5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2542)

 仏教では生死を「越える」とか「超越する」という表現を使いことがよくあります。否定をするという意味とはちがって越えるという表現をするところに大切な意味あいがあるようです。分別を越えるという表現もあります。
 我々が生活するのはこの実人生、実世間です。世間で生活をする場合、大事なのは物事の事象をよく把握し考え、検討して、善悪、有利・不利、損得、長短等を総合的に判断して決断をしていくということです。毎日がその繰り返しであります。そこで大きな働きをするのが我々の脳(知性・理性)であります。
 仏教では我々が一番頼りにしているその知性・理性・分別を越えなさいと勧めるのです。禅宗でも「超越なしの『人間性の枠内』だけの悟り経験など断じてありえない」(秋月龍眠)といっています。越えなさいといわれても我々ははったと困ってしまいます。どうすればよいのでしょう。
いろいろな角度から「越える」「超越」というものを頂いてみますと、禅宗の人が「死んで生きるのが禅の道」という表現をします。キリスト教では「ガラテア書」にイエス・キリストの言葉として「もう私が生きているのではない。キリストが私の内で生きている」と出ています。真宗で「信に死し、願に生きる」という言葉を使うことがあります。
 最近「越える」とは「随順」であるという言葉に出逢いました。海に浮かぶ船を考えて見て下さい。小さな船だと、激しい波浪の中で波に振り回され進退極まって木の葉の如く波にもてあそばされ、揉みくちゃになりついには難破、沈没となることがあるでしょう。大きな船だと少々の波浪の中でも進んで行くことが出来ます。その様(さま)は船の水に沈んだ部分は海水にあたかも船体の身を任せたかの如く荒波に従いながら、一方では海水に沈まない部分は荒波に影響されず(染まらず)着実に進路を進んで行く。荒波に随順していくとはこのようなことでしょう。
 世間の荒波の中を我々がどう進んで行くか? 世間は虚仮不実なる世界だからダメと否定するのではなく、不真面目に取り組むのでもなく、無視するのでもない。世間こそ我々の生きる世界と大切に取り組む、頼りにならない世界だと愚痴を言ったり、振り回されるのではなく随順しながら、かつ世間に染まらないもの持って世間に処していく。虚仮なる世間のまっただ中で真実の世界(法)のあることを分かってほしいと願って「友よ!」とはたらきかけていく。こういうのを世間を越える、随順するというのです。
 仏教では理性・知性・分別の根底に名聞(よい人だと思われたい、悪い人だと言われたくない)利養(損をしないように、得になるように)勝他(勝者になりたい、負けたくない)の「わが身かわいや」という我執があると分析しています。分別を働かして理性的、知性的に対応しているつもりでもつい心の底に名聞・利養・勝他の心が忍びより知らないうちに染まっている。その結果の事象は現代でも歴史上でも数え上げれば切りがありません。いや他人事ではなく我が身の心の底にその片をかいま見ることができます。
 分別を越えるとは世間に処するとき名聞・利養・勝他の無意識のはたらきに振り回されずに(信心をいただき)より純粋に理性的、知性的になることでしょう。現実を我が責任と背負い、逃げも隠れもせず真正面から取り組む。世間的なものに振り回されずにより冷静に理知的になることでしょう。「越える」とは「随順する」という一面を持っています。
 人間世界の世間的な枠内で善悪、損得、勝ち負け、成功失敗等に振り回されている私の実体を指摘されそれを赤裸々にあばきだす大きなはたらきに圧倒され照らし破られる(照破)。照破(出世間、世間を越える)された自覚的感動が「南無阿弥陀仏」「まことなるかな」「真実の世界に出会った」「喜ばしきかな」「悲しきかな」という表現になるのでしょう。
 我々がすべきこと(私の仕事)は教え(智慧、慈悲)に照らされ育てられる(照育)こと、そして照らし破られて行く道、継続一貫の聞法(仏法を聞く)です。すでにこの道を歩かれているよき師・友の導きが大切です。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.