4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2543)

 某大学の仏教学の最初の授業で次の物語についての質問をするという。
 「二人の裁判官の話というのをご存じですか? 食後、A裁判官がB裁判官に『あの被告をあなただったらどう裁きますか』と尋ねました。B裁判官は、『被告の身内である私にはこの質問に答えられないことをあなたはご存じのはずです。なぜなら、被告の実父は5年前亡くなっていますし、被告は私の実の子供でもあるからです』と答えたそうです。」 さて、たったひとことで誰にでも分かりやすく説明してください。
 実際、2,3回読んで考えてみてください!。
考えてみるとなかなか難しいですね、どう理解したらよいのだろう???「実の父はすでに死んでいるというのに、裁判官の子という????」
 自分が思いこんでいたり、とらわれていると以外と問題の理解を難しくしているのです。そして、自分の間違い、偏見、先入観、とらわれに気づかないのです。答えは簡単です一番最後の所に書いておきます。
 自分がとらわれている。思いこんでいたと気づいたら、正しい理解への道は近いと言うことです。とらわれに気づかせてくれたのは、とらわれていた私の思考能力や努力でしょうか。気づかせてくれたのは私の都合、とらわれを超えた「あるがままの世界である、事実そのもの」が教えてくれていたのです。「あるがまま」の世界、自然(仏教ではジネンと読む)、自は「おのずから」、然は「しからしめる」、「あるがまま」ということであります。
 私たちは世間の合理的、科学的、経験的な考え方に洗脳(?)されて、とらわれ、先入観、希望的観測等に歪められて物事が正しく見えてない可能性があるのです。釈尊は八正道としてその最初に「正見」といって「あるがまま、事実をそのまま受け入れること、正しく見ること」をすべての基本として示しています。「あるがまま」の世界が我々の思いに歪められた眼で見える世界を正そうとしているのです。我々を目覚めさせようとしているのです。偏見によって見えなくなっている眼を目覚めさせようとしているのです。目には見えないが我々を目覚めさせようとする世界があるのです。事実がゆがみを正してくれるのです。そんな世界はないと思いこんでいる我々ではないでしょうか。
 世間の見方は「ものの(表面の)価値を計算する見方である」仏教の見方は「そのものに宿している意味を感得する見方である」と教えてもらったことがあります。見えないけどある(見える世界は見えない世界によって支えられている)といえる世界です。
 「勿体ない」とは体(姿)がない、わけではない(勿)、ということは二重否定で肯定になるのです。姿はないけど「ある」という、目に見えない世界を表現しているのです。
 自分のものの見方が正しいと思い、どっぷりと世間の常識に浸かりきって、その自分の見方が唯一である思いこみ、とらわれていることに気づけないために、当たり前のことを分からないと考えてしまうのです。
 自分の当然、当たり前と思っている考え方、受け取りが智慧(無量光)で照らされ間違いを指摘され、偏見だと気づかされる。その積み重ねで、教えに照らされる、照らし破られる。よき師・友を通して具体的なはたらきに圧倒される時、その教えに頷かざるを得ないのです。プライド(誇り)が高い故、自分を見る目が甘い故、なかなか頭を下げて「参った」といえないのです。
 少し仏教に触れその考え方を自分に取り込み、学んだ見解を自分のものとして厚かましくも私有化する。そんな知識はいくら頭に蓄えても自分の心を揺り動かすものでないならば、人の心も揺り動かさない。自分の心を揺り動かすのは自分を超えた、分別を超えたとしか表現できない世界(仏の世界)である。自分の分別でつかんだとたんに自分より小さいものになるのである、それ故私有化出来るのであろう。大きなもの、自分を超えたものは私有化できない、ぶちあたって感動・感得する、圧倒される。そんな世界との出遇いは感動として讃嘆する(南無阿弥陀仏と念仏する)しかないのである。
 答え:「Bさんは被告の母親」。裁判官は男の職業だという思い込みが問題なのです。

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