9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2542)

(前回の続き)
 私とは色々な因と縁(その機序は解っているが、その因と縁の一つ一つを挙げると切りがなく私の思議を越えている、不思議と感動するしかない)が和合して私がこの世に誕生した。今まで(大昔より)生まれ変わり死に変わり流転を繰り返していた私(自の業識)が是非この度は人間に生まれて仏法に出遇い、流転を越え(解脱)て、仏(完成した人間、本当の私)に成りたいという意思を持って漂っていた。この度は多くの縁に恵まれ機縁熟して、そしてたまたま父母を縁としてこの世に誕生させてもらったのです。私の誕生の縁起を仏法の学びを通してそう頷(ウナズ)けてくるのです。
 自分の意思がかなってこの世に生まれて来た。しかし、その意思は世事にかまけて深層意識に埋没してしまう。自分の分別で、この世は思うようにならないことがあまりにも多い、苦労し、苦悩して生きることに意味があるのだろうかと、小賢しく考え、気が落ち込むのです。
 私の理知は苦悩することに意味を見いだせず、できるだけその苦悩を避け、逃げ、先送りしたりして色々と悩むのです。そして自分の周り(世間)を見回し、みんなもそうだから仕方がないと諦める。しかし、そのつけは愚痴や被害者意識となって現れるのです。
 苦悩から解放されようとする取り組みは人間の発想では「どの様にして苦悩を無くせばよいのか」となるのです。
 戦争、貧困、病苦、いじめ、入試、等が苦しみの原因なら、平和を脅かすものを退治して平和を、経済を発達させて貧困から逃れる、医療を発達させて病苦から逃れる、勉強するように励まして賢い人材を育成する。そうです、みんなやっています、やってきました。でもその取り組みは苦悩からの真の解放につながっているのでしょうか………。
 仏法に生きる先輩方は「苦悩は何故、何のために、どこから起こってくるのか」と苦悩の意味を問う方向を示してくれます。「苦悩は真如、一如なる調和の世界に背いているから起こる」。仏の世界から「大いなる世界(仏の世界)に出よ」と呼んでいるのです、これが念仏・南無阿弥陀仏です。苦悩の事実・問題が「私に!」解決を迫って来ていることを示していると教えてくれるのです。
 私が自己中心であり、物の真実を見ないで、都合のよいようにしか考えていない、わが身の愚かさ(智慧がない)に気づくことを迫られているということです。苦しみからのがれたいと願うその自分自身が悩みを作り出している。他に原因があるのではなく自分の思いの中にそれがあるのです。しかし、私が争いや苦悩の原因を作っているということは認めたくないことです。
 一歩ゆずって私も悪い、足りないところもあるだろう。しかし、他(自分以外)に問題がやはりあるのではないか、その解決を図らねばならないのではないか、とわれわれは言いたいのであります。
 私達は理想主義の申し子であります。自分で努力・精進して自分の理想の自分になろうと頑張ります。意外と自分でないもの(もう少し能力ある私、立派な私、等)になろうとしていることが多いのです。仏法が教えることは私が私になる、肩に力をいれずに自然体でよいのです、私が私になりきることです。
 また私に分別は今ここでなくてどこか自分の力が発揮できる所でと。外へ外へと解決を求めて…。「ここが嫌で何処かへ行こうというのが流転輪廻」(沢木興道老師;曹洞宗)
 この世(世間)は苦しみ、悩みが満ち溢れこの世を厭(イト)う気持ちが仏法を求める(厭離(オンリ)穢土(エド)欣求(ゴング)浄土)ということであったかも知れません。しかし、仏法の世界に触れさせて頂くと、この世(かっては厭っていたこの世)こそ、最も大事に取り組まさせていただく場と知らされ、念仏して無心(無我)に与えられた課題に取り組み、与えられた役割を果たすように成るのです。思うようにならないこの世は本当の私に成る場、私に出遇う場といただけるのです。そこに自ずと苦悩・苦労しながらでも生きる意味を知らされるのです。
 北陸のあるお寺で出会った言葉、
「桃栗三年 柿八年 人は一生老いて 身軽に 心安らかに いのち終わる時 仏になる」
(老いる:老成、長老で示す様に成長・成熟を示す)

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