11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2542)

 我々は仏教を学んで(お育てを頂いて)いても、いつのまにか世間の中で振り回され、追い立てられ、世間事に埋没して一喜一憂し、苦しみ、悩むことになります。 世間での課題を何とか解決したい、うまくやりたい、処理したい、自分の思い通りにことを進めたい。時には自分の思い通りという自分の思いが何処にあるのか、どの方向性を目指そうとするのか見通しがつかないこともあります。各種の事業の見とおしは数年先は現状の修正でしのげても変化の激しい時代の流れの中で5・10年先を見とおすと言うことは並大抵のことではありません。
 組織の責任者にとっては建物や設備を将来に向けて整備し、職員には前向きの動機付けが出来るよう配慮しなければなりません。資金も要る、関係者の理解と同意も取り付けなければなりません。しかし、一歩行動に移れば摩擦、きしみが起こる。まさに思うようにいかない(思考が足りなかったり、予定通りにことが進まない等)のです。しかし、現実のこれらの私の課題に対して、仏教で世間的解決を求めようとしてもそれはかなわぬことでしょう。世間の課題は世間的方法で解決の道を模索するしかないです。自分の知性・理性で思索、熟慮して決定行動するしかない。
 これらのことを仏教ではどう受け取って、考えていったらよいのでしょう?
 その前に「君は思索、熟慮しているかね? 背負っているのかね?」とよき師の言葉が返ってくる。そして大事なことは「小さな善悪、評判の良し悪し、損得,勝ち負けに執われないことだよ」と、「君もだいぶ長いこと聞法しただろう、大事なことは何が大切なことかと考えることだよ」とよき師のことが憶念されることであります。何度となく教えられたことなのにいつのまにか現実から逃げようとしたり、自力のはからいの中で振りまわされている自分の姿を知らされることです。南無阿弥仏。
 自分の理性・知性にたよるのを「自力のはからい」と仏教は嫌う。しかし決して理性・知性を悪いというのではない。「たよる」のを嫌うのです。
 「自力にたよる心」を尋ねて見ると、唯信抄文意(親鸞)には、「自力の心をすつ」と言うは、----中略----自らが身をよしと思うこころをすて身をたのまず、あしき心をさがしくかえりみず、また人をよしあしと思う心をすて、一向(じとすぢ)に具縛(ぐばく)の凡夫、----中略-----智慧の名号を信楽(しんぎょう)すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃(ねはん)にいたるなり-----とある。
 参考;「信楽(しんぎょう)」:教えを聞いてうなずき(信じ)喜ぶこと。「具縛(ぐばく)」というはよろずの煩悩にしばられたるわれらなり。
 自分の思いに囚(とら)われ、自分の心を小賢しく省み自己満足や劣等感を抱き、人を良い悪いと言いたい私の心の故に、身と心が振り回され、悩み、一人相撲を取っていたのです。本当にていたらくの私、南無阿弥陀仏。
 よき師より「念仏で切れることが大切だ」とお聞きしたことがあるが、現実の課題に私の心がゆらゆらとゆれるのは私の現実が念仏で切れてないのです。念仏を解ったつもりで、念仏を本当に頂いてない私の姿であった、いや現在そうなのです。南無阿弥陀仏
 善導大師の観経疏の中の「如来の姿」を説いた文「娑婆は苦界なり、六賊常に随い三悪の火坑臨々として入らなんとす、もし足を挙げて以って迷いを救わずば業繋(ごうけ)の牢、何によってか免がるるを得ん」をよき師は解りやすく「娑婆(世間)は苦しみの世界である。六賊とは眼耳鼻舌身意に賊をかかえて、それがいつも付き随って迷わせている。そこで地獄、餓鬼、畜生の三悪道の火の坑(あな)がすぐ目の前にひろがって、その中に今にも落ち込みそうになっている。それが衆生(我々)の姿である。この人生における人間の現実の中に執われて深い迷いを持っている。そして毎日々々を煩悩に追い掛けられて、今や地獄・餓鬼・畜生の苦しみが大きな坑をあけて待っている。火の噴き出しているその中に今にも落ち込みそうになっている。もし仏が足を挙げて迷いを救うことがなかったならば、そのような業に繋がれた牢獄の中にいる衆生(我々)はどうしてこれを免れることができよう。もう今にも三悪道の火坑の中に落ちようとしているではないか。したがって如来は足を挙げて衆生を救うため一歩を踏み出そうとされる、そのお心が如来の心である」としめされている。
 限りなく照らし育てられ、照らし破られて行く、この繰り返しです。それは決して落ち込んで沈み込む世界ではなく、仏教の教え、言葉をそして、よき師・よき友を憶念させられる時を賜る世界です。それは後悔や愚痴の時間ではなく、凡夫としての自覚、そしてそれを自覚させる智慧と慈悲の働きの世界の確かさに感動する世界です。今までの不始末、失敗、到らなさ等も今日の気づきのためには良い縁であったと生き返ってくるような世界を賜るのです。そういう世界を持ちえる時(念仏、申さんと思い立つ心の起こる時)、自分の知性、理性で精一杯考え取り組み行動する、後は仏にお任せ「仏さん御照覧あれ、南無阿弥陀仏」である。念仏で切れるのです。結果は自然の成り行き次第、お任せです、うまくいけば皆様・仏様のおかげ、そうでなければ私の責任であります。 南無阿弥陀仏 (田畑)
   ……信心を頂いたら、それで迷いは無くなるかと言えば、そうではないのですね。信心を頂いていても「迷っては気づき、迷っては気づき」の繰り返しです。ですが、「迷っては気づき、迷っては気づき」を繰り返しながら、信心が深まっていく。……信仰の生活とは、気づきの生活です。気づきというのは、大慈大悲の光のなかで世界を見るということ、仏の目で世界を見るということです。光は、常に私たちを照らしている。我々は「心安らかに、光のなかで、人生を経験するために生まれてきた」のです。生まれてきてよかったと、喜んでおります。(伴戸昇空師「常照我」の法話より)

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