7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2542)

 現代の教育制度で育ってきた私達は「人間に生まれた意味」とか「苦労しながらでも生きる意味」を見いだすとすればどういう事になるでしょうか。
 前者に対しては意味があるとかないとかいう前に気づいた時にはすでに生まれていた、偶然だ、意味なんて見いだしえないと多くの人は思うだろう。ひどい人(私も以前はそうであった)になれば頼みもしないのに親が勝手に生んでとなる。 後者については今、苦労すると先にきっと好いことがあると明日を夢見て生きるという意味を見いだすのが精一杯であろう。夢を見ることのできない老病死の現実のなかでは暗くなり、愚痴や被害者意識で生きるしかないかもしれません。
 仏教はそういう世界観、人間観に対して、なるほどとうなずかせる世界観(物語を示してくれているように思うのです。
 我々の自己認識や思考の方法はデカルトの自己発見の過程と思考方法に深く影響されています。現代の自然科学や科学技術の方法、そして日常生活での思案・段取り・問題解決において徹底的にそれが貫徹されています。
 そのデカルトの「思考の4規則」とは(1)明晰・判明:私が明証的に真であると認めた(眼・鼻・耳・舌・身体の5官で)ものだけを受け入れる。明晰にかつ判明に、私の精神(意識)に確認できるもの以外は何ものをも、私の判断のうちに取り入れない。(2)問題の分割:課題である問題を理解する為、できるだけ小部分に分かって検討していく。(3)単純から複雑へ:最も単純で認識し易いものから始めて、段階を踏んで複雑なものの認識へと進んでいく。かつ自然のままでは前後の順序をもたぬものの間にさえ順序を想定して進む。(4)全体の通覧:何ものも見落とすことがないと確信しうるほどに、完全な枚挙と、全体にわたる通覧をあらゆる場合に行う。
 デカルトは「私とは何か」という問に「私は一つの実体であって、その本質あるいは本体はただ、考えるということ以外の何ものでもなく、存在する為になんらの場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない。(略)したがって、この「私」というものは、すなわち、私をして私たらしめているところの「精神」は物体から全然分かたれているものであり、さらにまた、精神は物体より認識しやすいものであり、たとえ物体が存在せぬとしても、精神は、それがあるところのものであることをやめないであろう」
 デカルトの発見した純粋なかたちの自己認識は我々が覚醒している時に「私だ」と認識する自己把握であります。逆にこの「自己の精神」以外のものをすべて「物体」として認識する精神と物体の二元論をもたらしたのです。
 私をして私たらしめているのは私の精神(意識)であり、その拠り所は脳であろう。それ故、自分がボケや痴呆になりたくないと思い、脳死臓器移植も合理的である考えがちな理由であります。
 現代的な思考方法からは人間として生まれるメカニズムは解っても「人間として生まれた意味」はなかなか見いだすことは困難でありましょう。
 人間として生まれた意味を仏教の教えから演繹(えんえき)される一つの物語りを考えながらを紹介してみましょう。
 仏教の教えの中に六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)という言葉があります。これを進化論的に考えて地獄とは宇宙の中で地球の誕生から生命の誕生までを示す。地獄とは苦しみの状態、そしていのちのない状態である。餓鬼とはあれが足りない、これがほしいといって取り込むばかりの状態。進化でいうと生命の誕生、単細胞の誕生に相当する。たとえば単細胞の細菌は条件がよければ栄養を取り込み分裂と増殖を繰り返し、死はない。寿命という概念はないのです。単細胞から細胞の集合へそして畜生、動物において始めて性の分化が起こりました。男女の間において始めて子供の誕生、成長、老化、死ということが起こった。しかし、動物では死はあっても死の自覚がない(死を悲しむ等から死の意味を考えることがない)。動物から人間へ進化する事によって始めて死を自覚して、そして死の対極にある生、人間に生まれる意味、生きる意味を考えるようになったのです。それが哲学・宗教へと発展しました。
 仏教では六道を越えて「菩薩」「仏」への展開を教えています。仏とは人間としての成熟・完成を意味しています。仏とは特別の存在ではなく「本当の私」になるという事であります。この世は欲望や主義・主張・思いに振り回されていた私が本当の私に出遇う場なのです。 (続く)

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