6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2542)

 最近、僧侶の方から現在の日本人は「歳の取り方を学ばずに大人になった」という指摘を聞かせて頂いてびっくりしました。そして歳の取り方を学ばずに大人になった魅力のない大人や老人を見て若者が「あんな大人や老人にはなりたくない」と言うということです。表面的なことしか見ない若者も問題ではあるが、魅力のない大人や老人の方にも問題があります。他人事ではなく自分のこととして。
 歳の取り方を教えるものの一つが仏教であるという。上記の現状の原因に現代教育に宗教教育のすくないこと、そして家庭での仏教の軽視と理解の無さが遠縁にあることが考えられます。戦前の天皇につながる神道教育の結果に懲りて、濁ったたらいの水を捨てたら中の赤ん坊まで一緒に捨ててしまったということになったというのです。
 「歳の取り方」を学んでないから、「長生きしたいですか?」の質問には「はい」と答えるが、「歳を取って老人になりたいですか?」と問うと「いや」と答えることになるという。長生きすれば当然歳をとることになるのだが。
 私自身、そういえば高校生の頃、遮二無二(しゃにむに)大学に入るだけの方向しか持ってなかった。そして学生の頃は職業人になることだけを目指していた。全体を見渡した「歳の取り方」という発想すらなかった。しかし、今、あらためて仏教にお育てを頂いてみると仏教は結果としてこの「歳の取り方」をも教えてくれていたのだと思われます。
 ある念仏者が「あなたがそこにただ居るだけで周りが明るくなり、あなたがそこにただ居るだけでまわりの人の心がやすらぐ、そんなあなたに私はなりたい」と独り言を言っていたという。そういうふうに成った人(成長し成熟した人間、菩薩、仏)に出会うと、そんな翁(おきな)に成りたいと思うのが自然でありましょう。そんな出遇いが現代はなくなったのでしょう。役に立つとか、ものを生産したりお金を稼ぐことだけに価値を見いだし、流転の方向性しか持ってない大人には、存在だけで周りが明るくなり、心安らぐ雰囲気は期待できないでしょう。
 お寺などでの座談で「死んだらどこに往くのでしょうか」という質問がでることがある。これは人生という旅に出発してある駅で「切符を下さい」「どこまで」「さあ、どこに行くのでしょうか」という質問と同じであるという。目的地のない旅、それは旅行ではなく、放浪です。
 自らの「いのち」の行く先(歳の取り方に関係する)がわからないままに、目先のことに追われ、周りの声に右往左往して、世に流されている大人が、子供には「負けるな頑張れ、しっかりやれ」と、叱咤(しった)するだけで、「どちらに進め」と「いのち」の方向をまったく教えない、いや教えるどころか自分すら目的地が分からないで放浪しているので教えることが出来ないのが現状でしょう。その後ろ姿を見ながら後に続く子供や若者はこんな大人になりたくないと思う。
 仏教の十界(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏)の中で人間に相当する範囲を修羅から仏までの幅がある(法然は畜生でなく人間に生まれたことの感動を横川法語で語っています)と考えて見よう。
 仏の世界なんてあるはずがない、50,60年間の人生経験で神や仏が無いということは誰でも気づくはずだと分別あるように発言して、眼に見えるものだけが確かだ、智慧や慈悲のはたらきといっても信用できない。生きている内が華だ、確かな身体を養い、欲望を満足させることが大事なんだ。といって生きる姿を修羅という。競争、弱肉強食の修羅場を生きているのです。「人生苦なり」といえる場です。そこには豊かに歳を取るというような発想はありません。子供や老人には生きにくい社会でしょう。
 仏の世界に眼を向け、仏のはたらきの場(浄土)で生き始める時、世間の尺度を越えた、存在だけで意味を持ち、みず(自)からしから(然)しめられるところに自在に遊戯(ゆげ)する世界を賜るのです。歳を取るのは嫌だと言うのではなく、歳を取ることは自然なことであり、歳と共に智慧、慈悲のはたらき(眼には見えない)を受け菩薩(菩薩の自覚はない)の道を歩ましめられる。そこでは翁(おきな)がその人ならではの輝きを展開させていきます。何でこんな苦労をしなければならないの、重荷を背負いながらどうして生きて行かなければならないのと身を持て余すのではなく、この存在そのものをかたじけないもの「世界一の幸せ者でございます。南無阿弥陀仏」と、おしいただいて行く世界です。
 仏教に育てられるとは自然と豊かに歳の取り方を身につけることでもあるのです。修羅場で生きるか仏の方を向かって生きるか、それは各自の選びです。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.