5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2543)

 世間では歳を重ねる毎に、他人から注意されたり、意見されることが少なくなる。信心の課題でも同じことが言える。そこで、求道する者の心構えとして蓮如上人の言葉にも「人に直され候ように心中を持つべし、」とある。更に人から注意された時,すぐに感情的に「そんなはずがない」等、反論すると相手はその後、忠告はしてくれなくなる。当座は不本意でも十分拝聴しなさい、とこまやかに教えられている。
 意見されても、素直に受け取れるだけの頭の柔らかさが必要である。世間では経験,知識を積み重ねると心を耕し頭が柔らかになる方向ではなく,かえって経験,知識に捕らわれて年齢を重ねる毎に頭が硬直化することも多い。歴史を見ても事業等がうまくいって成功したとなると、その成功経験が次にはかえって障害になる例は多く見られる
 仏教の智慧を幸いいただき、仏(目覚めさせるもの)教との接点を持つと,絶えず日々新たな一日をいただき,今・今日を大切に念仏のたび(念仏申さんと思い立つ心の起こる時)に智慧の光に照育,照破され仏との通じ合う(一体となる)世界をいただく。
 よき師.良き友,御同行が仏法との出遇いを讃嘆するのを聞いて、教えられ,自分の姿を照らし知らされる。教えが知識の集積につながるのではなく自覚につながることが非常に大事である。
 聞法することによって,教えを理解し,教えの言葉をいただく、時には頷き,聞法を繰り返すことによって、教えが血や肉になる(身につく)。それゆえ,日常の出来事を通して教えの意味を頷くことや、教えがさらに深く頂けることもある。日常生活の行動・思考の一つ一つが聞法の場でもある。
 マンネリ化しやすい日常性の中で「教え」は新鮮な風となり、日常性のよどみを浄化する。目覚めは一度すればもう終わりと資格か免許を取るようなものとは違うのである。ある一面からいえば、限りなく目覚めるというか目覚めさせられる世界です。念仏・憶念の生活をするところに限りなく仏の智慧との通じ合い浄化される世界を賜るのです。
 人間の思いがすこしづつ実現するような感覚を持たせる現代社会の日々の生活は、安定した、見通しのつく道を歩んで行くような錯覚を持たせるが決してそうではない。「人生とは取り返しのつかない決断の連続である」と言うが如く、先は未知数である、我々の希望的観測で現状維持そして改善へいう夢を見ているのである。小渕前首相の病気はそういう事実をまさに見せてくた。我々は時代・時間の最先端を歩くという一面の不安はあるが、何が出てこようと受け止めるぞという人間としての幅の広さ、懐の広さ・深さ(仏法によって培われる)が大事なのです。限りなく教えに照らされる「今・今日」の生活の積み重ねが人生であり、その積み重ねの中に、人間としての成長・成熟を客観的に伴う、それは世間で言う老化(衰え)ではない、まさに質的に老成・成熟である。
 老人が若者を無理に演じると卑しいものになるとある人が発言していたが、若さ、元気さが決してプラス価値ではなく、歳相応に成熟することが人間としての自然な姿ではないだろうか。「見た目より若いですね」とは喜ぶべき言葉ではなく、歳、相応に成熟せずに軽く、低く見られるというまさに低く評価された言葉として受け取るべきであろう。
 世阿弥の言う「初心忘するべからず」とはその歳その歳の初心を忘れるなと言う意味であるが、仏教にお育てを頂くところには、人間としての成長・成熟があってその各段階での見るもの、聞くものへの新鮮さ(驚きやすさ、感動)が必然的に具わる。「初心忘するべからず」は労せずして仏法の世界で賜る世界である。真実の言葉への感受性が高くなることが大事である。真実の言葉は身体に響くのである。
 仏法が分かるためには人間としての人生経験がどうしても必要なのであろう。世間の現実をいやと言うほど実感し、いろんな場面で仏法への感受性が高まる。そして仏法と出会い、いったん突破口(仏のはたらきと通じる世界)を持つと,多くのことへの感受性が高まる、そして驚きやすくなるのである。
 仏教は被教育者としての歩みである。教育・教化される自分としての頷ずける大きな世界(仏法)への気づき・目覚め、豊らかなる人格との出遇い、それは感化されずにはおれないのです。
 教え、知識はいろいろあるが自分の自覚・目覚めにつながるかどうかが鍵である。

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