私かは区別はつかないでしょう。しかし、内容に大きな違いがあることが思われます。
 死がゴールであるような「生」はどう生きようともその生は「虚しい」ものになるという。我々は「死」を忘れ、遠ざけ、見ないようにして生活する。それはかえって「生」の輝きを失わせているのではないか。死に裏打ちされた「生」を生きるとき「生」は輝く、そんな実例が最近は本として多く出版されています。
「死」をゴールとした人生では「生きている内が華だ、生きているうちに愉快に明るく、楽しく、欲望を満足させて、利用できるモノは親でも子でもなんでも使って楽しまなければ損だ」というような傾向がなきにしもあらずであります。臓器移植がこんな風潮に巻き込まれないことを願うのであります。

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