2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2543)

 蓮如上人の語録に御一代記聞書(ききがき)があります。その最初の章に「道徳(弟子の名前)はいくつになるぞ、道徳、念仏申さるべし。自力の念仏というは、念仏多く申して仏にまいらせ、この申したる功徳にて仏の助けたまわんずるように思うて、称ふるなり、他力というは、弥陀をたのむ一念の発(おこ)る時やがて御助けにあづかるなり。その後、念仏申すは、御助けありたるありがたさありがたさと思う心を喜びて南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すばかりなり、されば他力というは他のちからというこころなり、この一念、臨終まで通りて往生するなり」という文章が出ています。
 念仏(南無阿弥陀仏)をどういただくかが仏教、浄土教の理解の中心課題です。南無は帰依、帰命という意味で阿弥陀仏は無量の智慧と慈悲を表すと理解して行くわけですが、しかし、南無と阿弥陀仏に分けては念仏の頂き(頷き)にならないのです。 あつい熱湯に間違って手を漬けた時「アッチイ!」といって手を引きます。熱湯に触れると手を引く、触れることと手を引くことは一連のこととして分けられないように、阿弥陀仏に触れるものは南無という姿勢をとるのです。だから南無阿弥陀仏となるのです。
 すると阿弥陀仏とは何かと言うことになります。光明無量(智慧)、寿命無量(慈悲)のはたらきです。
 浄土の光は表裏を貫き通す、というようにあらゆるものを照らし出す、我々にいろんなものを照らし出して教えてくれるのです。そして我々を照らし育ててくれるのです(教化)。そして種子が殻を破って発芽するように私の殻(我執)を照らし破るのです。
 仏のはたらき(慈悲)は我々の流転の生きざま(地獄・餓鬼・畜生の状態)を悲しみ、本当の人間たらしめたい、成熟した人間、心温かな人間になってほしいと働きかけて止まないのです。
 阿弥陀仏のはたらきをどう理解して頷(うなず)くかが課題です。「私が−−を理解する」というと私の理解の範疇(はんちゅう)に入るものという前提で考えていますので自分の思考を越えたものは把握できません。無量という言葉で表現されていることは(量が無いではなく、量という概念を越えているということ)我々の思考を越えたものを表現しているのです。そういうはたらきに触れれば圧倒されるか頭を下げざるを得ないということになるのです。
 そういうはたらきをこころに持つ人、教え、言葉との出合いが貴重なわけです。釈尊もそのはたらきとの出会いによって仏たらしめられたのです。いわゆる高僧がた、そして法然、親鸞、さらによき師、よき友もそのはたらきに揺り動かされ、生かされて来たのです。そしてその伝統の歴史の最先端で今我々に刻一刻はたらいて、はたらきかけているのです。我々は生まれて以来どっぷりと理性と煩悩を基盤にした考え方に洗脳されてきているわけですから、なかなか仏教のはたらきを受け付けません。
 南無阿弥陀仏の謂(いわ)れが私の心に受け取ることが出来るのが信心です。人それぞれの縁で南無阿弥陀仏のはたらきに触れ、引きつけられ、南無阿弥陀仏に向かう心になる。よき師・よき友の念仏する姿に触れ、南無阿弥陀仏のはたらきがすこしづつ頂ける。よき師を通して仏の我々に対する願いが聞こえてくるのです。「南無阿弥陀仏」と仏に向かう心が起こって、「南無阿弥陀仏」と心から仏の名を呼ぶようになるのです。これが「信心まことに得る人」です。
 我々の口から南無阿弥陀仏が出る(称える)ということは、浄土からの仏の心が伝わってくるのです。「称」という字は物をはかるハカリという意味があり、念仏するとき仏と私がつり合うのです。それを念仏するとき私が仏のはたらきの場になると表現されています。念仏するとき仏さんの心が私に上に具(そな)わるのです、そして、私は仏の願いに生かして頂くようになるのです。
 その念仏を悟りの為の道具にしたり、心を静める呪文にしたり、心がこもってない、無心でない、等々自分の計らいで善し悪しと賢(かしこ)げに分別してしまいがちになる我々です。そういう現実を見つめて念仏申せとよき師は念仏を勧められているのです、南無阿弥陀仏。

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