3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2543)

 自分が生まれた事をどういただくか(受け取るか)が生きることの主体性に大きく関係するようです。自分は両親が勝手に生んだとか、頼みもしないのにと言うことだとスタートがしっかりしてないが為にその後の生きることの歩みが危ういことになりがちです。時には操(あやつ)り人形的に主体性のない生き方に成り、成人後も親の育て方が悪かったと愚痴を言ったりして周囲を困惑させる事にもなります。
 科学的(現代的)な思考過程では、男女の交わりで精子と卵子の出会いが起こり、その後分裂を繰り返し子宮内で発育して、時期が来て出産、ヒト・人間の誕生となる。その機序の説明は生物学的・医学的な知見が蓄積され非常に詳しく出来るようになって来ました。しかし、私が生まれたことの意味や、その頷きは出てきそうにありません。その結果、生きる意味も失せがちになります。
 我々の考えでは、いまさら生まれた意味など考えるよりはこの現実世界で豊かに快適に便利な生活(衣・食・住・健康等)をするために外の色々な条件(政治・経済・社会等)を整えることを考えた方がよいと考え、ひたすら競争原理の社会を生き抜くために上を目指して前進します。順境の時は貪欲(トンヨク)に振り回され、逆境の時は瞋恚(シンニ)の炎に身をこがします。限りなく利己的で時には虚無的や退廃的になることも避けられません。
 しかし仏教を学んで見ると、現在を力強く,自信をもって主体的に生きるためには,自分の生まれた意味、そして生きる意味の自分なりの頷きが大切だと教えているようです。合理的に生まれたことや生きることの事象の説明ができたり、理解が出来ても,生きる力にはなりそうにありません。やはり産まれたことや生きる意味を頷けるというか納得できることが大事だと思われます。
 遺伝子等を研究している学者が学生に受精卵の染色体(23対ある)の組み合わせ(母と父からの染色体の一部が色々な割合でコピーされて新しく出来る)の可能性を計算してもらったら70兆の組み合わせがあることがわかったという。私という存在は両親から70兆の可能性のある中からひとつが選ばれ(?)私となったということになります。70兆分の一ということは限りなくゼロに近いということです。ゼロとは私が存在しないということです。あることが難しいということです。
 仏教の書によると生まれたことについて「自の業識(ごっしき)を内因とし,父母の精血を外縁として、因縁和合して私が生まれた」と言う記述がなされています。
「自の業識」とは私が生まれたいという意志を持って生まれたと言うことです。生まれたいという意志(因)があって,たまたま父母を縁として色々な条件がそろって私が生まれたというのです。
 そんなことどうして頷けるか?、科学的・合理的でない、納得できない!。
 私は自分の身体を一番の頼りにして私を取り巻く色々の条件(社会的,経済的,家庭的等)を整備して豊かな人生を生きていこうとしています。自分の思い通りにするには並大抵の事では出来ません。情報をできるだけ集め、自分で考え,自分を鍛え,自分で努力して -------- 頑張ります。時間をかけてある程度存在位置を確保できたとしてもそれを維持することはやはり大変です。順調に行っていると思ったのはつかの間、天人五衰の例えの如く老病死の前には不安は避けられません。人生を懸けて馬車馬の如く頑張ったのはいたいなんだったのか!?と臨終の病床で愚痴を言って涙するとしても甲斐なき事であります。しかし、うすうす私の生き様(姿)が流転・空過(虚しく過ぎる)と分かっても止めることができないのがこの世間です。
 今までの人生で、若い頃からこれが解決したら、この課題にきりがついたら、ここで頑張っていればもっと楽になる、安心できるはずと、繰り返しやってきたような気がします。10年前、5年前,現在、比べてみて自分の気持ちは予定したように楽になってきただろうか??。1年後、2年後、5年後はどうだろうか?。あまり変わりそうにありませんね。きりがない、繰り返しだな。流転・空過としか言いようがない。
 現実の私の姿・実態を知らされる時、今まで生まれ変わり、死に変わり流転を繰り返して来たに違いない(流転を繰り返しその歴史の最先端に今私がいる)と頷ける。この度(今の生で)人間に生まれたのを機会に仏法に出遇い流転を超える(解脱)ことがなかったら、また流転を繰り返すに違いない。このたびは完全燃焼して私は私で良かったと言える人生を生ききりたい。(涅槃とは燃え尽きた寂滅の世界)
 そのうち、明日こそと流転を繰り返してきた私は「何時かヒトに生まれて人間になり仏法に出遇い解脱をする機会を得たい」と人間に生まれることを待ち望みヒトに生まれる機会を待っていた。生まれたいという意志をもっていたのだ。この度はヒト・人間に生まれさせていただいた(本来ならゼロでも仕方ないところを)。仏になるため(完成した人間・本当の私になるため)生まれてきたのです。この機会(千載一遇)を大切に仏法に教えられ、照らし育てられ、照らし破られる、完全燃焼の人生を歩みたい。こういう思いを「自らの業識」と表現していると思われます。
 親にあんなに文句をいい、反抗した、内心こんな親はいないほうが良い、こんな親の元に産まれたくなかった等と思ったこともある。私はこんな親にふさわしくない、モットましな親にふさわしい私と傲慢な私であった。そんな子(私)をこの父母は産んでくれた。こんな子は生まなかった方が良かったと思わせるような,心の内面では親に反抗した親不孝の私だったのに。そういう自分の姿が智慧(無量光)に照らし出される時、限りなく自分の凡夫性(罪悪深重)に気づかされる、打ちのめされる。頭を下げざるをえない。その私を摂取不捨する働き(慈悲・無量寿)に触れる時,仏(智慧と慈悲)の世界を生きていきます!。無量光・無量寿(阿弥陀仏)の世界(浄土)を生きます(南無)。南無阿弥陀仏となる。
 生まれることに深い意味があった。意志があったと頷かされる時。それが本当の私への出遇いに通じて、本当の私になって行く。この人生で私は私に成りきり,燃え尽きて涅槃(如,真如,心の故郷,本来の世界,生まれ来った世界)に入る,南無阿弥陀仏。

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