8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2542)

(前回の続き)
 法然上人は「横川法語」の中で畜生ではなく人間に生まれたことが「喜ぶべきこと」であるといわれています。仏教の世界観では我々の現実での存在は「六道輪廻の存在」そして「六道輪廻して人生を空過」している存在だとみるのです。それは六道を越えた世界のあるということから見えてくる視点でしょう。我々の現実世界を世間、生死の世界、娑婆(しゃば)等の表現でいいますが、理性知性をよりどころとする視点からはそんな越えた視点は認められません。越えた視点といってもそれも知性の中でないかということになります。
 六道、世間、生死の世界こそ人間の迷いによって真に解決のない状態、業因によって生まれ変わり死に変わり流転を繰り返している世界。親、祖父、その先の祖先の方々は、人間世界の幸せを求めてその時代その時の中で人生を歩まれたであろう。仏法に出会った先人も確かにいたであろう。しかし生きている(世間的な幸せを求める限り)間はいろいろな因、縁によってはたらき(業)が起こり結果として多くは流転であったとなるのでしょう。まさに生まれ変わり死に変わり流転を繰り返してきた、その歴史の最先端に私がいるといううなずきです。
 仏法では、この世に人間として生まれたのは六道,流転を超えて仏になるため(本当の私になるため)に生まれてきたと教えるのです。生まれるとういと,受身的な表現になるが、仏教では生まれるにあたっては「生まれたい」という意志(自(ジ)の業識(ゴッシキ))があっていろいろな因縁が和合して私が生まれてきた。生まれてみたらそこに父母がいたという事実の頷(ウナズ)きになるのです。仏教は事実の機序の説明をするのではなく事実の頷きを大事にするのです。偶然生まれたのだとか、頼みもしないのに勝手に生んでと言うことだとその後の人生が自立というあゆみに成りがたいものになるのです。
 生まれるのも何かわからない内に生まれていた、そして死ぬと言うことは私という存在が無になる,まして冥土,暗い(?)世界(冥福を祈るとは暗い闇の世界に行くあなたが幸せになって欲しいと言う意味、言われた故人は「明るい浄土に来ていますよ、そんなあなたこそ気をつけてね」と言うことになり兼ねない)に行くと言うことになれば、生きているうちが花だ、好き勝手をして楽しまなければということになり、利己的で退廃的になることも避けられないのではないでしょうか。
 観経疏序分義(善導)と言う書物に「(前略)もし父無くんば、能生の因すなわち欠けなん。もし母無くんば,所生の縁すなわちそむきなん。もし二人共無くんば,即ち託生の地を失いてん。(中略)、自らの業識(ゴッシキ)を以って内因となし、父母の精血を以って外縁と為して、因縁和合するが故にこの身あり。この義を以って故に父母の恩重し。」と出ています。
 「自らの業識」で言わんとするのは、われわれが生まれるのは自分の意志で生まれてきたと言うことです。現代科学教育を受けた者はまず拒否反応を起こすでしょう。「こじつけだ」と。仏教は事実をその機序を説明することより「頷(ウナズ)く」「頷ける」ことを大事にするのです。
 生まれることに意味があるのだ、意志があったのだと頷かされる教えとの出遇いです。理知・分別を超えた教え,智慧に照らされて気づかされる頷きなのです。世間的に評価が低くとも,甲斐性がないと世間で評判の親でも私が人間に生まれる縁となってくれた。その事実に「あること難いと喜び」そして恩を感ぜずにおれないと言うことになるのです。それが本当の私というものへの出遇いに通じて行くことになるのです。
 現代の教育を受け、頭でっかちになり、情報は満ちあふれ,知識は増えているのでしょう。しかし、それだけで「生きる力」や「生きる喜び」になっているであろうか。いかに今、裕福で快適であっても老によって萎み、病のよて傷つき、死によって滅びるいのち(身体)を生きる限り、そのいのちは輝きとみずみずしさと充実を失うと教えられています。 (続く)
注:「遇う」という字の心はめったに会うことが難いものに出会うことを「遇う」という表現をします。

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