12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2542)

 気象エッセイスト倉嶋 厚氏が某新聞にエッセイを定期的に書かれていますが、最近の記事で「心眼を覆うベール、謙虚こそ成長の道」と言う見出しで書かれた記事が心に留まりました。内容は、気象学を学んだあと帰省(長野県)した折に長野の山々にかかる雲の色々な変化に感動したと言う内容です。しかし考えてみると中学生のとき五年間毎日通学した道から同じ場面は何回も眺めていた風景であったのにという。そして「発見を英語ではデイスカバ-という。カバーは『覆い』『ふた』で、デイスは『除く』『不---』『非---』などを意味する接頭辞である。つまりデイスカバーとはカバーを取り除くことである。その取り除くべきカバーは、発見される事物を覆っているのではなく、多くは見る人の心眼の前に垂れ下がっているのだ。私にはまだまだ見ながら見てないものが沢山ある。人生の事柄を処するには、もっともっと謙虚でなければならぬ。とその時、思ったのだ。『人生ってこんなもんだ』と高をくくった時から、その人の停滞と後退が始まる。デイスカバーを忘れない限り、人は何歳になっても青春の中にいるのではないだろうか。」と書いておられる。
 このことで思われることですが、我々は物事を見るのに眼で見ますが、同じものを見ても見る人の意識によって色々と見え方が違う事は多く経験してきたことと思います。
 仏教では物を見る時、照らす光と見る眼を問題にします。光に関しては世間的(普通の)な光では表面は照らし出すが影の所は照らすことが出来ません。浄土(仏のはたらきの働いている場)の光は表裏を貫き通すと表現しています、物事をくまなく照らし出すと言うことを表しているようです。
 一方眼に関して、我々は世間的な世界では煩悩(我痴、我見、我慢、我愛)の判断に立ってそれを圧倒的に良し、その上に作った人間の幸せを良しとし、正当化する「煩悩の眼」を持っています。人間の要求(煩悩の要求)と価値分別という解釈によってくらまされている私の眼がいかに良く見てもそれは歪められて見えている可能性が大きいのです。
 見られる事実はひとつです。それを照らす光と見る眼によって、見え方が大きく違うのは科学的合理主義でも謙虚になれば(前記、倉嶋氏の言われる如く)気づくところであります。
 仏教では無明(智慧・光の無いこと)を大きく問題にします。光がない暗闇では眼がいくら良くても物は見えません。秋吉台の鍾乳洞の奥では光が入らないために、ある生物には眼がなくなっている(退化している)と聞いたことがあります。光によって眼も育てられると言うこともいえるのでしょう。
 仏教では光(光明無量・智慧)によって物事が良く照らし出され、そしてそれを見る眼も育てられるといいます。
 仏の智慧と言う無量光(限りない光)を認めないという立場では理解できない世界と言うことになります。しかし、不思議にも仏教を認めないという人の立場、考え方が仏教に触れて見るとよく見えるのです。そんな世界に触れないということはさびしいし、悲しく、勿体無いことに思われます。
 仏教的な土徳(土地、場所の持つ雰囲気・歴史)の無いところで育つと仏教の光に照らされないまま成長することになり、仏教的な眼を持ち得ないまま生活することになります。世間一般での生活は仏教が無くても生活をしている人がほとんどです。(最近(H11年)の若者の宗教意識調査で大学生でいわゆる信仰をもつ人は約7%でした。)
 私達は本当の宝・価値あるものを求めているが照らす光に気づかず見る力(眼)も無いために見えないのです。そしてまわりを見まわして多くの人が尊ぶもので代用しているのです。歳を重ねると煩悩の欲求を満たしてもきりのないことにも気づかされてきます。でも生身を抱え同じ事を繰り返し(流転)ています。無明(智慧・光が無いこと)性の故に自分の存在の意味(人間に生まれた意味、生きることの意味)をも見出せずに、心さびしく、心狭く生きているのです。
 仏の光に照らし出される時、人間の分別が踏み台にしたり、無視している物にも本来の尊さ、本来の輝ける意味を教えられるのです。そして仏のはたらきの実であるのとに頷(うなず)け感動するのです。それは生きる勇気と、意欲をもたらすのです。
 自分の現実を不平不満の愚痴の場所とするのでなく、自分の現実・存在を尊いものとして仰げるような智慧こそ最高の宝でしょう。
 参照;(1)我痴:智慧のないさま、(2)我見:自分の考え、見方にとらわれること、(3)我慢:人と比べて優越感、劣等感等にとらわれる様、(4)我愛:無意識のうちに自分の利益、自分のためということを考える。

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